第五章〜運命交差〜
遅くなり、申し訳ありませんm(__)m
ボクが居たのは、例えるなら暗い、光の差し込まない部屋だった。
誰も入れない。ボクの方からも、決して出ようとはしない。
ボクはそれで幸せだったのか?
否。
そんな筈はない。
苦しかった。悲しかった。辛かった。痛かった…
一人の部屋は、心が冷えた。
でも。
ボクにはどうすればいいのか分からなかった。
勇気が無かったから。
どうしようもなく、心が弱かったから。
誰の言葉も、ボクは信じる事が出来なかった。
勇気が、無かったから…
でも、何故だろうか。
不思議と、彼女の事は信じる事が出来た。
彼女は易々と、この暗い部屋の扉を開いた。
部屋に光が差し込む。
彼女は、眩しかった。
どこまでも綺麗で…
ボクは彼女が…
女神に見えた。
◆◇◆
『…あれ程、事を大きくするなと言っただろう』
薄暗い部屋の中、若い男の声が響いた。
腰まで伸びた美しい銀髪。すらりとした体躯を、独特な服に包んだ男は、その整った顔の眉間に皺を寄せている。
開いているのか閉じているのか分からないが、開けば相手を萎縮させるであろう瞳。口元は歪み、己の部下に対する怒りを顕にしていた。
『…何か言い分はあるか?』
男の冷たい言葉を浴びた部下は、肩を震わせ、男を見た。
黒く、爛れた肌。長く鋭利な爪。巨大な牙。背に生えた黒き翼。潰れたような赤き瞳…
悪魔、あるいは魔物と形容できる生き物。
しかしその生き物は、一人の男に怯えていた。
『イッ、イマ一度ワタクシメニ…』
『…消えろ』
部下の懇願を最後まで聞くことはなく、男はその細い腕を部下へと向けた。
一瞬で、悪魔はその場から蒸発した。
『無能な者など、我が配下には要らぬ』
男が鼻を鳴らし、先程まで部下の居た場所を睨む。
その時、部屋の扉が叩かれた。
『…どうした』
『報告が有ります』
扉から、別の部下が入ってくる。
先程の部下とは違い、人の形をしている。だが、背には黒い翼が生えていた。
『…申してみろ』
『標的は移動せず、依然としてあの街に留まっております』
『…何?』
男は耳を疑った。それは幸運な事ではある。しかし、理由が分からない。
動かない理由。あの街には何かがある。男はそう考えた。
『如何致しましょう。ディネオ様…』
ディネオと呼ばれた男は、数秒の思考の後、言葉を発した。
『厄介な者共が動きだす前に片を付ける。…私が出向こう』
口元に笑みを浮かべる。部下は了解の意を表し、恭しく礼をする。
『状況に応じ、随時指示を出そう。私の指示があるまで動かぬよう伝えておけ』
『はっ!』
部下は退出する。ディネオは懐から写真を一枚取り出す。そのに写る少女を見、憂いの籠もった表情を浮かべ、小さく溜め息を吐いた。
そして、再び懐にしまい、ディネオは部屋を後にした。
◆◇◆
「シーフィ…」
日曜日、ボクはいつものビルを訪れていた。
日は高く昇り、ボクを照らす。雪に反射し、光り輝く。
左脇に視線を落とす。
シーフィがいつも座っていた場所だ。だが、今は誰も居ない。ボク一人が、この場所で立ち尽くしている。
「…くそっ!」
苛立ちをコンクリートの地面にぶつける。固くなった雪を削る音。
ここに来ればシーフィが居るかもしれない。僅かな期待は、脆くも崩れ去ったのだ。
「…シーフィ、一体どこに…」
そう声を漏らし、ボクは空を見上げる。晴れ渡った空は、ボクの心とは真逆だ。
ボクは、昨日の出来事を思い出した…
◆◇
『来るなぁっ!』
ボクの記憶にある彼女の最後の表情は……泣き顔。
ボクの足は、無意識のうちに彼女へと向かっていた。彼女に笑って欲しい。その一心だったのだろうか。
『ああぁぁァアァ!』
それは逆効果だった。彼女は半狂乱になり、肥大化した左腕で、強く、地面を叩いた。
凄まじい轟音。ボクの一歩前が陥没した。
『アッ、アアッ!!』
彼女は右腕で頭を抱え込み、蹲った。
ボクは言葉を探した。最大限、彼女を安心させられる言葉を。
思いついた言葉は、単純。
これしか思いつかなかった。
ボクは、出来る限りの笑みを浮かべ、言った。
『大丈夫、怖くない。…ボクは絶対に、キミを嫌いにならない。…決して』
彼女の様子が変わる。目を見開き、ボクを見た。
綺麗な金髪は乱れ、どこかみすぼらしい印象を受ける。
呼吸が安定した。ボクは彼女に近づこうと、足を一歩、陥没した場所へと踏み出した。
その時。
『来るな』
先程の泣き声とは違い、小さな制止の言葉。それは、小さな声だが、不思議とよく通った。
