第五章「母の祈りー光明ー」
美亜からの電話を受けた瞬間、清江の手は震えていた。
胸の奥を掴まれるような恐怖──脚に力が入らない。
これまで感じたことのない不安が全身を支配していく。
「どこにいるの? 大丈夫なの!? すぐに助けに行きますからね!」
冷静に、と自分に言い聞かせても、震えは止まらなかった。
「清江さん……私、どうしたら……。商店街の近くのビルに逃げ込んだけど、どこか分からないの」
泣き出しそうな声。
清江は我に返り、すぐに運転手へ連絡を入れる。
少しでも美亜を安心させたい一心だった。
外の雨音が、わずかに弱まっていた。
電話口の向こうでは、激しい雨が窓を叩く音。
遠くで上山商店街のアナウンスが微かに聞こえる。
──ビル内の静けさが、かえって異様だった。
「今からその辺りのビルを探しますから、あと少しだけ待っていてくださいね」
その言葉に、美亜の声が少し落ち着いた。
「うん、待ってるね……」
その瞬間──通話が途切れた。
画面には「バッテリー残量0%」
「……嘘……」
美亜の手から携帯が滑り落ちる。
途端に、暗闇と静寂が襲いかかる。
恐怖は音もなく忍び寄り、胸を締めつけた。
外では雷鳴が轟き、閃光が壁を照らす。
模様の影が、一瞬、畑の土のように見えた。
──幼い日の記憶が甦る。
ひとりで畑へトマトを採りに行った、あの日の薄暗さと雷鳴。
あの時の胸を刺す孤独とひとりぼっちの心細さ。
「お母さん……助けて……」
その言葉が、自然と零れ落ちた。
清江は決断した。
迷っている時間はない。
すぐに由美へ連絡を入れる。
「由美さん。美亜さんの居場所がはっきりしません。たぶん携帯も……」
報告を受けた由美の手から書類が落ちる。
鼓動が早鐘のように鳴り、手が震えた。
胸の奥で何かが崩れそうだった。
ふと、デスクの上のポーチに視線が止まる。
美亜とお揃いのキーホルダーが、不安げに揺れていた。
「……あっ!」
由美は椅子を引き、急いでパソコンを開いた。
数秒後、モニターに小さな光点が浮かぶ。
「──美亜!」
思わず叫んだ声に、清江が息をのむ。
「居場所が分かったわ! 今すぐ共有します。清江さん、みんなに知らせて! 私も行きます!」
電話を切るや否や、由美は会社を飛び出した。
雨上がりの空に、光が滲み始めていた。
清江は深く息を吸い、両手を胸の前で握りしめる。
雲の切れ間から差す一筋の光が、まるで祈りに応えるように降り注いでいた。
「おーい! お姉さーん、どこー?」
男たちの声がビルの外から響く。
美亜は息を殺し、暗闇の隅で肩を抱き寄せた。
「お願い……お願いだから……」
声にならない祈り。
青葉はその想いを受け取り、静かに目を閉じた。
──大丈夫。
信じて。
美亜の肩に、そっと温もりが触れる。
だが、青葉の心の隅で
何かが欠けるような音が、一度だけ響いた。
「……来てくれるよね」
呟いた瞬間、
バリバリバリーーー!!
雷鳴が轟き、近くの避雷針に稲妻が落ちた。
眩い閃光と共に、怯えた男たちは慌てて逃げ去った。
静寂。
涙が頬を伝う。
それでも、美亜は信じていた──。
「美亜ーー! どこなの、美亜ーー!」
遠くで、求めていた声が響いた。
その瞬間、美亜は反射的に立ち上がり、光の射す出口へ駆け出した。
「お母さん!」
由美の姿を見つけた途端、胸の奥が弾けた。
幼子のように泣きじゃくりながら、母の胸へ飛び込む。
「美亜……良かった。本当に、良かった……」
由美の体は震えていた。
その震えが、美亜の胸を締めつける。
──母の恐怖は、娘のそれ以上だったのだ。
「お母さん…ごめんなさい。心配かけて……」
由美は首を横に振り、微笑んだ。
「……でも、どうして場所が分かったの?」
由美は少しだけ目を伏せ、正直に話した。
「あなたの鞄についているキーホルダー。あれ、中にGPSが入ってるの。不安で……つい。でも、監視なんかじゃないのよ。ごめんなさいね……」
言葉を残し、由美は背を向けた。
その背中に、雨の匂いと安堵が滲んでいた。
美亜は静かにその姿を見つめ、歩き出す。
母の震えが、今も自分の中で確かに残っていた。
家に着くと、清江と使用人たちが出迎えた。
清江の目は真っ赤に腫れ、優しく微笑んでいる。
「…ごめんなさい、清江さん」
美亜が抱きしめると、清江は静かに頷いた。
その瞬間、雲の切れ間から光が差し込み、空には虹が架かっていた。
恐怖と後悔、愛と祈り。
複雑に絡まった想いが、少しずつほどけていく。
その光は、ほんのりと温かかった。
青葉はそっと空を見上げる。
小さく息をつきながら、静かに目を閉じた。
──祈りは、まだ続いている。




