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ガラス細工

作者: たけのこ

 頬杖をつきながら窓から外を見てみると、校庭ではまばらに人が散っていた。みんな運動着を着ており、体を思い思いに伸ばしたり縮めたりして準備運動をしている。太陽に照らされた明るい大地の上で体を精一杯動かしている彼らを早紀は羨ましく思った。少し前まで自分も彼らと同じ人種だったのに。そう考えると思わずため息が出てきた。無駄だとわかっていても考えてしまう。手に持っていたボールペンを机の上に放り投げ、椅子にだらりともたれかかった。


 放課後の教室には早紀の他には誰もいない。窓際の席から教室全体を見渡すと、いつもより広く感じた。ほんの数分前まではクラスメートたちで溢れかえっていたのに、いつの間にかみんなどこかに行ってしまった。みんなやることがあるのだろう。物憂げな表情を浮かべながら再び外の方に目をやると、開け放たれた窓から風が入ってきた。思わず目をすぼめる。風は肩のあたりで切り揃えられた早紀の髪を微かに揺らした。夏の陽気を目一杯吸い込んだ風は身体を優しく撫で、少し冷えていた体を暖かくする。


「そろそろ行こうかな」


 早紀は自分にそう言い聞かせる。再びボールペンを握りしめて、ずっと目をそらし続けていた書類に必要事項を書き込む。間違えのないよう丁寧に。そうしてようやく椅子から立ち上がってバックを背負い、書類を手に持って教室を後にした。リノリウムの廊下を歩くたびコツコツと足音が静まりかえった校舎の中を反響する。その音は時計の針のように規則正しく一定のリズムを保って鳴り響く。本音をいうと戻ってうたた寝でもして、この用事を済ませるのを少しでも後回しにしたかった。


 しかし、もうこれ以上先延ばしにするわけにはいかない。その決意が早紀を前へ前へと進ませる。時計の針は進むことはあっても巻き戻ることはないのだ。思わず手に力が入り書類が少しくしゃくしゃになる。その紙には「退部届」という文字がはっきりと刻まれていた。



※※※※※



 「失礼しました」と言いながら軽く頭を下げ、職員室を出た。腕時計を見てまだ時間に余裕があることを確認すると、校舎から離れて部室棟の方へ向かった。鋭い日差しが暗所になれた目を射抜き、早紀の頭をくらくらさせた。

 部室棟はグラウンドの隣にあるものの、構内の端にあるため人影は見えなかった。みんなグラウンドの方で部活動しているのか、声はグラウンドの方からしか聞こえない。


「今日のグラウンドの割り当ては確かサッカー部だけだったよね?」


 心の内で自分に質問してみるが答えは出ない。ちょっと立ち止まってみる。少し思案したのち、脳の海馬に眠っている目当ての記憶を発掘し確信を得ると、早紀は前へと足を踏みだした。念のため周囲に人がいないことを確認する。そして陸上部と書かれた張り紙がしてある扉を開け、部屋の中に入った。外の光があまり届かないため室内は薄暗いが、中の空気は換気されていないため凄まじい熱気を保っていた。汗が首筋を伝っていく。加えて中はムッとするような汗の匂いで満ちており、早紀は思わず顔を歪める。この不快な臭いはしかし、懐かしい匂いでもあった。


 川崎早紀と書かれたロッカーを開け、中から自分のシューズなどを取り出し、袋詰めにしてカバンの中にテキパキと入れる。不思議と悲しくはなかった。荷物自体は少なかったので片付け自体はすぐに終わった。ふと、顔を上げて窓の方を見る。窓の手前には机が置いてあり、その上には写真立てや可愛らしい置物などがいくつか置いてあった。その中に一際目を引くガラスでできた猫が二匹がいた。猫は手のひら大であり、一方は赤で、もう一方は青でできており、そのコントラストは美しかった。彼らは窓から微かにこぼれる日の光を吸い込んでキラキラと輝いている。


