第七章「君が為ー偽りの笑みー」
「傷もそんな深くないし、止血もきちんと出来てるわね」
保健師は優しい笑みを浮かべ、傷口の消毒を施していく。
「先生、ありがとうございます」
葵の強張っていた表情は、徐々に和らいでいった。
「こんな少量なのに動揺しちゃって⋯ダメですね、私」
「そんなことないわ。私だって保健師のくせして、血を見るのは苦手なのよ」
眉を寄せて縮こまる葵を見つめながら、
鈴花は胸の奥に沈んだ“あの感覚”を思い出していた。
――もしかしたら、あの時からずっと。
カーテンが揺れ、細い光が揺らぐ。
そのわずかな影に、古い痛みがそっと滲んだ。
あれは幼稚園の帰り道。
いつものように葵と手を繋ぎ、公園へ寄った時のことだった。
母たちが見守る中、それは唐突に起きた。
活発な自分の後を追うように、葵が走り出し――そして、躓いた。
両膝から、どくどくと血が溢れた。
泣きじゃくる葵の声が、胸の奥にまだ残っている。
血相を変えて止血する母たち。
葵をおぶって病院へ駆ける母の背中。
その光景すべてが、幼い自分にはただ恐ろしくて。
ただ、何もできなかった。
それから、あの公園には行かなくなった。
次の日も、その次の日も、葵は幼稚園に来なかった。
やっと会えたのは、一週間が経った頃。
葵は笑顔で手を繋いできた。
膝には、痛々しい傷跡が残っていた。
――あの場所に連れて行ったのは、私だ。
胸の奥がしん、と締めつけられた。
「⋯⋯花?」
「⋯⋯鈴花?」
覗き込んだ葵の顔に、肩が跳ねた。
「珍しいね。鈴花がぼーっとするなんて。お昼食べすぎたんじゃない?」
その笑顔は柔らかく、気づけば自分も息を吐くように笑っていた。
「授業始まりそう。教室戻ろ」
葵が当たり前のように繋ぐ手は温かくて、
胸の奥の固まっていた部分が少しだけほどける。
けれど――処置した跡が目に入ると、
その柔らかさのすぐ隣に、鈍い痛みがひっそりと残った。
教室に、ゆっくりと陽光が落ちている。
「じゃ、またー」「ばいばーい」「カフェ寄ってこー」
明るい声が、残された静けさへと溶けていく。
和真は夕方からのバイトへ向かうため教室を出ようとしていた。
ふと足を止め、鞄から葵の弁当箱を取り出す。
屋上に置き忘れたことなど、
葵は何も気にしていないように机の荷物を整えていた。
和真は小さく息を整え、葵の席へ向かう。
「あの、葵⋯」
呼ばれた名に、葵はぱっと笑った。
「葵って呼んでくれたね」
光に照らされたその瞳は、やけに眩しく見えた。
胸の奥で、何かが小さく弾けた。
「これ⋯屋上に忘れてたから」
「あ! 本当だ。ごめんね」
差し出された手の絆創膏に気づき、
和真はほんの少しだけ視線を落とした。
「⋯傷、大丈夫?」
葵の瞳が僅かに揺れ、肩がわずかに強張る。
「あ、平気平気!」
その満面の笑みに、
一瞬だけ“無理を塗りつぶした自分”が重なって見えた。
足音が近づき、葵が振り返る。
「お待たせ、帰ろ」
鈴花は柔らかい眼差しを向け、
ちらりと和真に目をやる。
「後藤くん、昼間はありがとう」
そう言って、葵の手をしっかり取った。
「和真、ばいばい」
去っていく後ろ姿。
そのなかに混じる切なさが、胸の内で静かに疼いた。
思わず、溜め息がこぼれる。
「またね、鈴花」
「うん。またね」
手を振り、鈴花を見送ってから、葵は自宅へ入った。
静まり返った部屋に、自分の足音だけが落ちていく。
自室に入り、鞄をおろして椅子に腰掛ける。
何度か、くるりと回る。
ゆっくりと椅子が止まると、
絆創膏をそっと撫でた。
屋上での怪我。
和真の困惑した表情。
いつも気にかけてくれる鈴花の優しさ。
――私は、いつも誰かを困らせてばかりだ。
あの時から、ずっと。
公園でおぶられながら響いた母の息づかい。
両膝から流れ続けた、あの温度。
震えていたのは、自分だったのか。母だったのか。
病院で声を震わせながら説明する母の姿。
「血が止まりにくい体質で……」
「RH-で……珍しくて……」
その断片は、今も胸の奥に沈んでいる。
――私は他の人とは違う。
怪我をすれば、誰かを深く不安にさせてしまう。
「私は……やっぱり脆い。誰よりも、壊れやすいんだ。」
今日の夕陽は、どうしてだろう。
ほんの少し、胸に痛い。
頬を一筋、涙が伝った。
光をひとつ掬って――すぐに溶けていった。




