第五章「母の祈りー光と陰ー」
あの光が差した翌朝。
薄く陽が差し込む台所で、清江は静かに胸を押さえていた。
「今はまだ……どうか──」
祈るように呟き、呼吸を数回整えてから、ゆっくりと仕事に取りかかる。
けれどその胸の奥には、まだ小さな痛みが残っていた。
一方、美亜は机の上に置かれたエプロンを手に取った。
昨日、清江への贈り物として選んだものだ。
喜ぶ顔を思い浮かべると、自然と頬が緩む。
誰かを想い、贈り物を選ぶ――
そんな温かな気持ちを知ったのは、あの日が初めてだった。
母の心配そうな顔。
怒りにも似た恐怖の表情。
すべてが今も胸に鮮やかに残っている。
美亜は深く息を吐き、クローゼットの奥から一つの箱を取り出した。
カーテンの隙間から射す朝の光が、その箱をやわらかく照らす。
そっと蓋を開けると、懐かしい香りがふわりと広がった。
折り紙、おもちゃのネックレス、うさぎのヘアピン――
幼い日の想い出が、静かに息を吹き返す。
その中に、一枚の絵があった。
赤いリボンで巻かれたその絵を手に取る。
昨日、母の震える手を握った感触がまだ指先に残っている。
美亜は掌を見つめ、静かに深呼吸をした。
そっとリボンを解くと、そこには――
母のためだけに描いた幼い日の絵が、少し色褪せたまま微笑んでいた。
渡せなかったあの日の自分が、いま優しく語りかけてくるようだった。
青葉は胸に手を当て、美亜へ光を届けていた。
朝の風が、そっと頬を撫でる。
心地よい風が美亜の髪を優しく揺らした。
窓の外では、雀が可愛らしく鳴いている。
ふと視線を箱に戻すと、底に一通の手紙があることに気づいた。
「……なんだろう。」
見覚えのない淡い桜色の封筒。
外は綺麗なのに、中の便箋だけが皺だらけだった。
違和感を覚えながら開くと、そこには由美の文字が並んでいた。
「美亜へ。
こんな母親でごめんなさい。
守る形が間違っていることは分かっています。
それでも恐怖に縛られて、正しい守り方を選ぶ勇気が出ません。
あなたも大切なお父さんを失って悲しみや恐怖を知っているのに。
私は本当に弱くて情けない母親です。
あなたを見張って、自由を奪って、そして素敵な笑顔さえも。
いつかこの恐怖に打ち勝つことができたなら。
あなたらしく過ごせる日々を、優しく見守れる母になれたなら」
最後の一文は、祈りのように締めくくられていた。
母の苦悩が、美亜の胸を静かに締めつける。
手紙をそっと胸に抱き寄せ、そのまま目を閉じた。
――母も、苦しかったのだ。
自分の痛みより、ずっと深く。
籠の中の鳥だと思っていたけれど、
母の懸命な守りがあったからこそ、安心して過ごせていたのかもしれない。
どんなに恨まれても、それでも母は――
自分を守ろうと必死だったのだ。
そっと目を開くと、その瞳には、より一層優しさが宿っていた。
清江は掃除機を取り出し、黙々と作業を進めていた。
気づけば額には汗が滲んでいる。
エプロンからハンカチを取り出し、さっと拭うが、手が僅かに震えているのに気づいた。
思わずしゃがみ込む。
その震えが、清江の心をじわじわと不安で覆い尽くしていった。
一方その頃、由美は昨日行くはずだった会食の準備をしていた。
美亜とまだ言葉を交わせずにいることが、少し気がかりだった。
「嫌な母親」――その言葉が心を縛りつける。
部屋の写真立てで笑う幼い美亜を見つめ、気持ちを整える。
守り抜くと決めた、あの日の誓いを思い出しながら。
美亜は絵にもう一度リボンをかけ直す。
母と向き合いたい――
そんな想いを胸に、窓の外を見上げた。
昨日の雨が嘘のような青空。
心が少し軽くなった気がした、その時だった。
階下から、使用人の叫び声が響いた。
外の雀が勢いよく羽ばたき、美亜は慌てて部屋を飛び出す。
階段を駆け下りた足が止まる。
清江の顔色が、土のように曇っていた。
「清江さん!」
由美が叫び寄る。
清江は一度手を伸ばしたが、すぐに視線が揺れ、口元がかすれた。
冷や汗が額に滲み、膝が折れる。
使用人の一人が差し出した椅子に掴まるも、力が抜けて崩れ落ちそうになる。
「救急車を……!」
誰かが叫び、外へ駆けていった。
ただならぬ恐怖が、音を立てて迫ってくる。
遠くで、救急車のサイレンが近づいてくる。
その音が、美亜と由美の心に、静かに暗い影を落とした。