『シーフィ…』
ボクは立ち止まり、ただ呆然と彼女を見た。
彼女はボクが止まったのを確認し、ゆっくりと立ち上がった。
そして自身の左腕を見る。すると、急速に腕は小さくなり、元の大きさへ戻った。瞳も同じく、普段の綺麗な瞳へ戻る。
『見ただろう。私は人じゃない…』
『…』
彼女の発した冷たい声に、ボクは何も返せない。無言で彼女の言葉を聞いていた。
『…これ以上、私に関わらない方が身のためだ』
『…シーフィっ!』
思わず叫んだ。後に続く言葉などない。それでも、叫ばずにはいられなかった。
『……』
『……』
互いに何も言わない。沈黙が続く。
静けさの中、人の足音が近付いてくるのが分かった。あれ程の音だ。気付かない方が不自然だ。
『人が来た…な』
彼女は足音を確認し、そう言った。表情は冷たい、感情を殺していた。
『…シーフィ』
名前を呟くだけで、足が前に出ない。ボクは自分の足を見、そして気付いた。
震えていた。小刻みに、ただガクガクと。
怯えていた。ボクの心ではない。ボクの身体が怯えていたんだ。
『お前も、早くこの場を離れるんだ。色々面倒だろう…』
そう言いながら、服についた汚れを払う。感情を押し殺した声。彼女はボクを見た。
あんな事を言いながら、震えを抑えることの出来ないボク。彼女にはどう見ているのだろうか。
一度、彼女は俯く。そして、顔を上げた時。
『…楽しかった、ありがとう』
優しい笑顔を浮かべ、彼女は泣いていた。先程まで溜めた涙を、一度に流すかのように…
『……………さようなら』
彼女は高く跳躍する。ビルを越え、すぐに姿が見えなくなってしまった。
『シーフィ!…シーフィィィィッッ!!』
叫んだ。彼女の名を。
天には三日月。
その形は、ボクを嘲笑っているように見えた。
◇◆◇
「…い、…聞いとるんか?神ちゃん」
「えっ、あぁ…何だっけ」
ボクの返事に、肩を竦め、小さく溜め息を吐く学。
日付変わって月曜日。昨日、ボクは一日かけてシーフィを探した。しかし、結局彼女は見つからず、現在に至る。
シーフィの事で頭が一杯になり、学の話に集中出来ていなかった。
昼休み、いつもの面子で廊下で立ち話をしている。
最初は空と学で話をしていたので、ボクは外を眺めていた。
「高校はどうするのかって、そう話してたの」
空がボクを見てそう言った。
「高校…」
よくよく考えてみれば、ボク等は中三だ。しかも十二月上旬。それなのに、ボクは行きたい高校がはっきりしていない。
担任にも、願書がどうとか言われていた気がする。
「考えてなかったな…」
だが、今の状態では考えようにも考えることが出来ない。シーフィの事でそれどころではない。
特に希望校もない。学力が丁度の学校に入れればいいか……
「ねぇ、聖原君……」
空が遠慮がちに口を開く。ボクは耳を傾ける。一体何だろうか。
「桜花高校…、受けてみない?」
「…桜花高校って、私立の?」
私立桜花高校。この街にある有名な学校だ。私立だが、進学率の高さ、部活動等から、人気が高い。
「どうして?」
ボクが聞くと、空は顔を赤くしながら説明を始める。
「その…、せっかく仲良くなったから、出来れば一緒の学校に行きたいなって…」
そう言われたら考えなくてはいけない。
確かに、仲良くなった友達と一緒の学校には行きたい。だが、私立になると学費が高い。姉に今まで迷惑を掛けた分、これ以上は…
「行くには行きたいけど、学費が…」
「あ〜、学費ならな…」
断りを入れようと思い、そう言った時、学がボクの言葉を遮った。
「入試テストの得点上位者には、ある程度免除されるんよ。神ちゃん、成績は悪くないやろ?」
「ん〜…」
桜花の人気を考えると、それはかなりの競争率だ。目指すならば、相当の努力が必要になるだろう。
「…、そう言う学は?」
学はどこを受けるのだろうか。そう思い、聞いてみた。学は口元に笑みを浮かべ、当たり前のように言った。
「俺も桜花や。一人暮らしやし、学費の問題も…」
「ちょっと待て」
今度はボクが学の言葉を遮った。軽く問題発言をしたぞ、コイツ。
「一人暮らしって言ったか?今…」
「話して無かったか?」
「ないよっ!!」
自分でも驚くほどの速度で、ボクは突っ込みを入れる。学はあっけらかんとした顔で。
「…まぁ、家出みたいな物やし、あんまし気にすること無いて」
そう言ったが。
普通この歳で一人暮らしなんかするか?いや、それ以前に出来るのか?