 早紀がそのうちの青いものを取ろうとしたとき、後ろから誰かに名前を呼ばれた。声のする方へ振り向いてみると、そこに自分と同じ制服を着た女の子が立っていた。逆光のため彼女の顔はよく見えなかったが、目を凝らしてよく見てみると結衣だとわかった。日々の練習で太陽の恵みを受けた彼女の皮膚は小麦色に焼け、早紀の色白さとは対照に健康的な色艶を保っていた。目がぱっちりとしていて可愛らしい顔のくせに、勝気な性格のためいつもは凛としている彼女の表情はどことなく寂しそうだった。


「あ、結衣!久しぶりだね。どうしたの?今日って確かオフじゃなかったっけ?」


 早紀がとぼけるように聞く。優しく慎重に。しかし、結衣の表情は始終真面目だった。夏の陽気に照らされて、汗をかき、血の巡りが良くなっているはずの頬はどことなく青白い。


「うん。そうだけど、早紀が部室棟の方に行くのが見えたから」


 彼女は少し目線をそらし、申し訳なさそうに答えた。沈黙が二人の間に生まれる。額を流れる汗がやけに冷たく感じた。

 ボールこっちにパス!とグラウンドの方から叫び声が聞こえてくる。ボールが蹴り飛ばされ大地を駆け巡る音が聞こえる。それを追いかける選手たちが勇ましく研鑽し合う音が聞こえる。心臓がばくばくと鳴り響く音が聞こえる。それ以外は何も聞こえない。


 結衣は依然として明るい外の世界から暗い部室の中にいる早紀に向かい合っている。彼女がこちらに歩み寄る気配はない。同じように早紀もまた結衣に近づきがたく感じていた。彼女は目線を落としたまま、固く結ばれた唇を震わせていた。早紀はその口が開かれるのを恐れた。


「そういえばさ、この前、秋と一緒に映画見に行ったんだけどさ。その映画がなかなか面白くてね。結衣がこの前好きだって言ってた俳優の───」


 早紀、と結衣が話を遮る。その声は力のこもったものであり、周囲の空気を凍りつくような気がした。その途端、早紀の表情筋は思わずこわばる。今度は何も聞こえない。早紀は結衣から目を離すことができなかった。


「部活、やめるの?」


 掠れて今にも消え入りそうな声だった。彼女の表情は悲哀に満ちていた。その目は今にも泣き出しそうであり、その唇は微かに震えており、ただ早紀の宣告を待っていた。チクリと胸に痛みが広がるのを感じた。普段は負けん気が強く、弱い側面を一切見せない彼女がそんな顔をするなんて。何より許せなかったのは、彼女をそうさせているのは自分自身だということだった。早紀は動揺を何とか腹の中で抑えて、微笑んだ。そう笑うんだ。笑うしかないのだ。


「うん、さっき退部届出してきた」


 結衣は一瞬こちらを向き、目を大きく見開く。そうして何かを言おうとして口を開けては閉じるという動作を繰り返した。その度に息がこぼれる。しばらくはただ潤んだ視線をこちらに向けるだけだった。その瞳は震えていた。やがて聞き逃してしまうほど小さな声を発した。


「どうしても無理だったの?」


「うん、お医者さんはもう激しい運動は無理だって」


 結衣の視線がだんだん落ちていく。そんな、という声が聞こえた気がした。


「大丈夫だよ。正直、私みんなの中で一番足が遅かったし…。ほら一年の真木ちゃん。あの子の方が私よりも早いからもっといい成績の残せるだろうし───」


 早紀は努めて明るく振る舞ったが、その間結衣はずっと俯いたままだった。ぽたっ、ぽたっと彼女の瞳から雫が垂れてきた。


「ごめん。私の、私のせいだ。私が無茶させちゃったから。そのせいで…。」


 そして結衣はその場で声にもならない声を漏らして膝から崩れ落ちた。早紀は結衣に駆け寄って彼女を支える。


「結衣のせいじゃないって。大丈夫だって。そもそも自己管理ができてなかったせいだし…。それにほら、今はこの通り元気だし!」


 早紀はにこやかに笑って見せる。しかし結衣は真っ赤に腫らした目をこちらに向けるだけだった。「でも、でも…」と言いながら、子供が駄々をこねるように結衣は首を振り続けている。早紀は優しく彼女の頭を撫でた。


