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あなたに似合う悪女になります

作者: にゃみ3


 ――あ、悪女だ……! 貴女には、良心のかけらも無いのか!

 ――夫が夫なら、妻も妻というわけか。

 ――我が弟の妻が、こんなにも悪に呑まれた人間だったとは……。


 善悪を区別していないと、生きていけない惨めな人たち。


「ユリウス、来ましたよ」


 ユリウスが眠る墓の前に立つと、空気がすうっと澄んだ気がした。

 冷たい石の下に、もう彼の声は届かない。けれど、私は話しかけずにはいられなかった。

 病に伏しながらも、いつも私の心を気遣ってくれたあの人。

 弱く、優しく、そして誰よりも強かった人。


 ここに来ると、私はいつもあの日々を思い出していた。

 夫と過ごした、幸せな日々を。




∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴




 私、フィオレッタ・ラヴァルは今日、結婚式を迎えた。

 相手は、アレンベール王国、第三王子のユリウス・ディ・アレンベール王子。

 私が10歳。ユリウス王子が11歳の今日。私達は、夫婦となった。


「若き二人は今日、ここに神マリアンヌ様の元に愛を誓いあいました」


 なにが愛を誓うだ。私は今日、初めてユリウス王子にお目にかかったというのに。

 デビュタントも迎えていない私は、今日が人生で初めてこんなにも大勢の人たちの前に立つ日となった。

 天井の高い聖堂、陽光を受けてきらめくステンドグラスの光。あちこちから注がれる視線の重みに、肩がこわばる。

 視界を覆ってくれるベールが無ければ、恥ずかしさと緊張で、今すぐにでも腰が抜けて倒れてしまいそうだった。

 

「それでは、新郎ユリウス王子は、新婦フィオレッタ嬢のベールを上げて、指輪を」


 神父の言葉に、目の前に立つユリウス王子が足を進めた。


「失礼します」

 

 その一声とともに、純白のベールがふわりと上げられた。

 ふいに視界が明るくなる。

 そこには、白がかった金髪に、煌めく碧眼を持つ少年――夫となったユリウス王子の顔があった。


 家に送られてきた肖像画よりも、ずっとカッコイイ。

 こんなにも綺麗な人が、暴君と呼ばれているとは到底思えないなあ……なんて、呑気なことを考えながら私は彼の顔を見つめた。


「指輪を」

「はい」


 ユリウス王子のすぐ後ろで控えている、クリーム色の服を着た少年から指輪を受け取ると、彼は私の手を取った。

 淡いピンク色に輝く、ピンクダイヤモンドの指輪。

 私の髪の色と同じ、ピンク色。


「……大きすぎるな」

「えっ?」


 思わず顔を上げると、王子は小さく肩を竦めるようにして言った。

 

「指輪だよ」

「あ、ああ、確かに……」


 左薬指に通すと、指輪がくるりと回った。

 大人サイズに作られた結婚指輪は、私の子どもの手には大きすぎて、支えていないとすぐにすり抜けてしまいそうだ。

 

「お、おほんっ」


 眉をひそめ、わざとらしく咳をした神父の声にハッとする。


「ああ、すみません」

「ご、ごめんなさいっ!」


 大切な指輪交換の場面で、私語は厳禁。

 両親からそう強く言い聞かされていたのに、やってしまった。

 



∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴




「まさか、あのユリウス王子がもう結婚されるとは」

「お相手は、ラヴァル侯爵家のフィオレッタ嬢……」

「あの可愛いだけのお嬢様。二人の聡明な姉の方と比べて、ずいぶんとお転婆だと聞くが大丈夫なのか?」

「しかし容姿だけを見れば、ずば抜けているだろ。美しいが棘のある暴君王子とぴったりじゃないか」


 ――丸聞こえよ。

 