そんな事が、頭の中で渦巻いていた。
「まぁ、あんまり遠くの学校にも行けへんしな…」
「え…」
ふと、学が小さな声で呟く。その時の顔は、何だか悲しそうだった。
だがそれも一瞬、すぐにいつもの笑顔に戻った。
ボクの気のせいだったのだろうか。
「空はいくら頑張っても無理やしな〜」
空白の時間のうちに、学はあっさりと話題を変えた。
「う、うっさいっ!!」
突然話を振られ、しかも馬鹿にされた空は、顔を真っ赤にして怒る。
そのせいで、学から話を聞くタイミングを逃してしまった。いつか、話してくれるだろうか。
「私関係ないもん!」
「…関係ない?」
次いで、空の言葉も引っ掛かった。ボクが眉間に皺を寄せていると、学がニヤニヤしながら言った。
「神ちゃん。空の名字は?」
「…桜花。………って、もしかして…」
ボクが視線を向けると、空は頷いた。
「うん、私のお爺ちゃんの学校なの」
何だろうか。今日は色々と驚かされる。
「…で、神ちゃんはどうするんや?」
ここで、学が話を戻す。
ボクは少し考え、答える。
「…一応、努力してみるよ。上手くいったら、県立より安いみたいだし…」
ボクがそう言うと、二人は顔を見合わせ、笑みを浮かべる。
そして、凄まじい勢いで抱きついてきた……
◇◆◇
放課後、ボクは街をふらついた。もしかしたら、シーフィに会えるかもしれない。そんな僅かな希望を捨てずに。
「…」
すでにこの街を離れているかもしれない。いや、そう考えた方が自然だ。
「シーフィ…」
彼女の名を呟く。だがそれは、意味もなく雑踏の中に掻き消えていった。
空を見上げる。
夕暮れの空は、赤い日に染まり、どこか寂しい。
歩き回るうちに、彼女と別れた場所の付近まで来た。立ち入り禁止と書かれたテープが貼られ、数人の警察がいた。
規模は小さいが、最近の事件と関係があるであろう場所だ。以前の事件程ではないが、警備、報道陣が見えた。
「…あ」
その中、見覚えのある後ろ姿が見えた。
「……あ」
その人物もボクに気付き、同じように声を上げた。そして、こちらに寄ってきた。
「こんな所で何してるんだ?」
人物…姉は、ボクの前に立ち、そう聞いてきた。
「学校の帰りだよ」
適当にそう返し、すぐに不味いと感じた。そうだ、ここは…
「帰りって、家から逆方向だろ、こっちは」
「ぅ……」
やはり突っ込まれた。ボクは小さく呻き、苦笑いをして誤魔化そうとするが、咄嗟に言い訳が思い浮かばない。
「えっと、その…」
「…」
しどろもどろになっているボクを、姉は訝しげに見る。
「…神夜、ここに何か用事があるのか?」
姉は感が良い方だ。今も、ボクを見てこう言った。
…こんな状態だと、疑われても仕方ないか?
