1 少年剣士
サー・トーマス作「あいつ」の外伝として、設定を借りて書きました。柳生林太郎という主人公の少年時代の同性への憧れ・初恋と武道という二筋の流れを描きます。
どすん!
跳ね飛ばされ、道場の板目に叩き付けられた少年は気を失ってしまった。
ざばっ!
「ひゃ!」
冷たい水をバケツから掛けられて、少年は目を醒まして飛び起きた。頭をぶるぶると振ると滴が四方に飛ぶ。
「もう、へたばったか?嫌ならおかあちゃんのおっぱいの所へ帰るが良い」
宗義はまだ八歳の少年にからかう様に言う。彼はこの少年の祖父だ。そして、剣術の師でもある。少年が今でもそう思っているかは分からないが。
「いやだ!くそじじい!」
四つんばいになって、そばに落とした袋竹刀を引ったくって立ち上がった。
女の子の様な長い髪から水が滴って胴着を濡らす。歯を食いしばって祖父を睨む顔は、幼いころの興福寺におわす阿修羅様と言ったところか。
孫への愛おしさが込み上げるのを、六十二歳の宗義は押さえ、心を鬼にして幼い修行者に竹刀を向けた。
少年には、自分の倍の背丈のある鬼が向かってくる様に見えただろう。
鬼は、大上段に定寸の袋竹刀(日本刀と同じ全長約九十センチ)を上げると、少年の前にずいと踏み出す。
少年ははっと目を見開き、本能的に右肩をくるりと前に突き出し、肩と同じ方向に右足を踏んだ。その方向は、祖父がこちらに進んでくる道筋だ。
手にした竹刀は、中太刀(全長七十センチほど)である。まだ定寸だとこの少年には長すぎる。その竹刀の柄を右足の腿の左に添え、先を下げて構えた。切っ先は右足の右斜め前に位置している。
(良し!刀中蔵の構えが身に付いてきたな!)
宗義はほくそ笑んで、軽く少年の頭に竹刀を振り下ろした。
大人が軽く打っても、子供にとってはそうではない。ましてや達人の打ち込みである。竹刀の切っ先は速い。防ぎ損じると頭に痛い一撃が来る。さっきもそれで昏倒してしまったのだ。
『刀中蔵』とは、自分の身体の前に、常に太刀先を身体とクロスして出していることだ。即ち、そのまま手を上げれば、相手が真っ向から斬ってきても受ける事が出来る。刀を盾として常に身を守る体勢なのだ。
そしてこの稽古は身を躱して太刀を避けるのではなく、その振り下ろされる刃の下に身を晒して、その禍を利用して攻撃に転じる技の修練なのだ。
少年は、祖父の刀が自分の頭に振り下ろされるのを、ぎりぎりまで見ていた。その黒目がちの大きな瞳に恐れは無かった。幼く無心のその表情は、穏やかな思惟を続ける弥勒のものとも思えた。
竹刀が頭に当たろうとした瞬間、少年の中太刀は足先から跳ね上がり、右足を少し前に進めたと同時に、その切っ先が祖父の竹刀を跳ね飛ばした。
「ほう!」
宗義は喜びのあまりに声を出した。
老人の竹刀を撥ねたとたんに、その反動で少年の背中に中太刀は隠れて見えなくなった。
宗義は後ろ足を引いて身構えた。
その刹那、少年の後ろから頭の上に中太刀が引き上げられ、今度は少年が大上段の構えになる。そして今度は左肩が前にくるりと回り、左足を踏み込みながら宗義の右横面に中太刀が飛んできた。現代剣道では見られない、足を踏み換える『歩み足』である。
そしてこの動作は、柳生新陰流の必殺技、『流し打ち』と呼ばれる。『流し打ち』は相手の上段からの太刀を頭の上で受け流し、反動で自分の太刀を輪の様に背中から回して、そのまま反撃する技である。
他流派からは、『輪の太刀』または『魔の太刀』と呼ばれ、怖れられた技なのだ。
宗義が喜んだのは、少年が器用に竹刀を背中に回して、『流し』で反撃出来たからだけではない。それよりも、祖父の太刀を受けたタイミングだった。
新陰流には、敵の太刀を防ぐ方法が三種類ある。二つはすぐ分かるだろう、『止める』と『躱す』である。三つ目は『合い掛け』という。
実は『合い掛け』こそ新陰流の極意中の極意なのだ。
夏休みと冬休みにしか祖父のもとに来ない少年は、二年足らずで祖父の攻撃を見事な『合い掛け』で返したのだ。その天性の才能を宗義は認めた。