2. 座敷牢にて
江戸城を頭上に臨みながら大名小路を進む。着いたのは田村邸。ここに浅野様が拘留されているという。
案内された先、そこには数人が並んでいた。
最後尾に並んでいると、部屋の奥から獣のような叫び声。つづいて人間が転げだした。足をもつれさせながらばたばたと逃げ出していく。
部屋の中に猛獣でも飼っているのか?
嫌な予感がしながらも入ると、薄暗い座敷牢のすき間からはするどい視線が向けられた。
「なんだ、貴様は」
大紋姿のままあぐらをかき、床には烏帽子が転がっている。髪はほつれ、まるで手負いの獣だ。
「話を少々お聞きしたく」
「話すことなどなにもない」
まったく話に応じる様子はない。それでも話を聞きださねば、それがしの明日がかかっているのだ。
「吉良様に刃を向けた理由を話さねば、あなたは腹を切らねばならなくなります」
「吉良……」
ようやく反応が引き出せたと思った。しかし、うめくようにつぶやいていたと思ったら、その声はだんだんと大きくなり
「……吉良、吉良ぁぁぁぁぁ!!」
だめだこいつ。
田村邸を後にしたが、その足をどこに向ければいいのか。アレからどうやって話を引き出せばいいのか、情緒不安定という度を越している。きっかけさえ皆目検討がつかなかった。
「父上、申し訳ありません……」
先祖の墓を前に、膝を折ってうなだれるしかできることはなかった。
役職をうしない、百俵の俸禄もなくなるだろう。これからどうやって家族を養っていくか。暗澹たる気持ちであった。
「ここにいたか、安藤殿」
顔をあげて後ろに目を向けると、そこには本田殿がいた。それがしがこうなった原因のひとつであるというに、その表情はまるで気まずそうな様子もない。
「昼間から尋ねてくるとはどうした。そなたも役目を解かれたのか」
「それがしはいまだ掃除之者である。それよりも話をしにきたのだ」
「なんだ、事件のことならお互いに話すことなどなかろう」
わざわざここまで足を運ぶ理由といえば、松之廊下での事件以外心当たりがなかった。
「どうした、いつになく真面目な様子だな」
「それがしはいつでも真剣である」
「いやいや、掃除道具を吟味しているとき以外はいつも昼行灯のようで。あの情熱を仕事に生かせればもっと出世もできようというのが周囲の評判だ」
「なんだその評価は、それがしは乾坤一擲つねに全力で仕事に向かっている。城内には塵一つ残さぬ」
失礼な話だ。人からの評価や噂など当てにならない。
「噂というのは馬鹿にできんぞ。たとえば、この前起きたという抜刀事件についても聞き及んでいる」
「そんな噂など興味はないが、まあ聞いてやろう」
瓢箪から駒。嘘から出た真ということもあるかもしれない。決して藁にも縋るというわけではない。
「まずは一つ目」
吉良様が浅野様をいじめていたという噂。その原因。
赤穂といえば塩の産地として有名である。吉良様の領地である三河にも塩田があり、赤穂の製法を尋ねたが断られた。
ありそうでなさそうな話だ。
「二つ目」
饗応役に任命された外様大名は礼儀作法に通じた高家肝煎が指南役につくのが決まり。饗応約の大名は指南料として高価な進物を高家に贈らねばならなかった。しかし、浅野様が吉良様に贈ったものに不満があった。
伝え聞いた吉良様の人柄はそれほど強欲ではなかったはず。
「三つ目は、なんともいえぬな」
もしくはひとえに吉良が傲慢な性格であったため、虚偽の指導をして浅野の失敗する様を嘲笑していた。
ひどい噂である。
「聞いたところではこんなところだ」
「昨日の今日で、市中ではもうそんな噂まで出ているのか」
「しょせんは噂だ。だが、聞きまわっているうちにある人に声をかけられた。今一番確かな情報源だ。聞きたいか? 聞きたいだろう?」
「あやしいな、そんな相手がいるなど。それで、誰なのだ」
