1. 松之廊下
松の廊下。
江戸城内の清掃を任された掃除之者の間では、そこはしばしば技を競う場となった。江戸城内の清掃をまかされた掃除之者にとって、いかに早く隅々まで清めることができるかが剣の腕よりも大切である。
長さ百六十五尺、幅四尺の大廊下を端から端まで雑巾がけの速さを競う。
それがしは安藤家が嫡男の重義。父より継いだこのお役目に誇りを持ち、誰よりも速いという自負はあった。しかし、二百余名在中する掃除之者の中でいまだに勝負がつかない相手がいた。
「では、各々方用意はよろしいか」
両手で雑巾を床に押し付けて、膝をあげ合図を待つ。
隣では宿敵、本田殿が不敵な笑みを浮かべている。
速さでは決して遅れをとるはずはないのだが、何かと策を弄しては勝ちをさらわれていた。
元禄十四年如月の四日、今日こそは思い知らせてやらねばと意気込んだ。
「ん? あれは……」
合図役は何かをいぶかしんでいるようだった。もしも、事故があってはならぬと見張りを頼んでいた。
何かあるのかと気にしていると、隣の本田殿がにやりと笑みを浮かべた。
「あっ、卑怯なり」
合図を前に飛び出した背中を、数瞬遅れて追った。
膝に力をいれて磨かれた床をけりたてていく。松と千鳥がかかれた襖を置き去りにし速度を上げると、目の前の背中との距離が縮まり始めた。
不意にその速度が落ちた。どのような企み事かはわからぬが抜くべきであろう。
「ま、待たれよ。安藤殿!」
「待つものか。不正を働いたのはそちらの方であろう」
焦る本田殿を横目に一気に追い抜いたと思った瞬間、叫び声が聞こえた。何事かと気をとられたとき、二本の足が視界に入る。立派な袴は間違いなく旗本以上が身につけるものであった。
急制動をかけるが遅きに失した。
「な、なんということだ。しっかりしてくだされ」
目の前に倒れている相手は、よりにもよって高家肝煎の吉良義央様であった。
床に倒れてうめき声をあげる吉良様に近づこうとしたとき、すぐそばに立つ足に気がついた。
顔を上げれば、そこにいるのは赤穂藩の藩主浅野長矩様であった。
身分の差はあれど人命がかかっているのだ。助力を願おうと声をかけようとしたところで、その表情に気がつく。
鬼がそこにいた。
憤怒に顔を赤く染め、その手には抜き身の刀が握られている。今にもその刀を振り下ろさんばかりの様子。死がそこまで迫ってきているのを感じた。
「で、殿中でござる!」
掃除中は帯刀していない。もっていたとしても城内で切りあうなどもってのほか。なによりも実戦経験などない。浅野様の足にすがりつきなんとか気を静めていただく他にない。
「ええい、離さぬか! 吉良あぁぁぁ!」
「ひぃぃ、どうかお気を静めくだされぇ!!」
騒ぎを聞きつけた警備達が集まってくる。その間も暴れる足を両腕で抱え続けることで、なんとか命だけは助かった。
*
騒ぎの後、城内の一室にて沙汰を待っていた。
おそらくは除籍を免れないだろう。父より継いだ役職を、自分の代で終わらせることに不甲斐なさで胸が張り裂けそうであった。
「安藤はおるか」
上役である掃除之者組頭の声が響いた。せめて部下への介錯は自分の手でということなのだろう。
しかし、組頭の隣にいる人物を見て体を硬くした。
「そなたが掃除之者である安藤重義でよいか?」
「え、あ、はい……」
「ほれ、多門様が聞いておられるのだ。はよう答えぬか」
多門重供、七百石の旗本であり目付役とも聞いている。彼がここに来たという意味を考えたくなかった。
「やはり、切腹でございますか」
掃除だけが取り得の身なれば腹芸などできぬ。
「既に話は届いていたか。実はそうなのだ。このままでは切腹となるだろう」
「そうですか。覚悟を決めねばなりませんな」
切腹ということは、名誉を守ることだけは許された。死罪を言い渡されぬだけ温情をかけてもらったのだ。
「して、日時は」
「殿は近日中にというお達しだ」
「殿が、そのようなことを……」
殿にまでご迷惑をかけてしまったとあっては潔く腹を切るしかない。
「場所は田村邸の庭先でと、大目付の庄田様がおっしゃっておる」
「なんと、そのような……」
やはりそうだ。それがしは軽く見られているのだ。せめて最後ぐらいは綺麗に終わらせて欲しい。通常、武士の切腹は預かり人の邸内で行われる。しかし、庭先での切腹は重罪処刑の扱いであった。
「そうだ、大名としてこれほどの屈辱はないだろう」
あれ? それがしって大名だったっけ?