 窓が全開になっている私たちの部屋に、外からタバコの香りと一緒に、男たちの声が流れ込んできた。


 覗いてみると、そこには結婚式で私に愛想笑いを浮かべながら祝辞を述べてきた男たちが、木陰に集まって談笑していた。

 まるで品評会のように私のことを笑い、ユリウス王子のことを貶し、二人の結婚を面白おかしく語るその様子に頭の奥がカッと熱くなる。

 

「あれは、男爵家の……なんて言い方なの! ふん、お父様に言いつけてやるわ!」


 私は勢いよく立ち上がると、つかつかと扉に向かって歩き出した。

 

「やめておいた方が良いと思うよ」


 本のページをめくる音と共に、ユリウス王子の冷静な声が背後から届く。

 

「どうしてですか? あなたこそ、この王宮であんな奴らに好き勝手言われてもいいの?! 国王陛下に言えば、きっとあんな奴ら……!」


 振り返った先で、ユリウス王子の手がふっと止まり、視線が本から外れた。

 その瞬間、彼の顔に影が落ちる。

 

「父上なら、この事実を聞いたら喜ぶだろうな」

「そうよ! ……って、え? 国王陛下が、この話を聞いて喜ぶ?」

「ああ」

「な、何を言ってるのよ。大切な王子が悪く言われてたら、陛下はきっと……」

「父上なんだ」

「え……」

「僕の悪名を広めているのは、僕の父上なんだ」


 ユリウス・ディ・アレンベール第三王子。

 彼に与えられた異名は、病弱な暴君王子。意味は、言葉のままだ。


 第三王子の悪い噂は、デビュタントを迎えておらず社交界入り前の私の耳にまで届いていた。

 だけど、その疑惑は一気に晴れた。

 結婚式の日から、ユリウス王子は私に本当に優しくしてくれた。いつも気にかけてくれて、私の手を取って、誰よりも親切にしてくれる。

 

 そんな彼に、どうしてこんな噂がたってしまったのだろうと疑問には思っていた。

 だけどまさか、国王陛下が実の息子であるユリウス王子の悪口を……。

 

「偉大なる兄さんたちの代わりに、悪者を演じる。それが僕に与えられた、役目だ」

「……そんなの、あんまりだわ。あなたは何も悪いことをしていなのに。それなのに、あなたが罪を背負う必要は無いじゃない」


 私の言葉に、ユリウス王子は困ったように眉を下げると、私に向かって笑顔を向けたまま話す。

 

「僕は、成人する前に死ぬ。……まあ、既に知っているとは思うがな」


 成人。つまり、18歳になる前に命を落とすということ。

 私の両親も、それを分かって、私をあなたの元に嫁がせた。

 誰も、悪名高い第三王子の元に大切な娘を嫁がせようとはしない。そんな中、国王陛下から提示された多額の持参金を聞いて、両親は迷うことなく私を差し出した。


「だからって、あなたは悪人を演じるつもりなの?」

「ああ、そうさ」

「……そう」


 短く返された言葉の裏に、どれほどの痛みがあるのだろう。

 彼の瞳には、燃えるような激情はなく、ただ静かな諦めだけが滲んでいた。


 ……それならば。


「でしたら私は、あなたの分まで善人を演じて見せます。あなたの嘘の悪名が、霞んでしまうくらい。妻の私が善い行いをするの」

「……は?」


 信じられないとでも言いたげな顔で、私を見つめるユリウス王子。

 一体、何をそんなに驚いているというのだろうか。


「だって、夫婦は一心同体なんでしょう? それなら私は、あなたの悪名高さと同じくらい……いいえ、それ以上に完璧な淑女を演じるわ! そうしたらプラマイゼロ、でしょ?」


