第七章「君が為ー太陽と影ー」
「おはー」
「おっはよーーー」
廊下には、朝の軽やかな声が満ちていた。
和真は無意識に口角を上げ、そのまま教室へ入っていく。
「和真、おはよー」
「遅いぞ、和真」
「これ、借りてた漫画ー」
自然と人が集まる。
ごく普通の、ありふれた学生生活。
――なのに、どこか全部が幻想みたいに思えた。
馬鹿なことを言って笑い合って、恋バナをして。
ふと窓に反射した自分の姿が見えた。
確かに自分なのに――
誰なのか分からない気がした。
太陽が真上へと昇る昼下がり。
昼食を終えた和真は、淡々とした足取りで屋上へ向かった。
人の声に混じっていると、余計に孤独がうるさかった。
扉を開けると、風がひとつ抜けていく。
「……あれ。今日は少ないな」
普段なら何人かが集まっている場所。
今日は遠くのベンチに、ぽつりと数人だけ。
和真は癖のように缶コーヒーのプルタブを引く。
軽い金属音。
黒い液体をひと口含み、眉を寄せる。
苦い。
ふう、と息を落とした。
母の体調悪化。
入退院の繰り返し。
バイト漬けの日々。
満たされない自分。
そして真央に……頼ってしまう現実。
――俺がやるんだ。
そう誓ったはずなのに。
本当は、何ひとつ出来ていない。
表の笑顔は張りぼてで、中身は空っぽ。
その空洞を埋められないまま、孤独の影に自分が溶けていく気がした。
その時。
「あははは」
明るい笑い声が風に乗って届いた。
自然と視線がそちらに吸い寄せられる。
クラスメイトの水島葵。
その隣には今井鈴花がいて、ふわり柔らかな表情を向けていた。
二人の周りだけ、空気が澄んでいるように見えた。
だが――
鈴花はふと表情を曇らせ、何かを思い出したように席を立つ。
「……ごめん、葵。ちょっと戻ってくるね」
葵だけが取り残される。
残された横顔には、ごく小さな寂しさが滲んでいた。
理由は分からない。
けれど、和真はその表情から目を逸らせなかった。
陽の光が缶コーヒーに反射し、きらりと葵の視界に入る。
目が合うと、ためらいながら――けれど嬉しそうに、葵が歩み寄ってきた。
「すごいね後藤くん。ブラックコーヒーなんて、大人しか飲まないと思ってた」
明るい声が、胸の奥の暗いところをそっと照らす。
「私、甘党だから全然ダメなの。苦いの飲める人って尊敬するよ。挑戦したことあるけど……一口でギブだったし」
その明るさの奥に、ほんのかすかな影が混ざったような気がした。
なぜそう感じたのか、自分でも分からない。
楽しそうに喋る葵が、ふいに「あっ」と我に返る。
「……ごめん。ひとりで喋っちゃった。鈴花にも言われるんだよね……『葵は話し始めると止まらない』って」
頬を赤らめ、口元を手で覆う姿が可笑しくて。
和真はつい吹き出した。
その笑顔は、どこまでも優しくて――
まるで太陽のようだった。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
「鈴花戻って来ないな……」
葵の表情に、また小さな不安が落ちる。
「水島はさ、今井と仲いいよね」
和真が問いかけると、葵はやわらかく微笑んだ。
「幼馴染なの。あ、あと……葵でいいよ」
その瞳に吸い込まれそうな気がした。
無垢な笑顔に触れるだけで、不思議と心が穏やかになる。
「あ、お弁当箱置いたままだった」
葵がベンチに向かうと、和真も自然に隣へ腰を下ろしていた。
コーヒーをひと口。
いつもとは違う昼休み。
心が、すっと和らいでいく。
こんな感覚、いつぶりだろう。
葵はそんな和真の横顔に、ほっと息をついた。
教室での“笑顔を貼りつけた和真”と、自分を重ねてしまっていたから。
「私も座ろ」
和真の横に、ちょこんと座る。
それが妙に微笑ましかった。
「痛っ」
葵が眉を寄せる。
ベンチの板から飛び出した釘に手が当たり、血が滲んでいた。
和真はポケットから急いでハンカチを取り出し、葵へ差し出す。
けれど葵の顔はみるみる青ざめ、手も震えていた。
どうしていいか分からず、和真はハンカチを持ったまま固まる。
和真の鼓動が、じわりと早まっていく──
「葵!?」
駆け戻ってきた鈴花が息を呑む。
すぐに葵の手を取り、自身のハンカチを上からしっかり押さえて止血を始めた。
「大丈夫だから。……立てる? 保健室行こ」
鈴花は一度だけ、鋭い視線で和真を睨む。
だが、その瞳にはわずかな揺らぎがあった。
──私が離れたから。
胸の奥が静かに痛む。
鈴花は葵の肩にそっと触れ、ゆっくりと歩き始めた。
和真は、その場から微動だにできなかった。
ただ――
手に残ったハンカチを、ぎゅっと握りしめるしかなかった。
さっきまで明るかった陽は、ゆっくりと薄い雲に隠れていく。
握りしめたハンカチに、葵の熱だけが微かに残っていた。
風に流された一枚の葉が、和真の足元へそっと落ちた。
屋上には、影だけが静かに沈んでいった。




