第五章「母の祈りー光芒ー」
誰かの声がした。
水の底から呼ばれているような、かすかな響きだった。
――お母さん。
――清江さん……。
沈んでいた意識が、ゆっくりと浮かび上がっていく。
まぶたを開けると、白い天井が滲んで見えた。
点滴のチューブが腕を伝い、微かな機械音が静寂を刻んでいる。
枕元には、由美と美亜が並んでいた。
二人とも泣き腫らしたような顔で、それでも笑おうとしていた。
「よかった…」
由美の声が震え、清江の手を強く握る。
その温もりが、どんな薬よりも深く身体に沁みていく。
何かを言おうとしたが、喉が詰まり、言葉よりも先に涙がこぼれた。
この手のぬくもりを、どれほど夢見てきただろう――。
子を持つことを諦めたあの日から、胸の奥に残り続けた痛み。
誰かを抱きしめる未来など、自分にはもう訪れないと信じていた。
けれど今、目の前にいる。
血のつながりを越えて、確かに自分の心に宿った“家族”が。
清江はそっと、由美と美亜の手を包み込んだ。
涙が頬を伝いながら、静かに笑みを浮かべる。
――あのとき、私は何を手放し、何を願ったのだろう。
閉じかけた瞳の奥に、あの日の記憶がゆっくりと甦っていく。
春の光の中、病室の窓辺に咲いていた小さな花。
そして、差し出された書類と、震える自分の手――。
記憶の扉が、静かに開いていった。
あの春の日、窓の外には淡い桜が揺れていた。
手術のあと、霞む意識の中で聞こえたのは医師の穏やかな声。
――子宮は摘出しました。もう、お子さんを持つことは難しいでしょう。
枕元で手を握る夫・光彦の顔を見た。
言葉を失った彼の目に浮かぶ涙が、やけに遠く見えた。
それでも光彦は清江をそっと抱きしめ、共に生きようとした。
それからの日々、光彦は変わらず優しかった。
けれど、その優しさが清江の胸を締め付けた。
松浦家の空気は冷たく重く、跡取りを望む沈黙が絶えなかった。
食卓で交わされる何気ない会話にも、自分の名がない。
微笑みの裏に潜む沈黙が、何よりも辛かった。
夜、眠れぬまま胸に手を当て、隣で眠る光彦の顔を見つめた。
そして何度も願った――せめて、この人だけは、幸せでいてほしいと。
やがて白紙の離縁届に、震える指で名前を書いた。
光彦の声を聞くこともなく、静かに家を出た。
外は、春の雨が降っていた。
傘もささずに歩く頬を、冷たい雫が伝う。
それが涙なのか雨なのか、もう分からなかった。
それでも、どこかで感じていた。
――この痛みの果てに、いつか誰かを守れる日が来るかもしれない、と。
その願いだけを胸に、清江は雨の街を歩き続けた。
現実へと戻ると、由美と美亜のぬくもりが過去の冷たい雨を溶かしていく。
「……ありがとう」
声にならないその言葉が、微笑みとなってこぼれた。
涙はもう、悲しみではなく、祈りのように流れていた。
その時、様子を見に来た医師が安堵の表情で顔を覗き込む。
「良かった…目が覚めたんですね。どこか痛みなどはありませんか?」
柔らかな声に、清江はゆっくりと首を振った。
「先生、本当にありがとうございました」
由美は立ち上がり、礼を伝える。
美亜も隣で深々と頭を下げた。
「松浦先生、次は三〇二号室の田中さんです」
看護師の呼びかけに、医師は笑顔で応え、清江たちへ一礼して去っていった。
「……松浦」
清江はその名を、遠い記憶の響きのように呟いた。
外はもう夜だった。
病室の窓の外には、静かな月の光が差し込んでいる。
その淡い光が、由美と美亜の後ろ姿をやさしく包み込んでいた。
青葉はその場に座り込み、壁にもたれた。
全身の力が抜けていく。
だがその顔には、疲労よりも確かな達成感があった。
「よく頑張った。青葉は強いな」
シンが労うと、青葉は首を横に振った。
「私が強いんじゃなくて、シンがそうさせてくれてるんだよ」
そう言って笑うと、青葉は夜空を見上げた。
月のそばで瞬く星々が、確かな希望のように瞬いていた。