 胸を張って得意げに言い放つ私に、彼は呆れたように目を瞬かせ、ふっと鼻で笑った。


「……君は、本当に変な人だな」

「なんですかそれ、褒めているのですか? 貶しているのですか?」

「さあ、どっちだろうな」


 そう言いながら、彼の口元にはほんの少しだけ、笑みが浮かんだ気がした。

 たぶん、それは私の気のせいじゃない。


「私と結婚して良かったと、思わせてあげますよ」


 エッヘン、と気取って言ってみせる。

 すると、ユリウス王子は何も答えず、ただもう一度だけ、さっきより少し長く柔らかに微笑んだ。




∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴




 結婚式の日から、5年後。

 私は15歳。ユリウスは16歳になった。


「皆さまごきげんよう。本日は私の開くお茶会にお越しいただき、ありがとうございます」


 ゆったりと微笑みながら、一人ひとりに視線を配る。

 完璧な所作、柔らかな声音。

 かつて、病弱な暴君の、可愛いだけのお飾り花嫁として嘲笑の的だった少女は、今や社交界で“アレンベール王国一の淑女”と讃えられていた。


「相変わらずお美しい……」

「まさにアレンベール王国一の淑女だ!」


 賛美の言葉が、耳に届く。

 美辞麗句の裏に潜む皮肉も、嫉妬も、すべて聞き流す術を覚えた。


「それに比べて、夫の方ときたら……」


 私を褒め称える言葉には、いつだってユリウス王子の名が付きまとった。


「ユリウス王子。良かった、来てくださったんですね」

「来なければ僕の書庫を燃やしてやると脅したのは、君の方じゃないか」

「まあ、なんのことですか? 私がそんなことを言うはずがないではありませんか」


 人目があるのだから、黙っていてください――そう熱い視線で訴えると、彼はふっと優しげな笑みをこぼした。


「顔も見せたことだし、僕はもう戻るよ」

「そんな、もうですか? まだ来たばかりなのに……」

「すまない。さっきから、どうも目眩がするんだ。皆の前で血を吐くなんて、さすがに格好がつかないだろう」


 眉をひそめて笑顔を作るユリウス王子の顔は、よくよく見ると真っ白で、唇は少し青ざめているようにも見えた。


 ――不治の病。

 生まれつき病弱な体で生まれ、治ることのない病にかかった可哀想な王子さま。

 国中の名医が集まっても、ユリウスの病を癒すことは治すことは出来なかった。そのうえ、成人を迎える前に命を落とすと、余命宣告を受けてしまった。


「それなら、私も一緒に行くわ」

「僕と行っても君は嫌な思いをするだけだろう。君は僕と違って、皆からとても愛されているのだから」

「何を言ってるのよ。エスコートしてくれる人がいないと、それこそバカにされてしまうわ」

「では、見送りにだけ……」

「っ、そうじゃない! ……そうじゃ、ないわよ」


 ポタ、ポタ。

 頬から涙が零れ落ちる。


 抑えていた感情が、音を立てて崩れていく。

 泣かないと決めていた。誰の前でも取り乱さないと、誓っていたのに。


「泣かないで、フィオレッタ。君にそんな顔をさせたいわけではなかったんだ」


 心配そうに私の涙を拭ってくれるあなたが、どうして暴君などと呼ばれているのか。

 彼が乱暴に振る舞う姿を、誰も目にしたことがないのに。ただ聞いただけ、ただ噂を耳にしただけ。

 あなたは何も悪くないのに。

 それなのに、どうしてあなたがこんなにも辛い思いをしなくてはならないの。


「私は、他の令嬢や夫人たちのように、社交界であなたと手を繋いで歩いて、あなたとただ楽しみたかっただけです」

「お茶会が楽しくないのか?」

「違います。ちゃんと楽しいですよ。だけど、あなたも居たらもっと楽しいのに……」


 欲張りだと分かっていた。私はとても、傲慢な性格だから。それを必死に隠して来たけれど、あなたの前だとどうしても本音が出てしまう。

 普通ならば面倒だと振り払われる事でも、あなただけは優しく受け止めてくれるから。


「まあ、見てください。ユリウス王子がフィオレッタ様を泣かせているわ」

「お可哀想なフィオレッタ様。やはりご苦労されているのね」


 どこからか現れた貴婦人たちが、扇子の陰でさも興味深そうに囁き合う。


「……僕はもう行くよ」

「待って、私も一緒に……!」


 急いで伸ばした私の手を、彼は取らなかった。

 その代わりに、どこか悲しげな微笑みを浮かべて、背を向けた。


「ユリウス……」


 私の手は空を掴み、残されたのは冷たい風だけだった。




∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴




「読んではくれないのか?」

「私、あまり本が好きではないんです。だって、つまらないじゃないですか」

「つまらない……」

「私って飽き性なんです。でも、社交界で上手くやっていくには本の知識も流行り物のことも色々知っていないといけませんから。だからあなたが、私の代わりに読んで、そのお話をしてください」