「大丈夫、大丈夫だから」


 早紀はそう言ってなだめることしかできなかった。

 夏の日差しは結衣だけを照らしていた。



※※※※※



 ひとしきり泣いた後結衣はいつもの結衣に戻っていた。彼女は一緒に帰ろうと誘ってきたが、早紀は病院に行かなければならなかったので彼女とは校門で別れた。

 別れ際、「またね」と結衣は控えめに手を振ってきた。


「うん、また一緒に走ろうね」


 早紀がそういうと彼女は子供みたいな笑みを浮かべて、うんと力強くうなづいた。そして結衣は明るい通りへと消えていった。それを見届けると早紀は木陰のある壁にもたれかかった。ほっと息をつく。青々とした葉っぱから光がちらちらと早紀の身体にあたる。急に全身で日の光を浴びてみたくなったのでカバンを壁際に置き、歩道に数歩飛び出した。あつい日差しが早紀を包み込み、明るい世界の中で白い手足が露わになる。以前よりも白く、細くなった手足からは活力が感じられず、ちょっとした衝撃で折れてしまうような気がした。降り注ぐ太陽の光を手で隠しながら空を見上げると、入道雲がもくもくと空に浮かんでいた。ぼーっとしながら眺めていると、綿飴みたいに白く美しい雲は風に流されてどんどん遠くに流されていくような気がした。


「私の夏が終わっちゃったな」


 ポケットにしまいこんでいた猫を太陽にかざしてみた。ガラスでできた猫は透き通るような青で、キラキラと輝く。そこのうっすらと映る自分の姿は一年前と変わっているところは何一つない(もちろん背丈は伸びているが)。にもかかわらず一年前と今の自分には大きな隔たりがある。しばらくの間青い猫から目を離せなかった。



※※※※※



 文化部でのんびりと過ごした中学時代とは違った高校生活を送ってみたいと思い、一念発起して入ったのが陸上部だった。文化部だったうえ、元から足は速い方じゃなかったので、みんなについていけるかとても不安だった。けれども、先輩が優しかったのと同級生、特に結衣の支えがあったのでなんとか続けることができていた。結衣は中学からの旧友で、ずっと走り続けてきた人間だった。高校入学後、早紀が陸上部に入りたいと告白すると、彼女は大いに喜んでくれた。


 実を言うと彼女の存在こそが早紀が陸上を選択した原因だった。忘れもしない中学三年の夏。早紀は当時のクラスメートたちに誘われて、結衣の引退試合の応援に出向いた。当時、早紀と結衣は今ほど仲良くなく、どちらかというとただクラスが同じだけの知り合いに近い関係だった。


 その日は特に暑い日で、昭和に建てられたであろう古い競技場には屋根がなく、太陽の光熱を頭にジリジリと感じながら試合を見ていた。結衣の出番よりも早く着いてしまい、長時間日の光にさらされていたので、早紀たちは暑さにぐったりとしていた。もう諦めて帰ろうかと思った矢先、結衣の出番が来た。


 パンッという合図で競走が始まった。照り返す日差しの下、赤い大地を蹴り返して彼女はぐんぐん進んで行く。手足を力一杯無駄のない動きで動かしていく。青い空を背景とした明るい世界の中で生命の輝きを放つ懸命なその姿に早紀は釘付けになった。


 彼女は他の選手が団子になっているのとは対照に、一人何ものにも縛られず、自由に大地を駆け巡って行った。そうして他の選手を置いてけぼりにし、見事一位を勝ち取ったのだった。一人颯爽と駆け抜け、凜としているその姿に早紀は憧れた。


