第七章「君が為 ー ヒカリー 」
「お疲れ様でした」
アルバイトを終え、和真はゆっくり家路へと向かった。
もう慣れた静かなひと時。
いつものように缶コーヒーを片手に、暗い夜道を歩く。
コーヒーの苦さから、学校での出来事がふっと頭をよぎった。
葵の――笑顔の奥の、揺らぐ瞳。
震える手。
肩のこわばり。
弱さを必死で隠しているのが、はっきり見て取れる。
張りぼての自分と、どうしても重なってしまった。
「苦いな……」
いつもより苦味が深く感じられた。
足が止まり、溜め息が漏れる。
青葉は胸の前で両手をぎゅっと握り、
和真の心の闇へ向かって、そっと光を灯し続けていた。
「シン……和真さんの中、痛いの。棘が、光を拒んでるみたい……」
触れた瞬間、青葉の灯りは何か硬いものに当たるのを感じた。
和真の中に、冷たい影のようなものがあって、光がやさしく跳ね返される。
戸惑う青葉に、シンは静かに告げた。
「青葉、焦らなくていい。もっと深く見つめるのだ」
青葉は、不安な心を整えるようにそっと息を吐いた。
揺らいでいた瞳に、また静かな光が戻る。
その灯りは、ふうっと天へ溶けていった。
遠くで、空がわずかに震えたように感じた。
ポツ……ポツ……
雨が、そっと和真に触れる。
「ヤバ……」
コーヒーを一気に飲み干し、和真は走り出した。
雨の冷たさが胸に滲みる。
少しずつ雨音が強まり、家に着く頃にはずぶ濡れになっていた。
家の前には、真央の白いポルシェがそっと停まっている。
「真央さん?」
玄関先で待っていた真央は、目を丸くすると駆け寄った。
「やだ、ずぶ濡れじゃない。風邪引いたら大変!」
中へ入ると、まるで弟を介抱するようにタオルで濡れた体を拭いてくれる。
「着替えなきゃね。早くシャワー浴びなさい」
「真央さん、俺なら……」
言いかけるより先に、背中を押されバスルームへと入った。
少し呆れられたような気配に、なぜか顔が緩む。
家で心配されるのは久しぶりだった。
リビングでは、真央が買ってきたお弁当を並べる。
鼻歌が零れ、真央はふっと息を吐いた。
雨の匂いが、懐かしい記憶を引き寄せる――
「もうちょっとだったのに! 悔しいよ、お姉ちゃん!」
「理人、その悔しい気持ちがあれば、もっと強くなれるのよ」
「本当? じゃあもっと練習頑張る」
泥だらけになっても頑張る弟を、真央はいつも可愛く思った。
「あ! 雨降ってきたよ〜」
理人は肩にかけていたタオルを真央の頭に被せた。
「お姉ちゃん、風邪ひいちゃう!」
――あのときの笑顔が、ふと脳裏をかすめる。
あんな小さな体で守ろうとしてくれたのに、私は――
「ガチャ」
扉の音が、真央を現実へと戻す。
和真の顔を見る目が、切なく揺れた。
「……真央さん?」
真央は一瞬だけ目を逸らしてから、慌てたように言った。
「あ、そうそう。これ。お弁当買ってきたから渡そうと思って」
動揺を隠すのに精一杯で、ぎこちなく微笑む。
「え、ありがとうございます。いただきます」
美味しそうに頬張る和真を、真央はただ優しく見つめていた。
「そうだ。朝話した掃除の件は、考えてくれた?」
和真の顔が強張り、箸が止まる。
昼間のことがふっと頭をかすめた。
自分への苛立ちと、葵に何もできなかったことが胸の奥をちくりと刺す。
「やっぱ、そこまで甘えられないです。俺、本当に弱くて何もできないから……だから、頑張りたいっていうか――」
言葉が詰まりそうになり、和真は目を伏せた。
震える声を必死に押し留めていた。
真央はふっと笑って、和真の鼻先にそっと指で触れた。
「あなたは弱くなんかない。ずっと側で見てきた私が、そう言ってるのよ。それに、頑張りたいって思う気持ちがあるなら大丈夫。甘えることも、強さの一部よ」
その言葉に和真は、言葉を失った。
「甘える=弱い」という長年の呪縛が、ふとほぐれていくようだった。
「掃除、決まりね?」
真央の問いに、和真は小さく息をついて頷いた。
「……はい」
自然に出た返事。
肩の力が少しだけ抜ける。
「えっ、やだ。なに泣いてんの?」
気づけば、今まで流せなかったものが頬を伝っていた。
真央は驚いて笑いを含んだ声音で言う。
和真の中に、ぽっと光が灯されていく。
真央はそっと、和真の頭をポンポンと撫でた。
(和真を守ってあげたい――)
胸の奥で、真央は静かに、強く祈った。