 そう言うと、彼は少し困ったように笑って、ページをめくる。

 私たち二人には少し広すぎる、夫婦用の大きなベッド。その片隅で、私は毛布を抱えながら目を閉じた。


「そうして聖女は神の像の前で膝を付いた。私の命を捧げるから、陛下をお助けください……と」


 彼の落ち着いた声が、静かな夜の空気に溶けていく。

 ページをめくる音、淡々とした物語の進行、時折彼が微笑みながら挿んでくる冗談や感想――それらすべてが、子守唄のように私の胸に優しく染みこんでいった。


「やっぱり、あなたの声を聞いていると落ち着きます」

 ウトウトと、眠気が襲う中、私はゆっくりと目を閉じた。

 本のページを捲る音が心地よい子守唄になって、身体がふわりと浮かぶような感覚に包まれていく。


 すう、と寝息を立ててみると、ページを閉じる音と共に、彼が本を置いた気配がした。

 何をするのかと思えば、彼の指先がそっと私の額に触れ、そのまま髪をなでる。

 そして、柔らかな唇が、そっと私の額にキスを落とした。


 ……もう。私が寝ている時じゃなくて、起きている時にしてくれればいいのに。

 そう不満に思いながらも、私は狸寝入りを続ける。


「……すまない、フィオレッタ」


 囁くような声が、夜の静けさに溶けていく。


「僕を許してくれ。君をひとり残していく、弱い僕を……」


 どうして。何をそんなに謝るのか。何故そんなにも自分を責めるのか。

 目を開けて、そう彼に問いただせる勇気が、私にあったらよかったのに……。




∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴




 病弱を理由に部屋に籠ってばかりだと、ユリウス王子を批判する者たちは知らないのだろう。

 彼がどれだけ苦労しているのか。どれだけ、自分を削ってこの国のために尽くしているのか。


「う……ッ、」


 ハンカチを口元にあてがい、真っ赤な血反吐によって純白が赤に染まっていく。


「ユリウス! ……大丈夫ですか」

「このくらい平気さ。心配するな、フィオレッタ」


 苦しそうに眉をひそめて、それでも彼はペンを手放さなかった。

 体を蝕む病に抗いながら、ただ黙々と書類に向き合っていた。


 ユリウス王子の聡明さを知っていた国王は、第一王子や第二王子が放り出した仕事を、当然のように彼に押し付けた。

 どれほど理不尽でも、ユリウス王子は文句ひとつ言わずに、それを黙って請け負った。

 誰よりも忠実で、誰よりも静かに王家の影で国を支えていた。


「もう、いい加減にしてくださいよ……!」


 だけど私は、そんなことを望んでいない。

 自信の身体を犠牲にしてまで、この汚れた国を守ろうとする彼の考えが私には分からなかった。


「そんなことを続けていても、国王はあなたを蔑ろにするだけではありませんか!」


 堪えていた感情が、とうとう堰を切って溢れてしまった。


「……フィオレッタ?」

「もうやめてください。これ以上、あなたが苦しむ姿は見たくない」


 喉が詰まる。目頭が熱い。

 でも、ここで泣いてしまったら、彼を困らせるだけ。

 私は唇を噛みしめて、必死に涙を堪えた。


「……そうだな。君の言う通りだ」


 ユリウスは静かに答える。

 その声は弱々しくて、だけどどこか穏やかなものだった。


「分かっているのなら……」

「だけど僕は、ひとりになる君が心配なんだ」


 ひとりになった、私。

 あなたは、そんなことを気にかけていたというのか。


「僕が死んだら、未亡人となった君は王宮から追い出されてしまうだろう。そうなったとき、誰が君を守るんだ? 君の家は、僕の両親に負けず劣らずのひどさだろう」


 そんなことを考えていたなんて、私は知らなかった。

 一度だって、聞いたことが無かった。