「この扱いは実にむごい。そうなると、面子をつぶされた赤穂藩の遺臣たちがどうするかわからぬ」
赤穂藩とは縁も所縁もないはずなのだがな。おっかしーなー。首をひねろうとしたときと組頭が渋い顔で注意してきた。
「なにをとぼけた顔をしている。多門様はさきほどの松之廊下での抜刀事件で聞きにいらっしゃったのだ。見たこと聞いたことを包み隠さず申してみよ」
抜刀事件? それがしが手打ちにされそうになっただけでは……。あーあー、なるほど。完全に理解した。安堵した顔は見せないように神妙な顔を続ける。
「実は……、それがしはあの場に居合わせていただけでございます。とっさに割って入った次第でございまして」
「なるほど。ことのあらましを説明しておこう」
事件の概要を聞かされた。
本日は年賀の挨拶にと朝廷からの使者がいらっしゃる大事な日であった。組頭からも特に念入りにと掃除を言い渡されていた。
吉良様はというと、饗応役を任された浅野様の指南を今日まで行っていた。典礼にもなれた吉良様の指導に浅野様も従っていたそうだ。
しかし、本丸御殿から白書院へとつながる松之廊下を歩いていたところで突然切りかかられたらしい。
あのとき聞こえた浅野様の叫び声。
『この間の遺恨覚えたるか!』
あれが切りかかったときの声だったのか。
「あのとき、そなたが刀の前に飛び込んでいかなければこの大事な日が血で汚れてしまっただろう。その勇気と判断、実に見事であったぞ。吉良殿もたいそう感謝している」
「いえ、それがしはやるべきことを為しただけでございます」
偶然とは恐ろしい。本当のことは墓まで持っていくことにしよう。
それからも多門様からの言葉に黙ってただ赤べこのようにうなずきつづけた。組頭からは疑いの視線を感じるが、口を挟むことなどできないだろう。
この流れならばきっと何の咎めもないはず。だけど、多門様がこちらを見る表情が気になった。「実はだな」と切り出され、ほらやっぱりと思うのだが神妙な顔は崩さないようにした。
「このままいくと浅野が切腹させられるやもしれぬのだ」
江戸城内での抜刀の罪は重い。鯉口三寸切腹の法度は聞かされているが、それでも絶対というわけではない。
「まことでございますか? 浅野様が切腹となれば、赤穂藩のものたちはさぞ不憫な思いをするでしょう」
「少々事情が込み入っているが、幕閣ではできるだけ穏便にすませる方向で動いておる。問題なのは、浅野本人だ」
「というと?」
「本人に乱心を認めさせた後隠居させ、藩主は弟の浅野長廣にまかせるというのが我らの筋書きだ。しかしだな、浅野殿が頑として認めようとせぬのだ。すべては吉良殿への遺恨によるものと主張している。そこでひとつおぬしに頼みたいことがあるのだ」
嫌な予感がしながらも話を続ける。
「もしや、浅野様を説得せよと?」
「しかり。浅野の乱心の理由を聞きだすのだ」
「しかし、それがしなどただ掃除が取り得なだけでございます」
そのような大役はつとまらない。そう断ろうとしたとき
「ところでもう一つ困ったことがあるのだ。あの場にいたものたちの話も聞いていたところ、そなたらの競技について聞き及んだ。大目付の庄田様にもそなたらがしていたことが耳に入る可能性があるやもしれぬ」
びくりと体がすくむ。組頭はというと実に気の毒そうな表情でこちらを見るばかりだ。
「厳しい方でな。おぬしの働き次第では変わるかもしれないのう」
試すような言い方であったが、「やります」というほかなかった。