「…いや、特には」
なるべく平静を装う。しかし、姉がその程度で諦めるわけが無い。そして、ボクを追求しようと、姉が口を開いた時だった。
「あ、いた!神流さん!」
スポーツ刈りの男が駆け寄ってきた。
「急に居なくならないで下さいよ」
「特に問題ないだろ?雨宮が適当に取材すればどうにかなるだろ」
姉がさらりと問題発言。仕事に対して、そんな態度で良いのだろうか。
「休暇が無くなったからって、そんな適当な事言わないで下さい…」
雨宮と呼ばれた男は肩を落とす。
姉は久し振りに休暇を貰った。だが、この事件が発生し、駆り出された。
「こんな小さな事件。新人でも十分だろうが…」
姉は不満を吐露する。
「絶対、休み増やしてやる…」
姉の顔からは決意、そして、身の毛もよだつような怒りが見えた。
「はぁ…、…ん?」
雨宮がボクに気付いた。そしてマジマジとボクを見、嫌らしい笑みを浮かべた。
「弟くんですよね?」
「?…そうですけど」
雨宮は姉に何かを耳打ちする。
ガンッ、ズザザーッ!
姉が雨宮を殴った。
……人って、あんなに飛ぶんだ…
「ちっ、くだらない事ばかり言って…」
そう言いながら、姉は何故か息を荒く、顔を赤くしていた。
それにしても、雨宮の飛び方もそうだが、一体何を言ったのだろうか。
「何?なんて言われたの?」「煩い!!」
キッと、鋭い視線でボクを刺す姉。顔は相変わらず赤い。
内容は気になるが、聞かない方が身のためだろう。
姉は息を整え、ボクに向き直った。先程までとは打って変わって、真剣な、強い眼差し。
「…で、ここに何をしに来た?」
「別に…何も」
事件について、何か知っているのではないか。姉の視線は、そう語っていた。
「姉さんは、別に刑事じゃないだろ?」
ボクの言葉に、姉は溜め息を吐き、肩を竦めた。
「一つ、質問だ」
ピッと、人差し指を立てる姉。ボクは息を呑む。
姉の声が、耳に届く。
「黒衣の女を見なかったか?」
背中に冷たいものが流れる。動揺を、顔に出してはいけない。分かってはいるが、自分でも分かる程に、顔が引きつっている。
シーフィの事を、人に知らせるのは不味い。理由はない、これは直感だ。
それに、姉に話せば巻き込んでしまうかもしれない。それだけは避けたかった。
返事をしないボクを見て、姉は言葉を続けた。
「その女は、現場で度々目撃されている。私の考えでは、その女が犯人…」
「違うっっ!!」
思わず叫んでいた。周囲の人が、何事かとボクを見る。ボクは俯き、地の雪を睨み付けた。一体、今ボクはどんな顔をしているのだろうか。
怒りか、悲しみか…、自分でも分からない。ただ、ボクの中ではっきりしているのは、彼女、シーフィは絶対に犯人ではない、その気持ちだけだ。
確固たる証拠はない。だが、別れ際のあの表情、あれを見た時、ボクは無条件で彼女を信じたいと思った。事件と彼女に、どのような関係があるのか、それは分からない。もし彼女が犯人ならば、ボクの身を案じるなど有り得ない。
彼女は確かに『普通』ではない。でも、紛れもない『女の子』なんだ。
それを、土曜日によく知った。だから、恩人でもある彼女を信じると決めたんだ。
紛れもない、ボクの意志で…
「…姉さん」
よくよく考えてみれば、あの叫びはボクがシーフィを知っていると肯定しているのと同じだ。
おそらく、姉はボクの反応を見るために、わざと言ったのだろう。まんまとはめられたわけだ。
姉はどんな顔をしているのだろうか。ボクは重たい頭を上げ、姉の顔を見た。
「…神夜」
姉がボクの名を呼ぶ。何を言われるのだろう。言葉を聞かぬうちに、手が震えている。
どうして自分は、こうも臆病なのだろうか。そんな自分が嫌になる。
姉は強い視線でボクを見ている。射抜くようなその視線に、ボクは思わず後退る。
何をやってるんだ、ボクは。
信じると決めたんじゃないのか。
なら何故、後ろに下がる。
こんな事では、彼女を見つける事も、笑顔を見る事も出来ないじゃないか!