「興味を示したな。ほら、これをやろう」
差し出されたのは一枚の文。立ち上がって受け取る。
中を開けば流麗な文字で丁寧に感謝がつづられていた。そこには、ぜひ屋敷に来て欲しいと書かれている。
「差出人はな、吉良様だ」
どうだ、とばかりに得意満面の顔。もちろんうれしい顔など見せずに、そっけなく受け取る。
「断るのも失礼になるだろう。どれ、行ってくるとしよう」
*
まだ春には届かない冷たい風が吹く中、呉服橋へと向かった。
吉良様の江戸上屋敷は実に立派なもので、我が家など庭の片隅に収まってしまうほどの広さだった。
名前をつげると、家老が出迎えてくれた。
隅々まで掃除が行き届いていた廊下をとおり、通された客間も立派なものだった。
「今、吉良様がいらっしゃいますので、少々お待ちを」
障子窓を開き庭を眺めていると、そこで運命と出会った。
「あの……なにか?」
庭先で働く侍女がいぶかしげにこちらを見ている。あわてて会釈する。
「やや、これは申し訳ない。あまりに美しかったので」
「え?」
「手にとってもいいだろうか」
「お客様、このようなことをされては困ります」
「そ、そうだな。失礼した」
あともう少し彼女の持つ箒を見ていたかったが仕方ない。おとなしく部屋で待っていると、ほどなく家老が案内に現れた。
奥の座敷に通された先、柔和な笑みを浮かべた老人がこちらを見ていた。御歳六十を越え刻まれた深い皺には知性と貫禄を感じさせる。
初めての出会いは衝撃的だったが、こうしてまともに会うのは初めてだ。
「よく来てくれたのう。あのときはろくに礼もいえなかった。白刃の前に身を呈してまでよく助けてくれた」
そりゃもう派手にぶつかりましたからね。本当のことは黙ったままお礼の言葉を受け取る。会話は世間話につながり、抜刀事件に移っていく。
拘留中の浅野長矩から言葉を引き出すには、彼という人間のひととなりについて調べなければならない。
殿中での抜刀ということから、短気で浅はかな人間ということなのか。だとしても、なぜあのような短慮を起こしたのかがわからない。
なにかのきっかけがあったはず。それを聞くのにこの人以上の相手はいない。
「それにしてもあのような事件を起こすとは、浅野様とは仲がよくなかったのですか?」
「いや、指南中の浅野は従順でこちらの指示を熱心に聞いていたのだがのう」
やりとりを聞いてみたが、やはり腑に落ちなかった。なぜ浅野様はあのような狼藉に及んだのか。二人の間で何か特別なことがあったはずだ。
重ねて問いかけると、「そういえば」と顎を撫でながら思い出すように語りだした。
「ひとつ覚えているとしたらあれだろうか?」
それは、二人きりになったときのことだった。指南中、浅野様が急に手を握ってきた。何のつもりかと戸惑っていると、『よい肌ですな、今宵盃でもかわしませぬか』と手の甲を撫で回してきた。
『な、なにをする。この無礼者!』
これにはたまらず突き飛ばした。体勢をくずした浅野様は運悪く柱に額をぶつけてしまった。
「痛みにうめきながらもこちらを睨む浅野の顔は恐ろしいものだった」
「それにございます!」
思い出す。松之廊下でみた鬼の形相を。人ってあんな顔できるんだね。
「ふむ、そうだったか」
「いきなり突き飛ばすなど、もうすこしやんわりと断られたらよかったのですよ」
「あのときは急に迫られて驚いてしまってのう。浅野といえば、その道では剛の者と聞いておる。普通ならば閨では一対一で相手をするというのに、磯貝十郎左と片岡源五の両名とで楽しむという。実のところまんざらではなかったのだが、わしのような老体ではもたぬだろう」
はっはっはと笑う吉良様。
それがしもはっはっはと笑った。だって笑うしかないじゃないか。うーん、どないしよ。