「父上は、僕が成果を残せば、君が生涯困らないようにしてくれると約束してくださった。王宮に残ってもいいし、何処か遠い所で静かに、幸せに暮らしてもいい。君は、僕が死んだ後もひとりで生きていくんだ。君の未来の助けになれていると思うと、こんなもの苦じゃないよ」


 そう言って、彼はまた微笑んだ。

 その笑みは、あまりにも穏やかで、あまりにも優しくて――


「そんなことを、言わないでください……」


 私の生きる未来に、夫の姿はない。

 それは分かっていたことだ。何度も自分に言い聞かせてきたこと。


 だけどあなたのくれる愛が、あんまりにも優しかったから。

 私はずっと、その残酷な現実に目を逸らしていた。


 だからこそ、私は涙が止まらなった。

 本当は誰よりも弱っているはずなのに、誰よりも未来を思っている。

 自分ではなく、私の未来を。

 私はその優しさが、嬉しくて、怖くて、悲しかった。


 


∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴




「ロスマンス帝国物語、第三章……」

「少女は微笑んで言った。いつまでも、あなたを想っていると――ですよね?」

「驚いた。かなり昔にした話だったが、覚えていたのか」

「あなたが私にしてくれた話は、すべて覚えていますよ」

「ははっ、さすがだ……っ、ケホッ、ケホッ!」

「ユリウス!」


 私はすぐに身を乗り出し、彼の体を支えるように手を添えた。

 それでも咳き込む彼の背中を、そっと撫でることしかできない自分の不甲斐なさに胸が苦しくなる。


「っ……ああ、大丈夫だ。それで、なんだったか……」

「……もう、喋らないでください」


 乾いた唇で言葉を紡ごうとする彼を制して、私はそっとその手を取る。私はただ、その手に縋るように握りしめていた。


 もうすぐ、彼の弱々しい命の灯が消えてしまう。


「冷たいことを言ってくれるな。最後なんだ、もう少し君と話がしたい」


 ユリウスは苦しげに笑いながら、私の手を指先で撫でた。

 その手はひどく痩せていて、冷たかった。


「わかりました……」


 私は声を震わせながらも、そっと笑ってみせた。

 それが彼の望みならば、私は頷くしかない。

 私は、あなたのお願いはなんだって叶えてあげたいから。


「君は、僕にたくさんの夢を見せてくれた。楽しそうに笑っている君を見るだけで、一日が幸せだったんだ。君が居たから、僕は希望が持てた」

「それは……私のセリフですよ……」


 そこまで言って、言葉が喉に詰まる。

 熱くなった胸の奥が痛む。目元がじわりと滲んで、視界がぼやけていく。


「生まれ変わったなら、もう一度君に会いたいな」

「ふふ、生まれ変わりを信じているとは意外ですね。そうですね、私もあなたに会いたいです。もう一度、あなたの妻になりたい……」


 ほんの少しだけ笑みを浮かべてそう返すと、ユリウスは弱々しく首を横に振った。


「いや、君はもっと素晴らしい男と一緒になるべきだ」


 その瞳はすでに焦点を結ばず、けれどまっすぐに、私を見つめようとしていた。


「こんな悪名高く、身体の弱い僕なんかと結婚させられて、かわいそうに。君には本当に苦労をかけた。これからは、自分のために生きるんだよ」


 ユリウスの言葉に、私は首を左右に振る。


「私は、あなたの傍にいられて本当に幸せでしたよ。私は何度生まれ変わっても、たとえこの人生をもう一度やり直したとしても。私は、あなたの妻になります」

「……頑固者なところは、昔から変わらないな」


 ユリウスは少しだけ目を細めると、いつものように優しげな笑みを浮かべた。


「愛している、フィオレッタ」


 その言葉は、まるで息を吐くように、静かに零れた。

 私の名を呼んだ唇が、力なく閉じられていく。


 そして次の瞬間――彼の手は、私の手からスッと滑り落ちた。


「だめ、ユリウス……。おねがい、行かないで……」

 

