第五章「母の祈り ー抱擁 ー」
救急車のサイレンが、午前の街を貫いて走る。
陽が高く昇りはじめ、ガラス窓に反射する光が車内を照らした。
その赤い灯が、静かな日常を切り裂くように瞬いている。
清江の手は冷たく、それでも微かに動いていた。
美亜はその手を両手で包み込み、必死に呼びかける。
「清江さん……お願い、目を開けて……!」
隣では由美が震える声で、何度も名を呼んでいた。
その声には、恐怖と祈りが絡み合っていた。
美亜は涙をこらえきれず、母の肩にすがる。
由美はそんな娘を、強く抱きしめた。
車内の光が揺れ、三人の影がひとつに重なる。
清江の意識は霞み、遠い光が見えていた。
まぶたの裏で瞬くその光は、握られた手の温もりのように確かで、優しい。
──まだ、終わらせてはいけない。
清江の唇が、かすかに動いた。
それは祈りにも似た、言葉にならない願いだった。
「まだ着かないんですか!」
由美が声を荒らげる。
焦りと恐怖が混ざった声だった。
「申し訳ありません。今朝の多重事故の影響で、搬送先は少し離れた中央病院になります」
救急隊員の声は冷静で、それがかえって現実の重さを突きつけた。
酸素マスクの音、モニターの電子音が交錯する。
美亜と由美はただ、清江の手を握ることしかできなかった。
その小さな手に、自分たちの全てを込めて。
清江は遠のく意識の中で、その温もりに必死に応えようとしていた。
光を掴むように。命を繋ぐように。
青葉の額を汗が伝う。
光を灯すだけでは届かないと、心のどこかで悟っていた。
そのとき、シンの身体がやわらかな光に包まれる。
「青葉、そのまま続けるのだ。お前の光に、私が力を重ねる」
その声は静かで、確かな決意に満ちていた。
青葉は息を呑み、両の掌に祈りを込める。
三つの想いが重なり、ひと筋の光が走った。
「着きました!」
救急隊員の声に、美亜と由美は顔を見合わせて頷く。
外の陽はすでに高く、街を白く染めていた。
「清江さん、もう大丈夫よ。病院に着きましたからね」
由美は自分にも言い聞かせるように声をかける。
美亜もその言葉に小さく頷いた。
清江は意識の底で、二人の気配を確かに感じていた。
処置室の前で、二人はただ祈るように時を待った。
窓辺から舞い上がった一羽の蝶が、陽の光に透けて見える。
青い空が、ほんの少しだけ心を静めてくれた。
由美は美亜の隣で、黙ってその肩に手を置いた。
恐怖がまだ胸を締めつけていたが、母としての本能が冷静さを呼び戻していた。
二時間ほどが過ぎた頃、足音が廊下に響く。
その音が近づくにつれ、美亜の心臓は強く打ち始めた。
「無事処置は終わりました。今は落ち着いています。まもなく目を覚まされるでしょう。そばに居てあげてください」
医師の言葉に、美亜はその場に崩れ落ちた。
こみ上げる嗚咽を抑えられず、由美の胸に顔を埋める。
由美は何も言わず、娘を抱きしめた。
母の腕の温もりが、震える心をやさしく包み込んでいた。
窓の外では、夕陽が空を鮮やかな橙に染めていた。
病室の隅で、由美と美亜は清江の手を握り続けている。
その温もりに寄り添うように、清江の心は記憶の奥底へと沈んでいく。
――あれは、まだ使用人として働くより前のこと。
見合いから間もなく結婚し、幸せな日々を送っていた。
嫁ぎ先の松浦家は病院を経営し、清江の務めは跡取りを産むことだった。
授かるためにあらゆる努力を重ねた。
けれど七年の時が過ぎても、その願いは叶わなかった⋯
青葉の目から涙がこぼれた。
清江の心の叫びが、身体の奥に響く。
その痛みを共有するように、シンの放つ光がふっと強まった。
その直後、胸の奥にわずかな軋みが走り、シンはほんの一瞬だけ息を詰める。
だがすぐに、何事もなかったかのように光を整えた。
「もう少しだ、青葉。迷うな」
青葉は唇を噛み、まぶたを閉じる。
由美と美亜の祈りと、清江の痛みが、静かにひとつに重なっていく。
――光と陰の狭間で、確かに命は、繋がっていた。