 入部後、激しい運動をした経験がなかった早紀の身体は過酷な練習にすぐ悲鳴をあげた。けれども、あの日憧れた世界で自分も走ってみたいと強く願っていたので、来る日も来る日も走り続けた。必死になって練習しているにも関わらずなかなか成果が出ず、悔しくて泣いたこともあった。いくら練習しても成長できず限界という壁を痛感したこともあった。神社にお願いしに行ったりもした。そして自分には向いていないのではないかと考えてしまうこともあった。そんな時助けてくれたのはやはり結衣だった。面倒見の良い彼女は早紀の個人練習につきあってくれた。そしてダメなところを一つ一つ丁寧に指摘し、それが治るまで根気よく教えてくれた。


 その結果として、高校に入って以来の大半の時間を彼女と過ごした。二人は学校にいるときも、それ以外の時間も頭の中を走ることでいっぱいにして日々の学校生活を送った。今までの人生の中で最もたのしいひとときだった。


 青い猫を買ったのは去年の秋口、確か大会の後に結衣と遊んだ時だった。試合の結果は良くなかったものの、日々の練習で頑張ったご褒美としてその日は目一杯遊んだ。普段は行かないようなお洒落なお店に行くのはちょっとした非日常感があり、とても楽しかった。


 街中を歩いている途中、通りの中で一際輝く光がこぼれている店に目が止まった。じっとしてみていると、中に入ってみようかと結衣が言ってくれた。


 そこはガラスの工芸品を取り扱っているお店で、まぶしい照明が店内に所狭しと飾ってあるガラス細工たちに光を注いでいた。ゆっくりと品々を眺めていると、ふと猫のガラス細工に目が止まった。青と赤でできた一対の猫は各々しなやかな曲線を描いており、今にも動き出しそうな勢いを持っていた。早紀は特に青い猫から目が離せなかった。その青はちょうど練習中に頭上で広がるあの青空のように雄大で希望に満ちみちた青であった。


 猫はやがて意思を持ち出して、店内を自由に動きまわる。そびえ立つ壁の前で立ち止まることしかできず、身動きが取れないでいる早紀とは対照に、なにものにもとらわれることなく思いのままに駆け巡っていく。そんな気がした。

 自然と手に取っていた。早紀は青い猫に魅了されていた。やがて別の品を眺めていた結衣がやってきた。


「それ買うの?」


「うん、買おうかな」


「じゃあ私は赤い方を買おうかな」


 結衣はなぜか得意げな顔をしていた。帰り際、猫の入った紙袋を抱えながら結衣はにこやかに笑った。


「お揃いだね」


 そういう彼女はどことなく恥ずかしそうでもあり、嬉しそうでもあった。もちろん早紀も同じだった。早紀は決意を新たにして結衣に宣誓した。


「私頑張るよ。頑張って絶対に結衣みたいに走れるようになるよ」


 その日を境に、より一層練習に打ち込むようになった。彼女との練習は苦しかったけど、それ以上に何かを手にしている感覚があった。結衣に早く追いつこう、そして一緒にあの赤い大地の上を駆けまわろう。そう思い頑張っていた矢先の出来事だった…。



※※※※※※



 青い猫はかつての輝きを失っていない。まだ夢を抱えたまま太陽に照らされている。

 やがて車が一台、早紀に近づいてきた。お母さんだ。早紀は猫をポケットの中にしまい込んで、カバンを抱えて車に乗り込んだ。二、三言会話を交わしたのち、車は走り出す。早紀は黙って外を眺めていた。眺めていると広大な青空に視界の端から黒い雲が迫ってくるのが見えた。