 私は咄嗟にその手を掴み、落ちてしまわないように抱きしめるように、ぎゅっと自分の頬に押し当てた。

 かすかに残っていた温もりが、指の隙間からこぼれ落ちるように、静かに、そして確実に消えていった。




∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴




 一見は見事な葬儀に見えても、大国アレンベール王国の一人の王子の葬儀にしては、あんまりにも質素すぎた。

 国王も、王妃も、たった二人の兄ですら、形式上の言葉を残し、忙しいなどと理由をつけて葬儀には参加しなかった。

 だからといって、誰も彼らを咎めない。ユリウスは数々の悪事を働いた、悪人となっているから。


 棺桶に入れられ、沢山の花の中で目を閉じている。

 本当に、ただ眠っているだけのよう。


「あなたは本当に、優しい人だった」


 誰もがユリウスが悪だというが、私だけは、妻の私だけは知っていた。

 あなたがとても、優しい人だったと。


 正しきことをしても、悪人だと罵られる。

 他人の評価というものは、こんなにもどうでもいいものなのでしょうか。


 上っ面だけを見て、世間体だけを見て。

 私のことを可哀想な未亡人だと決めつけて、求婚をしてくる令息たち。

 

 私はこの命が尽きるときまで……いいえ、尽きたとしても、生まれ変わっても私はあなたの傍にいると決めたのに。


 私はあなたのことが、とても好きだった。あなたの妻になることが出来て幸せだった。

 あなたの居ない世界に意味は無い。すべてがどうでもよくて、全てが疎ましい。

 あなたを悪く言う国王陛下や第一王子、第二王子が敵対している革命軍に手を貸して、この国を滅亡させてしまっても面白いかもしれない。

 私には、あなた以外に心を通わせる相手はいなかったから、時々顔を合わせる貴族たちや、ろくに見た事もない市民たちが苦しもうが、命を落とそうが、どうだっていい。


 あなたを悪く言う者は全員纏めて、死んでしまえばいい。


 だけど、私はそうしなかった。

 あなたが、この国を愛していたから。


 あなたが私にとても優しくしてくれたように。いつまでも私を、守ってくださったように。

 私はこの命が尽きる時まで、あなたを思い続け、この汚い世界で、あなたが愛したこの国を守ります。


 ――そうしたら、きっとあなたは私を褒めてくださるでしょう?




