第五章「母の祈りー浄化ー」
青葉は今日も静かに光を届けていた。
あれから、もう二週間が過ぎようとしている。
シンと共に、優しい眼差しであの祈りを包み込むように見つめながら——。
清江は今日も、看護師と共に中庭を歩いていた。
「もうだいぶ体力も戻られて、歩くのも問題なさそうですね」
看護師が明るく声をかける。
「本当にありがとうございます。皆さんには何とお礼を申したら……」
清江が頭を下げると、看護師は微笑みながら続けた。
「あの日——清江さんが搬入された日は、朝から多重事故があったり急患も重なって、とても慌ただしかったんです。
でも清江さんの搬入依頼が来た時、ちょうど松浦先生の手が空いていて。……きっと神様が導いてくださったんでしょうね」
清江は胸の奥に、ふっと温もりが灯るのを感じた。
「ありがとうございます……」
そう呟くと、胸に手を当てて静かに空を仰ぎ、心の中で感謝を捧げた。
その清江の温もりは、青葉とシンをやさしく包み込んだ。
シンは掌にそっと光を集めると、柔らかく放った。
「あ、八十科さん。順調に回復されているようで安心しました」
医師の松浦が笑みを浮かべながら近づいてきた。
珍しい苗字の八十科という名を耳にして、すぐに清江は自分のことだと分かったのだ。
「松浦先生……本当にありがとうございます」
清江が笑顔で感謝を伝えると、松浦の隣にいた男性が驚いた表情を見せた。
「……八十科、清江さんですか?」
その声を聞いた瞬間、清江の胸の奥で過去の記憶が鮮明に甦る。
歳を重ねてはいたが、その優しい声色はあの日のままだった。
「……光彦さん」
二人は視線を合わせ、涙を滲ませた。
「父さん、先に戻ってるよ」
松浦医師は静かに空気を読み、病棟の奥へと去っていった。
「院長、お話が済むまであちらでお待ちしていますね」
看護師も軽く会釈し、その場を離れた。
病院の中庭では、陽の光を浴びた樹々が穏やかに揺れていた。
二人はベンチに腰を下ろす。
「……ご無沙汰しております。ずっと……あなたに謝りたかったんです」
清江は涙をこらえ、深く頭を下げた。
あの日、突然離縁を告げ、黙って家を出たこと。
いつか謝りたいと願い続けてきたその想いが、ようやく形になった。
「頭を上げてください。僕が悪いんです……あなたを守りきれなかった」
光彦の頬を、一筋の涙が伝った。
「探すこともできたのに、またあなたを傷つけてしまうのが怖くて……何もできなかった。
あれからずっと、後悔だけが心に残っていました。本当に、申し訳ありません」
震える光彦の手を、清江はそっと包み込んだ。
「私は……確かにあの頃、つらく悲しい経験をしました。
けれど今は、私を本当の家族のように想ってくださる方々と、幸せに暮らしています」
清江の穏やかな微笑みを見て、光彦の表情にも安らぎが戻っていく。
「息子さんに命を救っていただいて……本当に感謝しています」
光彦は口元を押さえ、大粒の涙をこぼした。
二人の間を、柔らかな風と光がそっと撫でていった。
夜の台所では、リズムよく包丁の音が響いていた。
美亜は幼い頃から清江の隣で、料理を手伝うのが好きだった。
玄関の扉が開き、由美が帰ってくる。
「ただいま、美亜」
「おかえりなさい。もうすぐできるよ」
由美が手を洗って台所へ戻ると、美亜がポテトサラダを作っていた。
「リンゴを入れるとおいしいの」
危なっかしくリンゴを切ろうとする由美に、美亜が慌てる。
「もう、お母さんは味つけだけお願い。手、また切っちゃうよ」
清江が入院してからというもの、美亜は率先して台所に立つようになっていた。
由美は料理に不慣れで、初日に包丁で指を切って以来、美亜に呆れられていたのだ。
穏やかな日々が、料理の温もりと共に二人を包む。
もうあの、縛りつけるような恐怖も苦しみもない。
「あ、そうだ。明後日の清江さんの退院日のメニューなんだけど……」
美亜が由美の顔を覗き込む。
二人の口から同時に言葉がこぼれた。
「ミネストローネ!」
顔を見合わせて笑う二人。
白い歯を見せる美亜の笑顔に、由美は“この子のために変わろう”と強く心に誓った。
土曜日の穏やかな昼下がり。
清江は無事に退院し、由美と共に家へと帰ってきた。
ドアを開けると、ミネストローネの香りがふわりと漂い、笑顔の美亜が出迎えた。
他の使用人たちも清江の姿を見て安堵の涙を浮かべる。
「清江さんほどじゃないけど、頑張ってミネストローネ作ったの。食べよう?」
「まぁ……嬉しいわ」
準備を始める二人を、清江は優しい眼差しで見つめていた。
ずっと見たかった——この笑顔。
優しい風が頬を撫で、清江の心はそれだけで満たされていた。
食後、美亜は清江へのプレゼントを取りに部屋へ向かった。
それは、あの日選んだエプロンと一通の手紙。
封筒を探していた美亜は、見当たらずに階下へ降りていく。
「清江さん、封筒もらってもいい?」
清江は引き出しから色とりどりの封筒を取り出した。
その中の一枚に、美亜の手が止まる。
見覚えのある淡い桜色の封筒。
母の手紙を入れていたあの封筒だった。
——きっと清江さんが掃除の時に見つけて、そっとしまってくれたんだ。
美亜はその場で清江を抱きしめた。
「清江さん、大好き」
清江は微笑みながら、美亜の背に腕を回してそっと包み込む。
その姿を見つめながら、由美は静かに祈った。
「こうして、みんなで幸せな時を過ごしたい——」
それは、祈りのように穏やかで、確かな願いだった。
美亜はもう一度部屋へ戻り、エプロンと手紙、そしてあの絵を手に取る。
笑顔で二人のもとへ向かっていった——。
青葉の頬を、涙が伝っていた。
「本当に……よかったよ……」
シンは優しくその涙を見つめていた。
「ありがとう、シン。たくさん助けてくれて」
涙を拭う青葉に、シンは静かに首を振った。
「青葉の強さは、その圧倒的な優しさの中にある。
それは光そのものだ」
涙に濡れていた青葉の顔が、やがて穏やかな笑みに戻る。
シンは気づかれぬように笑顔を作りながら——
その胸の奥で、静かに痛みと向き合っていた。
——光はまた、ひとつの祈りを包み込み、
穏やかに天へと還っていった。
美亜と由美、そして清江の祈りを見届けて頂きありがとうございます。青葉の優しい光に包まれた祈りは、これからも三人を温かく照らしてくれるはずです。