※※※※※



「先生やっぱりもう走れないんですか?」


 白髪まじりの医師は少し困った表情を浮かべる。それに合わせて額に刻まれたシワがより深くなる。目を伏せしばし逡巡したのち、重い口をゆっくりと開けた。そして以前と同じ説明を先生は壊れたテープレコーダーのように繰り返すだけだった。後ろに控えるお母さんはずっと俯いたままだ。


「今の君の身体は以前のように絶対安静というわけではない。むしろ軽い運動ならリハビリにもなるからしたほうが良い。しかし激しい運動ができるほど身体はもどってはいない。今の君の身体はひどく脆い状態なんだ」


「脆い、ですか」


 医師は厳かにうなづいた。


「確かに歩けるようになるまで回復した。しかし今無理をすると君はもう二度と歩けなくなるかもしれない。一度完璧に壊れた機能は取り戻せないんだ。部活のことは気の毒だが、しばらくは厳しいだろう。用心したまえ」


 早紀はただうなづくしかなかった。



※※※※※



「ちょっと近くの神社まで散歩しに行っていい?」


 診察後、支払いを終え駐車場に向かおうしていたお母さんはそれを聞くと、不安の色を浮かべ、二、三の小言を述べて反対した。


「先生もああいっていたし今は安静にしておいた方がいいよ」


 母の親切な言葉はしかし、その時の早紀にはひどく意地悪のように聞こえた。ずっと体を動かさずにいたのだからちょっとくらいは許してほしい。そんな内心を反映するように、むすっとしただいぶ無愛想な顔をしていたと思う。


「でも神社はここからすぐだし、先生も少しは体動かさないとダメって言ってたじゃん」


 早紀もまた医師の言葉を引用した。しかしそれでも母は不安そうな顔をしていた。しかし結局早紀に根負けし、渋々承諾した。


「駐車場で待ってるから早く戻ってくるのよ」


 そんな母の言葉を聞き流し早紀は外の世界へと歩み出した。



※※※※※



 先ほどまでの快晴とは打って変わり、空は黒く焼け焦げ、一面どんよりとした雲で覆われていた。青い空は灰色に塗りつぶされており、先ほどまでの清々しい天候はどこかへ消えてしまった。心なしか先ほどよりもじめっとしている気がする。


 やはりやめておこうかとも思ったが、この辺りまで来ることは中々ないので、崩れゆく天気を意に介さず目的地に向かって歩き続けた。ふと結衣の顔が思い浮かんできた。ポケットの中に猫がいることを確認する。大丈夫。大丈夫。自分にそう言い聞かせながら歩く。雨がポツポツと降ってきた。やがて神社の鳥居が見えてきた。


 神社はちょっとした丘の上にあるので、拝殿に行くには階段を登らなければならなかった。それほど高くはなく、段数もたかが知れているので気にもとめていなかったが、実際に登ってみると数段で息が荒くなってきた。息を吸うたびに肺が大きく伸縮していく。かつて大会前にみんなで参拝したときは楽に上がれていたのに、今では途中で膝をついて休憩を挟まないと苦しい。一歩一歩力を振り絞って登っていく。その途中、身体のどこかからミシミシと音が鳴ったような気がした。


 ようやく石段を登り終えた時には雨は本降りになっていた。体力を消耗し肉体は疲弊しきっていた。身体が普段の数倍重く感じる。呼吸をするたび喉の奥がヒューヒューと鳴り、血の味がした。膝に手をついて肩を上下させ、息を整える。雨に濡れるのを気にする余裕すらなかった。


 濡れた髪を掻き分けて拝殿の方を見てみると、境内はがらんとしていた。ここは元々人が少ない神社であったうえ、ここらへんでは珍しく豊かな自然が保存された場所であった。せわしない下の世界とは異なり時間がゆったりと進む場所なので早紀はこの神社を気に入っていた。しかし天候が悪いせいか、薄暗い境内はどことなく不気味だった。