「ど、どういうつもりだ王子妃! 私は王子が死んでからも、お前を王宮に残してやっただろう!」

「ユリウスの居ない王宮に価値などありません。さあ、今までの罪を償ってくださいね、お義父さま」


 積もりに積もった国民の不満が、とうとう爆発した。

 国王、王妃、第一王子、そして第二王子。

 それぞれが長年にわたって隠し続けてきた不正と腐敗は、次々に明るみに出された。


 そして、アレンベール王国の王位は、前国王の弟――かつて王位継承から遠ざけられていた人物が継ぐこととなった。


 どうやらアレンベール王家の兄弟たちは、代々“弟”の方が優れているらしい。

 新たに即位した現国王陛下は、実直かつ聡明で、政治に明るい人物であった。

 その手腕により、王国は徐々にではあるが、確実に立ち直りつつある。


 陛下はとても親切な方で、私に王宮に留まるようにと何度も勧めてくださったが、私は断った。

 ユリウスのいないこの王宮に、私はもう、未練など一片も持っていない。



 あの人が大好きだった、夢と奇跡の物語のように――。

 もしこの現実が、そんな夢物語の世界だったのなら。

 ユリウスの病を、治すことができたのだろうか。


 現実は、残酷だ。

 どれだけ願っても、祈っても、あの人は戻らない。


 けれど、どうにもならないはずのことが、どうにか、なってくれれば。

 あの人の命が救われる結末が、どこかにあるのなら。

 そんな非現実的な妄想に縋ってしまうほど、私は――心を壊してしまったのだと思う。


 ユリウスが死んでから、世界は色を失った。

 空の青さも、花の香りも、温かな陽の光でさえも。

 すべてがどうでもよく思えた。


 日々私をいびっていた者たちの嘲笑も、冷たい視線も、もう怖くはない。

 何を言われても、私の中にはもう、あの人が残してくれた想いしかないのだから。


「優しいあなたを悪人だと言うのなら」


 もっと早くに、こうしていれば良かったのかもしれない。

 私が演じるべきなのは、淑女なんかではなく――


「私はあなたに似合う悪女になります」




∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴




 王宮を出た私は、ラヴァル侯爵家に帰った。

 そしてまず行ったのは、自らの両親と兄、長年にわたり民を搾取し、他家を蹴落としてきた悪行の数々に手を染めた者たちを、断罪することだった。

 彼らには、遠く離れた辺境の屋敷にて、贅沢も自由もない、穏やかな監視付きの暮らしを与えることにした。

 それが、ユリウスと出会わせてくれた愛を持たない両親への、せめてもの情けだった。


 既に姉妹たちはそれぞれ他家へと嫁ぎ、家を出ていた。

 ゆえに、私がラヴァル侯爵家の当主となるのは、ごく自然な流れだった。


 その頃には、私は可愛らしい暴君のお姫様ではなく、冷酷で残忍な侯爵家の女当主として名を広めていた。


 悪辣非道、傲慢無比、残酷で凶暴な女。


 積み上げた信用も、磨き上げた名声も、ほんの噂一つで瓦のように崩れていく。

 上るには長い道のりだったというのに、転がり落ちるのは一瞬だった。


 世間からの評価なんてどうでもいい。

 どれほど淑女であろうと努めたところで、そんな努力がユリウスの助けになったことなど一度もなかった。

 彼の命を救うことも、彼の心を癒すことも、何一つできなかった。私のした行動は、すべてが無意味だったのだ。


 ユリウスと初めて顔を合わせた日。

 結婚式の日につけた、ぶかぶかだった指輪はもう、今では指にぴたりと馴染んでいる。


 前に父が、「未亡人のくせにいつまでも指輪を付けるな。再婚の邪魔だから外せ」と言ってきたが、私は首を縦に降ることはなかった。


 私は、あなたの可愛らしい妻ではなくなってしまった。

 これから先も、私は年を重ねていく。

 皆の言う神の楽園とやらで、ユリウスが私を待ってくれているのなら。彼が、私の姿を見て気づいてくれるかどうか分からない。

 だからこそ、私はこの、彼がくれた指輪を外すことは出来ない。

 あなたが私にくれた、ただひとつの証を。

 たとえ誰に何を言われようと、この手から手放すことなどできないのだ。

 

 ユリウスが“悪人”だというのなら――

 私は、彼にふさわしい“悪女”になってやろう。


 そう決めたあの日から、どれくらいの月日が流れたことか。

 私が悪名高くあり続ける限り、皆の記憶からユリウスの名が消えることはない。

 いつまでも、私の名には一生、あの人の名がついて回る。


 ユリウスの書斎にあった本をすべて買い取った。今や私の部屋は、彼が愛した本で埋め尽くされている。

 彼の痕跡をたどるように、一冊ずつ読んでいく。


 ユリウスのいないこの世界で、私は彼の残した“痕”を探しながら生きている。

 彼が愛してた本、花の香りがするお茶、淡く咲き誇る美しい花々――

 こうしていると、あの人のことを思い出せるから。

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