第五章「母の祈りー愛憎ー」
青葉の中に、優しさの仮面を被った、得体の知れない痛みが流れ込んだ。
今までとは明らかに異なる、悲痛な祈り。
青葉はそれを必死に受け止めようとする。
すぐそばで、シンが静かに手を重ねた。
その温もりが、不思議と不安を溶かしていく。
そして、ふたりは祈りに寄り添い始めた──。
由美はあの日の出来事を、今でも鮮明に覚えている。
夫が病床に伏してからというもの、台所は神経質な聖域となった。
食卓に並ぶすべてが検査され、保存も厳しく管理された。
夫のために始めたことが、いつの間にか娘の生活すべてを覆うようになっていた。
娘の美亜は、いつものように家政婦の清江から弁当を受け取ると、感謝を込めてその手を握った。
それが毎朝の小さな儀式のようになっていた。
祖母のような存在の清江の笑顔は、美亜の心を穏やかにしてくれる。
そして母と目を合わせぬまま、静かに家を出た。
車のドアを運転手が開ける。
大学生となった美亜にとって、それはもう“日常の檻”だった。
自由も息抜きもない。
どこかで、常に視線を感じていた。
あの日、父を失ってから、心から笑えた日など一度もなかった──。
母の由美は、娘が車に乗り込むのを確認してから仕事へ向かう。
四代目社長として多忙な毎日を送る中でも、美亜のことだけは常に気にかけていた。
清江が弁当を渡すと、由美は小さく頷き、笑みを返した。
その笑顔はほんのひととき、彼女の疲れを癒していた。
車が発進する。
窓を開けようとして、由美の手が止まる。
通りには、学生たちが白い歯を見せ、楽しそうに歩いていた。
胸の奥に小さな痛みが走り、息を呑む。
そして思う。
――美亜は今、笑えているのだろうか。
分かっている。
これは“守り”ではなく“恐怖”だと。
けれど、どうしても止められない。
視線を逸らし、震える手を押さえながら、何度も深呼吸を繰り返した。
──夫を失ったあの日から、全ては始まった。
まだ6歳だった美亜は、母の笑顔を取り戻そうと、幼い手で絵を描いた。
完成した絵を母の好きなトマトと一緒に渡そうと考え、畑へ向かった。
いつもなら清江が付き添っていたが、トマトひとつのために仕事を止めさせるのは悪いと、一人で行ったのだ。
空が暗くなり、ざあっと大粒の雨が降り始めた。
絵を守るため、納屋へ駆け込む。
雷が鳴り響き、幼い胸は恐怖でいっぱいになった。
昼食のため娘を呼びに行った由美は、部屋が空なのに気づく。
机の上には、散らばったクレヨンだけが残っていた。
清江は台所に立つため、ほんの少し席を外していた。
誰もが必死に探し回る中、由美の心は不安で押し潰されそうだった。
やがて、玄関の隅にあった収穫用のハサミが見当たらないことに気づく。
雨の中、畑へ駆け出した。
納屋の奥から、嗚咽が聞こえた。
由美は駆け寄り、小さな体を強く抱きしめた。
喜びが込み上げた――はずだった。
だが次の瞬間、由美の表情は歪み、激昂が噴き出した。
「――どうして、あなたまで、
私を置いていこうとするの!」
それは、喪失の恐怖が形を変えて溢れ出た叫びだった。
由美は自分でも何をしているのか分からなかった。
ただ、その日を境に、母の愛は娘の自由を奪う牢のようなものに変わった。
青葉の額を一筋の汗が伝う。
愛情と憎しみが、祈りの中で溶け合いながら彼女の胸を締め付ける。
シンは青葉の手をそっと握り返した。
その手の温もりが、暗い祈りの奥へと静かに光を導いていった──。




