第五章「母の祈りー追憶ー」
美亜と由美を送り出したあと、清江は畑へ向かった。
由美が亡き夫のために育てたトマトは、陽を浴びて真っ赤に熟している。
手に取ると、ふっと昔の風景が香りとともに蘇る。
清江がこの家に来たのは、由美がまだ七歳の頃だった。
若かった自分は、住み込みで働かせてほしいと頼み込み、以来四十年近く、ここで暮らしている。
仕事は日々の繰り返しだった。
けれど、由美の小さな成長を見守る時間だけは、清江の胸をそっと温めてくれた。
「今晩は由美さんの好きな、このトマトでミネストローネにしましょうかね」
そう呟くと、熟れた果実の匂いが清江の記憶の扉をそっと開いた。
七歳の由美はトマトが苦手で、ミニトマトをそっとスカートのポケットに隠すような子だった。
まだ慣れない住み込みの日々の中で、清江はその小さな仕草に気づき、ふと手を差し伸べたのだ。
「スカートが少しほつれていますね。手直ししましょう」
そう囁いて由美を連れた小さな部屋で、
ポケットから取り出した割れたミニトマトを、そっと口に含んだ。
「ん…酸っぱいけれど、スープにすればきっと食べやすくなりますよ」
由美の目が、ほっとほどける。
清江はただそれだけで、自然に笑った。
それからというもの、由美は何かあるたびに清江に駆け寄り、嬉しいことも悩みもすぐに話すようになった。
清江はいつも、黙って受け止めた。
清江はトマトを籠に入れ、手のひらでそっと撫でた。
柔らかな皮の感触が、なぜか心の奥をくすぐる。
「……よく育ったね」
そう呟いた声が、少しだけ震えた。
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからないまま。
清江は畑を後にした。
やわらかな陽のぬくもりを背に受けながら、静かに歩き出す。
その胸の奥では、ただ一つあの母子の幸せだけを願っていた。




