第七章「君が為ー淋しさの隣ー」
青葉は天を仰ぎ、一度呼吸を整えた。
和真の心に、小さくても光を届けられた──
その安堵の奥で、胸のどこかが微かにざわつく。
理由の分からない影が、心の片隅にそっと沈んだ。
シンはその揺らぎを、代償が青葉に与える“陰”だと悟る。
代行者にも、僅かとはいえ痛みは降りる。
「青葉、少しの間は私が見守る。……休むのだ」
青葉は即座に首を振った。
「ダメだよ。もっと光を灯さないと──」
シンはふっと表情をやわらげ、青葉の瞳を静かに覗き込んだ。
「だからこそ、今は休む。……良いな?」
その声に、青葉は目線を落とすと、
迷いながらもゆっくりと頷いた。
今日の月は、どこか淋しく見えた。
ピピピッ──
アラームに起こされた和真は、カーテンを引く。
朝日が瞳に差し込み、思わず目を細めた。
窓辺には小鳥が一羽。
その姿に、ふっと口元が緩む。
トーストを焼き、フライパンに卵を落とすと、弾ける音がいつもより少し鮮やかに響いた。
掃除のこと。
甘える強さ。
ちゃんと食べるという約束。
昨夜の真央の言葉が、和真の足取りをわずかに軽くする。
焼き上がった目玉焼きをトーストへ乗せ、大きくかぶりついた。
「……ん」
普通の朝なのに、どこか不思議だった。
支度を整え、朝日に照らされながら学校へ走る。
穏やかな風が背中を押した。
教室に入ると、いつも通りの賑やかさに包まれた。
友人たちが自然と和真の周りに集まり、笑い声が重なる。
その中で、葵と鈴花が教室へ入ってくるのが見えた。
目が、そちらへ向いてしまう。
昨日の葵の笑顔に潜んでいた影──
その理由を知りたくなっていた。
休み時間のたびに、気付けば視線が葵を探す。
鈴花の隣で楽しそうに笑う葵。
本当に楽しそうなのに、その自然さが逆に痛みを隠している気がした。
……自分と同じように。
昼休み。
いつものように学食を終え、缶コーヒーを片手に屋上の扉を開けた。
風が抜け、空が広い。
心の底をそっと撫でるような時間。
ちょうどお弁当を終えた葵が、ふと和真を見つけて手招きした。
近づくと、袋から手作りのクッキーを取り出した。
「昨日いろいろ迷惑かけたから……その──」
和真は瞬きを繰り返し、こめかみをぽりぽりと掻いた。
受け取らないまま固まる和真を、鈴花はじっと見つめた。
けれど胸の奥では、小さな痛みがそっと揺れた。
葵の視線がブラックの缶コーヒーに触れた瞬間──
「あっ……」
眉間に寄った皺。
握る指先に、ぎゅっと力が入る。
「甘いの、苦手なのに……ごめんね」
袋の下から、絆創膏が覗いた。
和真は反射的に手を伸ばしていた。
「ありがとう。コーヒーがあれば……甘いの、ちょっとはいけるから」
葵の顔がぱっと明るくなる。
その変化に、和真はほっと息をついた。
陰りのない笑顔だった。
──その明るさを見つめるもう一つの視線があることに、和真は気付けずにいた。
鈴花の手の中にも、同じクッキーの袋。
ずっと自分だけが葵の“特別”だったはず。
いつの間にか、自分だけではなくなっている。
胸の奥が、ちくりと疼いた。
和真と葵の笑い合う声が、屋上の風に溶けていく。
二人の笑顔に差し込む光が、どうしてか自分だけを置き去りにしていく気がした。
微かに震える手が視界へ入ると、思わず立ち上がっていた。
「……鈴花?」
「ちょっと、トイレ……行ってくる」
風に押されるように、早足でその場を離れた。
屋上の扉がバタンと閉じる。
その音に、胸の内で鼓動が荒く波打った。
知らない恐怖が、足元からじわりと迫ってくるようだった。
葵の表情に、また寂しさが滲んでいた。
和真は隣に腰を下ろし、そっと葵の手元へ視線を落とす。
絆創膏の下で、きっと痛む手でクッキーを作ったのだろう。
その姿がぼんやりと浮かぶ。
「……こういうの、よくやるの?」
「え?」
「迷惑かけたと思ったら……こうして、お礼みたいなの」
葵は少し照れたように笑って頷く。
「うん。鈴花にはよく……でも、鈴花以外なら和真が初めて」
笑っているのに、瞳の奥に切なさがある。
その微かな影が、胸をぎゅっと締め付けた。
「……無理に笑わなくていいよ。
なんか……わかるから。
話したくなったら、いつでも聞くし……」
無理に笑っていた昔の自分を、葵の中に見てしまった。
ふっと葵の肩から力が抜ける。
瞬きを繰り返すと、目元がじんわりと熱を帯びていく。
気付けば、涙が静かに溢れていた。
和真は何も言わず、ハンカチを差し出した。
視線はただ前へ向けたまま、涙の落ちる音だけを受け止める。
風が二人の頬を優しく撫でていった。
ひらりと舞った蝶が、ベンチの脇にそっと止まる。
まるで、涙に寄り添うように──