 ある程度体力が回復したのを感じると、ゆっくりと歩いて拝殿の廂の中に入り込んだ。建物の中はやはり薄暗かった。財布から小銭を取り出して、賽銭箱の中に放り投げた。作法に則って参拝をする。


「また元気に走れますように」


 自然と声に出ていた。ちょっと驚いたが、気を取り直して手を合わせ再び心の底から願う。

 参拝を終え、振り返って空の景色を眺めてみると、依然として空は雲で蓋されている。手を空に向かって伸ばしてみるが、太陽を手にすることはできない。灰色の雲によって青空への道は閉ざされ、もはや太陽のぬくもりを感じることはできなかった。


 急に体が寒さで震え上がった。体を拭こうにも荷物は全て母に預けてしまったので拭くものを持っていない。呆然として立ち尽くすことしかできなかった。


 雨が止む気配は一向にない。雨が止むのを少し待とうかとも考えたが、母を待たせているのでやはり早く帰りたかった。何より濡れたカッターシャツが体から熱を奪い続けており、このままでは風邪をひいてしまいそうだった。


 途端胸に不安が広がる。身体がガクガクと震えだす。ポケットから猫を取り出した。手に持ってギュッと握りしめる。猫はほんのり温かかった。グラウンドの広々とした大地が脳裏をよぎる。猫のぬくもりが早紀の心を温めていく。いつの間にか震えは止まっていた。

 雨の音が周囲に響く。軽く深呼吸すると、早紀は薄暗い世界へと足を踏み出した。石畳の上を歩くたびにコツコツと音がする。


 次の瞬間、世界がくるっと回転した。ゴンッという鈍い音が鳴り響くとともに左半身に激痛が走る。身体からパキッという音がなった気がした。


 しばらく激痛のあまり身動きが取れず、また声すら出すことができず、その場でうずくまっていた。痛みが少し和らいだのを感じると歯を食いしばって立ち上がろうとした。しかし思うように体が動かない。後ろをちらりと見ると石畳の一部が地中に沈んでいる。雨のせいだろうか。忌々しく睨みつける。


 ふっと息を吐いて気持ちを静めるために猫を握りしめようとした。しかし、両の手のひらのいずれにもいない。はっとして顔を上げて前を見る。早紀は目を大きく見開き、一瞬呼吸することすら忘れた。


「あっ」


 呼吸が荒くなり、動悸が激しくなるのを感じる。自分の目を信じることができなかった。身体が小刻みに震える。先ほどまで感じていた痛みを忘れ、這いつくばってそれに近づいた。肉体に広がる痛みは目の前に広がる惨状に比べれば大したことはなかった。早紀は現実を受け入れたくなかった。


 青い猫は砕け散っていた。四肢はもげ原型を保っていない。石畳の上に散乱した青い破片は泥水で汚れており、かつての透き通るような青い輝きは消え去っていた。


 力を振りしぼって上体だけ起こす。そして怪我をする可能性も考えず、必死になって破片を拾い上げ、もとの形を取り戻そうとするが、何度やってもくっつかない。中には粉々になっている部分もあり、どう見ても修復は不可能だった。諦めることができず破片同士を繋げようとするが、逆に削れてしまい元の形から遠のいていく。残ったのは手のひらに広がる赤い斑点だけだった。


 頬にひと筋の糸が伝ってゆく。壊れたガラスは戻らない。青い輝きも失われてしまった。一度完璧に壊れたものはもう二度と戻ることはない。時間は前方に向かって一直線にしか進まず、後戻りすることはない。残酷だ。あまりにも残酷だ。


 急速に身体の芯まで冷え上がっていくのを感じる。早紀はただ砕けた破片を見つめることしかできなかった。ただうずくまって泣くしかなかった。


 一対の猫の片割れは現実から消失し、きらめく世界とのつながりを失った早紀は一人薄暗い世界に取り残された。

 結衣が走るあの太陽で照らされた世界で走ることはもう叶わない。自分はこの雲で覆われた世界の中で生きるしかない。そう思った。


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