笑っていた方がいい。そう言ったのは誰だ?
他でもないボクじゃないか。
「姉さん、ゴメン。今は話せないけど、いつかちゃんと話すから…」
迷いはない、迷ってはいけない。人の目を気にしている場合じゃないんだ。
ボクは決意を固め、姉の目を見た。
弱い自分は捨てる。
さっきも決めた。これはボクの意志、そして思いだ。誰にもこの思いを歪める事は出来ない。
「……ふぅ」
視線が絡み合い、しばしの沈黙の後、姉は息を吐いた。何かを考えるように、目を閉じる。
そして、次に目を開いた時、その瞳には、優しい光が宿っていた。
「…先程、神夜が言った通り、私は刑事ではない。だから、神夜がその女とどういった関係だろうと、正直どうでもいい…、だがな…」
一度、そこで言葉を切る。眼差しが、また強くなった。
だが、ボクはもう、後退りはしなかった。
姉はボクをしっかりと、その目に捉え、言った。
「自分が正しいと思った事は、最後まで貫け。そして、諦めるな」
力強い姉の言葉。ボクはそれをしっかりと受け取り、頷いた。
すると、姉は満足したように、首を縦に振った。
「さっきは探るような事をしてすまない。ただ、お前の、神夜の身が心配だったんだ」
「……ありがとう」
姉が笑顔で言った言葉に、ボクも笑顔で返した。
「私も、その女が犯人だとは思っていない。…それに、神夜を変えてくれた人なのだろう?」
…この人は、どこまで知っているんだろう…。
ボクは苦笑いを浮かべ、それを答えにした。しかし、姉はそれだけで満足したようだ。
ボクは姉に一礼し、来た道を戻ろうと、踵を返した。
もう一度、彼女に会いたい。
あんな顔が最後だなんて、絶対に嫌だ。
彼女はまだ、この街にいる。
その僅かな希望を信じ、ボクは駆け出した。
◇◆◇
「…ったく、世話の焼ける弟だ」
神流は、神夜の走り去った方を、じっと見つめながらそう言った。
「いいんですか?その女に弟くん渡して」
地べたを這いつくばりながら、神流を見上げる雨宮は、悪戯っぽくそう言った。
神流がボクシングの動きをする。それを見た雨宮は、「ひぃっ!ごめんなさいっ?!」と言って、素早く立ち上がった。
それを見た神流は、軽く溜め息を吐く。
「いいんだよ。…ただ」
「ただ?」
神流が顎に手を当て、考え込む。雨宮は首を傾げながら神流を見る。
「…いや、何でもない」
神流はそう言いながら、首を大きく横に振る。
「そうですか?…それなら、早いとこ取材しましょう。神流さんも、休み欲しいでしょ?」
そう言って、雨宮は現場付近へ戻っていった。
一人残された神流は、空を見上げる。東の空が、暗くなっていた。
「いや…やはり」
そう言い、神流も現場へ向かった。
◇◆◇
二ヵ月が過ぎた。
その間、勉強をしながらも、毎日のようにシーフィを探した。
雪も疎らになり、今では道の端に少し残っているだけだ。
人生で初めて、友達と一緒に、自身の誕生日(十二月二十四日)を祝ったりもした。
しかし、何かが足りなかった。ボクの心に穴が出来たような、変な感覚。
決して楽しくないわけではなかった。空や学と一緒にいることは、ボクにとって嬉しい事だ。
それでも、やはり彼女がいないと駄目なのだ。ボクを救ってくれた、彼女がいないと…
「どうした?神ちゃん。あんま出来んかったんか?」
ボクが思い耽っていると、学がそう声を掛けてきた。
今日は私立の一般入試。ボクと学、そして空は、会場からの帰り道を歩いていた。
「いや、別にそうじゃないけど…」
そう答えながら頭を掻く。試験の問題は解けた。が、ボクが解けないのは別の問題だ。
「心配する必要ないで?…ほれ、空を見てみい」
「ん?」
学が、親指で空を指す。その指先を追って、空を見る。
そこには、試験の問題用紙を睨み付け。
「いや、あれは…やっぱり?…でもそうなるとぉ…」
ボソボソと、まるで呪咀を唱えるような空がいた。
はっきり言って、怖い。
