8.休日の午後
それから一週間ほど経ったある日、僕は意外な人物と出会った。その日は、太陽がいつにもまして我が物顔でのさばった、雲ひとつない晴天だった。空を見上げると、くっきりと、挿絵の中から取り出してきたような、わざとらしさすら感じる出来すぎた青天が広がっていた。その中心で太陽が「げはははは」と下品な笑い声を上げている。きっとその下品な笑い声に嫌気がさして、雲もどこかへ行ってしまったのだろう、などと考え事をして歩くほど、そのときの僕は暇を持て余していた。
そんな暇人が散歩がてら立ち寄る場所は、趣味が読書という時点で近所の本屋ぐらいしか思い浮かばなかった。しかし、せっかくの休日だと意気込んで、わざわざ隣町まで足を運び、結局読みたいと思う本を見つけられなかった僕は、なんだかどうでもよくなって、来た道を手ぶらで引き返していた。
ぼんやりと時々空を眺めながら歩いていると、前から歩いてくる女の子と目が合った。その女の子は、僕と目が合うと、あっと口を開けて不意に立ち止まった。道端で偶然知り合いに遭遇したというようなリアクションだったけど、おそらく気のせいだろう。僕の方に女の子に見覚えはなかった。
気にせずすれ違おうとすると「工藤君」と声をかけられた。どうやら気のせいではなかったらしい。僕は足を止めて、見覚えのない女の子を振り返った。
「こんにちは」
彼女は僕と目が合うと、今度は微笑みながら挨拶を交わしてきた。笑うと頬に小さなくぼみができた。そのえくぼを僕はどこかで見た覚えがあった。
「こんにちは」
挨拶を返しながら、僕はそのえくぼをいつ見ただろうと思案した。もう一度見れば今度は思い出せる自信はあったけど、初対面同然の女の子に「ねえ、笑ってみて」なんて言ってのける自信はなかった。
さしあたって、もう一度彼女が笑ってくれるまで、僕は話をつなぐことにした。
「えっと、なにしてるの?」
「気分がよかったから、ちょっと散歩に出てみようと思って」
彼女の言葉を僕は、天気がよくて気分がいいと受け取った。空を見上げると「げはははは」と相変わらず太陽が下品な笑い声を上げていた。憂鬱になりはすれ、間違っても気分はよくなりそうになかった。
「そう?」
上げていた視線を彼女に戻してそう声を出すと、彼女は小さく笑った。頬に浮かんだえくぼを見て、僕はその笑顔をどこで見たのか思い出した。
「そうじゃなくて」
「え?」
「私、昔から体が弱いの。今も風邪をこじらせちゃって一週間も学校休んでるでしょう? やっと、風邪が落ち着いたから、久しぶりに散歩がしたくなって」
「ああ、そういうこと」
てっきり、彼女が学校に来なくなったのは風船顔の女子のグループの嫌がらせのせいだと思っていた。少なくとも、そうなっても仕方ないと思えるほど風船顔の女子のグループの嫌がらせは陰湿で徹底していた。その標的に改めて自分がされてみると、思った以上にそれは学校生活を送る上では不自由なものだった。
「提案なんだけど」
唐突な僕の言葉に、彼女は目を丸くして僕を見た。
「その風邪は後一週間ぐらい長引かせることはできないかな」
僕の言葉の真意を汲み取ろうと、彼女がじっと僕を見つめた。僕は、その視線を受け止めながら声を出した。
「綾瀬さんが一週間学校に来なくなってる間に、嫌がらせの標的が僕に変わったんだ。後一週間あれば、標的が綾瀬さんに切り替わる心配はないと思う」
僕の言葉に、彼女は目を丸くした後に、また微笑んだ。
友菜の部屋のフォトボードに張られていた写真の中に、友菜と一緒にピースサインを向ける女の子の写真があった。おとなしそうな中世的な顔立ちをしたその女の子は、両頬にえくぼを作って控えめに微笑んでいた。
その写真の女の子と綾瀬さんが同一人物だと気づいて初めて、僕はそういえば彼女がクラスメイトであったことに気づいた。後になってそうだと気づいたのは、きっと教室で彼女の笑顔を一度も見たことがなかったからだ。制服姿の彼女しか見たことがなかったことも要因だったけど、人の顔と名前を覚えることに気をつけない僕の性格が根本的な原因だった。
彼女の身に着けたワンピースの白が、陽光を浴びてくっきりと浮かんでいた。胸の辺りまで伸ばした髪に手を添えて、彼女は「今、時間あるかな」と言った。
彼女のその言葉に僕は「もちろん」と声を返した。
「休日に隣町まで本を買いに来るほど時間を持て余してるんだ」
「それじゃあ」
そう言って、彼女は頬にえくぼを作った。
「少し付き合ってもらってもいいかな」
「もちろん」
遠くで、蝉の懸命な鳴き声が響いていた。