第六章「月下、兆し ― 歪み ―」
「あいつだけは、許さない……」
「なんで俺だけなんだよ……」
「あ〜、ダル……助けてよ、神様〜」
無数の人間の戯言が、畳みかけるようにカルマの耳へと届く。
そのひとつひとつが濁った音となり、彼の心を冷たく打った。
人間の、呆れるほどの愚かさに――すでに愛想は尽きていた。
祈りのもとへと辿り着いたカルマは、沈みゆく夕陽を見つめ、深く息を吐く。
そして、黒く光を帯びた眼に静かに力を込めた。
彼の眼に宿るのは、祈りを裁く者の冷たい光だった。
――その瞬間、風がざわめく。
強い突風がカーテンを激しく揺らし、机の上の神業がばらりとめくれた。
青葉は驚いて立ち上がり、慌てて窓を閉める。
「つむじ風……?」
外をのぞくが、先ほどの風が嘘のように、夕陽は静かに沈もうとしていた。
その穏やかさが、かえって胸の奥をざわつかせた。
青葉は正体のわからない不安を胸に、
「……もうすぐ帰ってくるよね」
と、小さく呟く。
風で開いたままの神業を、そっと両手で閉じた。
漆黒の扉の前には、異様な静けさが漂っていた。
扉の傍らでは、門番らしき者が椅子に腰を下ろし、じっと待機している。
カツ、カツ、と足音が近づき――ひとりの神が現れた。
扉の前で立ち止まり、門番に一言だけ告げ、何かを託す。
「……シン」
握りしめた拳が、小さく震えた。
そのまま、神は静かにその場を離れていく。
漆黒の間に入ってから、すでに四時間が過ぎようとしていた。
灰色の煙が漂う中、重い扉がギィ、と音を立てて開く。
息を切らせながら出てきたシンの衣は、黒と赤に染まっていた。
痛々しいほどの傷が幾筋も走り、立っているのもやっとだった。
それでも、その瞳はただ優しく光を帯びていた。
門番はそっと近づき、シンの懐へ何かを差し入れる。
一礼し、終了の合図を鳴らすと静かに去っていった。
シンは微かに微笑み、懐に手を添え、深く頭を下げる。
呼吸を整えながら、シンはゆっくりと近くの泉へ向かった。
さっきまでの黒い空間とは対照的に、そこには色鮮やかな花々が咲き、
光を帯びて舞う蝶が、静かに泉の周りを飛び交っている。
澄んだ水面に映る光が、彼の傷ついた心をわずかに癒していく。
懐から何かを取り出し、そっと口に運ぶ。
わずかに、表面の傷が癒えはじめる。
頬を伝っていた血が、スッと消えていった。
「……ありがとう」
胸に手を当て、静かに感謝を告げる。
だが、内なる傷が癒えることはなかった。
その様子を、遠くからひっそりと見つめる影があった。
花々の陰に溶けるように、その存在は静かに揺れていた。
「ふわぁ〜……」
大きくあくびをして、青葉は眠気と戦っていた。
「シン……今日は帰ってこないのかな……」
いつもと変わらぬはずの一人部屋が、今夜はやけに広く感じる。
カーテンをそっとめくり、窓の外を見上げる。
そこには、ぼんやりと浮かぶ月。
青葉は寂しさを紛らわすように、その光をただ静かに見つめていた。
――夜の向こうで、黄色い月がゆっくりと霞みはじめる
それは、新しい朝の気配を告げるようだった。