「終わってからそんなネチネチと。意味ないやろ、ソレ」
学がそう言うと、空は眉尻をキッと吊り上げ、睨む対象を、問題用紙から学へ変更した。
「うっさぁーいっ!?その余裕の態度がムカつくのよっ!!」
「何やとぉ?!」
二人が口論を始める。これはいつものパターンだ。流石に慣れた。
「よくもまぁ飽きないな、二人とも…」
逆にここまで来たら、凄いの一言だ。
だが、考えてほしい。
口論を始め、一人残され、結局、仲裁に入るのはボクだと言うことを…
「…はぁ」
溜め息を一つ。
試験で疲れたのだ、仲裁はやめておこう。これ以上疲れたくはない。
口論を続ける二人を放置し、今日はどこでシーフィを探そうか思案する。
二ヵ月。ずっと彼女を探し続けてきた。だがどれも空振り。
しかし、不思議と諦めは浮かんでこなかった。
信じていれば、いつかきっと会える。そう思ったから。
「…行って、みようかな」
ふと、初めてシーフィに会った場所を思い出した。
そういえば、最近は行くことが無かった。気持ちを新たにするためにも、良いかもしれない。
「…そろそろ止めるか?」
思い出して、学と空を見る。すると、二人は取っ組み合いの喧嘩を始めていた。
ボクは、慌てて二人の間に入った。
◇◆◇
「くっ…」
暗い路地裏に、私は身を隠した。
傷口が痛む。
血が溢れ、アイツに買ってもらった服が赤く染まってしまった。所々破れ、もう着ることは出来ないだろう。
それがとても悲しい。
思い出が一つ消えるような、不思議な感覚。
「ディネオのやつ…、手加減が無いな…」
明るい時間帯に攻めてくる。つまり、アイツも相当焦っているという事。
今まで一度も勝った事の無いアイツを焦らせている。それだけでも、多少の優越感に浸ることが出来る。
だが、そこでふと思う。
このまま逃げ続け、一体何になるのだろうか。
疲弊し、人々に迷惑をかけ…。
これは、私の我が儘ではないか?
逃げて、逃げて、逃げて……。
一体何が残った?
「……くそっ」
唇を噛む。プチンと、皮の破ける音と共に、口内に鉄の味が広がる。
神夜と最後に会ったのは、二ヵ月前だったか。
その二ヵ月は、実に無味乾燥な日々だった。
一日だけだったが、神夜と遊んだあの日は楽しかった。
出来るならば、もう一度。もう一度だけ、あの空気を味わいたい。
「行ってみるか…」
神夜と出会った場所。そうだ、あの場所へ行ってみよう。
時間はあまり無い。行くなら早く行ったほうがいいだろう。
そう思った私は、ゆっくりと足を前に踏み出した。
◇◆◇
二人と別れ、ボクはあの場所へと向かっていた。
もう一度決意を固めるため、もう一度、勇気を持つために。
ふと、足を止めた。
クレーン車等が立ち並ぶ。そこは、二ヵ月前に崩壊した病院跡だった。
二ヵ月が経った今も、工事は完了していない。
生存者一名。姉から聞いた話では、小さな女の子らしい。確か、雪音という名前だった。
「あ……」
道の脇、そこに沢山の花が供えられていた。ボクは手を合わせる。
シーフィに会う前のボクでは、まず有り得ない行為だ。今では、素直な気持ちで冥福を祈ることが出来る。これも、彼女のお陰だ。
「ほら雪音?お花を置きましょう?」
隣から、女性の声が聞こえた。
見ると、六歳程の栗色の髪をした少女を連れた女性、おそらくは母親だろう。そして、少女は雪音と呼ばれていた。
「こんにちわ」
「あ、どうも…」
母親と思われる女性と、挨拶を交わす。すると、雪音ちゃんも母親の真似をした。
「あの、雪音ちゃんって、あの…」
尋ねるのは善くないとは分かりながらも、聞かずにはいられなかった。もしかしたら、雪音ちゃんは何かを知っているかもしれないから。
「えぇ…」
惨劇を思い出したのだろう。母親は、苦虫を噛み潰したような顔をする。仕方の無いことだが。
「聖原神夜です。以前、姉がお世話になったようで…」
