第六章「月下、兆し ―緩和―」
チュンチュン──
雀の可愛らしい声が朝を告げる。
そっと目を覚ました青葉は、まだ夢の残り香のような空気の中で辺りを見渡した。
しかし、シンの姿はどこにもない。
胸の奥がきゅっと締めつけられ、思わず小さく息が漏れる。
「……帰って来ないんじゃ……」
ずっと抱えていた不安が、言葉になって零れ落ちた。
青葉は慌てて布団を抜け出し、シンが残したメモを探そうとしたが──
次の瞬間、あれがまるで魔法のように消えてしまったことを思い出し、そっと俯いた。
「シンも、私の前から消えてしまうのかな……」
そう呟いた途端、瞳の奥にじんわりと涙が滲む。
青葉は両手で軽く頬を叩き、沈みかけた気持ちを追い払った。
「顔、洗ってこよ……」
そう言って、ゆっくりと部屋を出た。
階段を降りる足取りは、まだ少しだけ重かった。
その頃、カルマは次の祈りの元へと向かっていた。
「シン、今日は帰ってくるかな〜」
鼻歌まじりに、上機嫌で風を切る。
柔らかな朝日が街を包み込み、空はどこまでも青々と広がっていた。
朝食を終えると、青葉はいつものように学校へ向かった。
心の奥に残る不安を隠し、作り笑顔で友人たちと話をしていた。
たまたま通りかかったカルマは、ふとその気配に気づく。
「ん?」
ほんのわずかに、青葉の魂が揺れていた。
その想いが風に乗って、カルマのもとへと届く。
「青葉ちゃんも、シンに会いたいんだね」
優しく微笑んだカルマは、そのまま祈りの元へと向かっていった。
天界では、シンが新しい衣に着替えていた。
白い衣が朝の光をはじき、長身の体を包み込む。
表面の傷はもうほとんど消えている。
「少し遅くなってしまった…」
心の奥に残る痛みを押し隠し、自ら光を灯すように立ち上がった。
そして、静かに天界を後にした。
放課後。
青葉は学校を出ると、心を急かすように家へと向かった。
不安が足を自然と速めていく。
シンは、もう青葉にとって欠かせない存在になっていた。
「ただいま!!」
勢いよく玄関を開けると、かすかに感じる気配に胸が高鳴る。
「おかえり。慌ててどうしたの?」
母の声は、もう耳に届いていなかった。
階段を駆け上がり、自室の扉を開ける。
そこには──シンが、いつものようにベッドに腰を下ろしていた。
「おかえりなさい」
安堵の笑みを浮かべる青葉を見て、シンは鼻で小さく笑った。
「用が済み次第戻ると伝えただろう。余計な心配はいらぬ」
また心を読まれてしまい、青葉は少し恥ずかしそうに頷いた。
「あ…そういえば昨日、シンの友達が来てたんだよ」
その言葉に、シンは眉間に皺を寄せる。
ほんのわずか、表情に嫌そうな色が浮かんだ。
その時だった──
ひとすじの風が部屋を抜け、黒い衣を翻しながらカルマが現れた。
「シン!」
白い歯を見せて上機嫌に現れたカルマの表情が、みるみる変わっていく。
「……え? なにそのサイズ?!」
青葉は意味が分からず、ただ目を瞬かせた。
「ここでは、この姿の方が楽なのだ」
シンが淡々と答えると、カルマはパッと顔を輝かせた。
「うんうん、むしろいいじゃん! 可愛い〜〜!」
しゃがみ込んだカルマがシンを抱き寄せ、頬を擦り寄せる。
シンはあからさまに嫌そうな顔をしたが、その光景が青葉にはどこか微笑ましかった。
「なんだか不思議な気持ち……。弟とかいたら、こんな感じなのかな」
ふとそんなことを思いながら、青葉は小さく笑った。
「それより急にどうしたのだ?」
シンが無理やり離れると、カルマの顔をまっすぐに見つめる。
「いやぁ〜久しぶりにシンに会いたくなっちゃって。まあ、こっちで任務もあったしね」
カルマの明るい笑顔に、青葉の心も自然と温まっていく。
「代行の件で急に居なくなっちゃったから、前みたいに話せなくなってさ……。寂しかったんだよ、僕」
大きな体格とは対照的なその素直な言葉に、青葉は思わず笑みをこぼした。
夕焼けに染まる空が、三人を包むように輝いていた。
何気ないひとときの中に、確かなぬくもりが宿っていた。




