第七章「君が為」
青葉は、新たな祈りへと向かいます。
見えない想いが、静かに重なり始める第七章。
どうぞ最後まで見届けてください。
「新しいトリートメント、いい匂い〜」
青葉からふわりと優しい香りが漂う。
お風呂から上がり、鼻歌まじりに自室へ戻った。
「ねぇシン!どう?」
シンはちらりと横目を向け、一言だけ呟く。
「……あぁ」
そしてまた、夜空に浮かぶ月へと視線を戻した。
青葉はその反応を分かっていたように、そっと微笑む。
「今日も月が綺麗だね」
淡い光を放つ月を、二人は静かに見上げた。
青葉はこの穏やかなひと時が、好きだった。
やがて月が雲間に隠れかけたそのとき──
青葉とシンの耳元に、微かな祈りの声が届く。
「……もっと強くなりたい──」
優しさと痛みが入り混じった声。
青葉は強い瞳で祈りへ意識を向け、シンはその姿をただ静かに見守っていた。
「じゃあ、着替えと日用品ここに入れておくね」
和真は手慣れた様子で棚へ物を入れていった。
小学生の頃から母・恭子は入退院を繰り返し、その度に同じことをしてきた。
「和真、いつもごめんね。ありがとう。」
そして、いつも母は同じ言葉を口にする。
「明日からバイト連勤だから、今週は来れないかも。」
恭子は少し目線を落とし、そっと頷いた。
「和真、あまり無理しちゃだめよ」
和真は短く頷き、病室を出た。
廊下の蛍光灯の冷たさが、静けさを淡く照らしている。
母の「無理しないで」という声が、
胸の奥の弱い場所を突いた。
静まり返った病院を出ると、暗い夜道をひとり進み始めた。
不意に見えた自動販売機の光が目に滲み、呼吸が止まる。
一瞬立ち尽くし、気づけば顔を手で覆っていた。
――もっと、強く。
声にするより早く、胸の奥で何かが震えた。
「俺がやらなきゃ……いや、やるしかないんだ」
願いにも似た呟きは、夜の闇に静かに溶けていった。
月に照らされた影が、淋しげに揺れる。
深く息を吐き、脚を軽く叩く。
いつものように、気合いを入れ直した。
街灯が和真をぼんやりと照らしていた。
気づけば遠くで鳥のさえずりが聞こえ、朝日が顔を照らす。
眩しさに目を覚ました和真は、窓へ視線を向けた。
「……カーテン開けっぱ」
連日の疲れからか、昨日は病院から帰るなり眠ってしまったらしい。
軽く息を吐き、髪をくしゃっとかき上げる。
ゆっくりと上体を起こし、シャワーへ向かった。
朝食も食べずに家を出ようとしたとき──
目の前に白いポルシェが停まっているのが見えた。
和真の瞳が、一瞬だけ揺れる。
車から降りてきたのは、三十代後半ほどの凛とした女性。
風に揺れる髪が、彼女の輪郭を柔らかく縁取った。
「和真、おはよう」
微笑む声に、和真はまっすぐな瞳で一礼する。
「真央さん、おはようございます。こんな朝早くどうしたんですか?」
真央は歩み寄ると、和真の鼻をツンと優しく突いた。
「またご飯抜いてるでしょ。顔に疲れてるって書いてあるわ。いつも言ってるけど、食事だけはちゃんと摂りなさい」
そう言って、おにぎりが入った袋を手渡す。
「母のこととか……色々。本当にいつも助けてもらって……」
「もう、そんなにかしこまらないで。
恭子さんには、昔の私が救われたんだから。
それに、和真はもう弟みたいなものだしね」
微笑む真央の瞳がふと曇り、指先が僅かに震えた。
――和真の仕草に、あの子の影が差す。
重ねてはいけないと分かっていても、十年前の記憶はまだ胸に残ったままだ。
短い沈黙が落ちる。
その表情に、和真は胸の奥がきゅっと痛むような感覚を覚えた。
真央は気持ちを整えるように、明るい声で続けた。
「そんなバイトばかりしてたら、学業も疎かになるでしょ?
……同じだけ渡すから、代わりにうちの会社の清掃を手伝ってほしいの。
学業と両立しやすいようにシフト組んであげるから」
和真は眉間に皺を寄せ、視線を落とした。
そんな彼を覗き込むように、真央はにこっと笑う。
「決まりね!」
ぎゅっと力強く手を握ると、そのまま急いで車へ戻っていった。
「え、ちょっと真央さん……」
手を振る彼女に呆れつつ、心の奥ではほんの少し安堵している自分に気づく。
袋からおにぎりを取り出し、勢いよくかぶりつく。
「……うま」
朝の風がそっと、和真の背中を撫でていった。