ボクは頭を下げる。姉を使うのは正直避けたいが、どうしても話を聞きたかった。
「…神流さんの…、弟さん?」
女性は一瞬驚くが、すぐに笑顔を浮かべた。姉は偉大だと感じた。
だが、想像以上に反応を示したのは雪音ちゃんだった。
「ねぇっ!かんなさんにあわせて!」
雪音ちゃんは、笑顔でボクに駆け寄ってきた。そして、愛らしい笑みでボクを見上げる。
「ん、じゃあ今度遊びにくる?」
ボクはしゃがみ、雪音ちゃんに視線を合わせ、彼女の頭を撫でた。
「ほんと?…ねぇ!おかあさん、いいよね!」
太陽のような笑顔で、母親を見る雪音ちゃん。母親は少し困ったような顔をした。そして。
「…宜しいんですか?」
と言った。
「姉が休みの日は、ですけど」
ボクはそう言って笑う。母親もボクを見て笑った。しかし何故だろうか、その笑顔はどこか淋しそうだ。
会話を聞き、母の了承を得たと分かった雪音ちゃんは、飛び跳ねて喜んだ。
「仲良くしてあげてくださいね?」
雪音ちゃんを見て、そう言った。
そして、思い出したように言葉を続けた。
「自己紹介がまだでしたね?…私は四季秋音です」
「改めて、聖原神夜です」
互いに名前を交換する。騒いでいた雪音ちゃんが、やっと戻ってきた。
「ゆきねはゆきねだよ!よろしくね!」
「うん、よろしく」
また、雪音ちゃんの頭を撫でる。雪音ちゃんは嬉しそうに笑う。
「秋音さん。少し、雪音ちゃんに聞きたい事があるんですけど、良いですか?」
ボクの質問に、秋音さんは頷いた。
◇◆◇
ボクは、雪音ちゃんから聞いた話を思い出しながら歩いていた。
病室にいたら、突然病院が崩壊を始めた事。
泣いていたところを、黒衣の女性に助けられた事。
その女性の特徴を聞くと、シーフィの特徴と一致した。
多分、姉に話した内容と大差ないだろう。姉は話してくれなかったが、そうだろうと感じた。
唯一の収穫と言えば。
「雪音ちゃん…か」
新しい友達が出来たので、よしとしよう。
四季親子と別れ、しばらく歩いた。廃ビルが近付き、人が少なくなる。
そして今、ボクの目の前には、崩れた廃ビルがあった。病院とは違い、復旧される雰囲気が無い。
ここは、言うなれば忘れられた場所。誰も訪れない、誰に必要とされない場所だ。
だが、ボクにとっては大切な場所だ。
思い出すように、二ヵ月前と同じように振り返り、向かいのビルを見上げた。
「………え…」
屋上に、黒い…影。
足が勝手に動きだす。思考よりも先に、体が動く。
二ヵ月前と同じような感覚。ただ、彼女に会いたい。それだけで走る感覚。
息が切れる。足が痺れる。だが、その感覚が懐かしい。心が踊る。
屋上への扉が見えてくる。足の回転が、一段と速くなる。
そして。
ボクは扉の前に辿り着いた。
そして、一気に開け放った……
◇◆◇
大きな音と共に、扉が開かれる。神夜は扉が開ききる前に、叫んだ。
「シーフィィィっ!!」
神夜の視線の先。そこにいたのは、体中に傷を作り、血に汚れ、膝を抱え蹲る、そんな見たこともない姿だったが。
紛れもないシーフィだった。
勢い良く顔を上げるシーフィ。その視線が、神夜を捉える。
二ヵ月という時間は、あらゆる物を変えた。
地に積もる雪は消え、今は堅いコンクリート。
流れる風は、以前ほどの冷たさは帯びていない。
シーフィの姿も変わった。綺麗だった体は、傷だらけ。
だが、変わらない物もある。
神夜の気持ちは、初めて出会った時と同じだった。
ただ、会いたい。会わなければならない。その気持ちから、ここへやって来た。
シーフィの瞳には驚きが見えた。
対し、神夜の瞳には、喜びが滲みでていた。
神夜は深呼吸を二回、息を整える。そして、シーフィに向かい、笑顔で言った。
「…久しぶり、シーフィ」
一度離れた二人の運命。
その運命は、時を経て。
再び、この地で。
交わり、一つになった……
感想、指摘などを頂ければ嬉しいです。よろしくおねがいします。