6.無意味でも必要なこと
うだるような暑さの中、その店はぽつねんとそこにあった。駅を二つまたぎ、人気のない商店街を抜け、長い坂道を抜けた突き当たりのそこが、どうやら、メモに書かれた住所と一致するらしい。
交番でその住所の場所を聞くと、人のよさそうなおじさんは、わざわざ紙に地図まで書いて、丁寧にこの場所を教えてくれた。よければ案内しようか、と言い出される前にさっさとお礼を済ませ交番を出た僕を、あのおじさんは不審に思っただろうか。おそらく、後一分長くあそこにいたら、今頃僕の隣には人のいい警察官が朗らかな笑顔を浮かべて立っていたことだろう。
「喫茶 パ イス」
店の入り口にペイントされた難解な文字は、おそらくこの店の店名を指しているのだろう。風化して消え去った文字を修繕しないのは、訪れた客に店名を考えさせる高度な営業戦略だろうか。少なくとも、店全体から「改装はしねえ!」と頑なな意思を感じ取った時点で、この店の客になりうる人間は自ずと限られてきそうだった。
客に資格を求める店もどうかと思ったけど、一見さんお断り、と同じようなノリであるなら、僕に文句は言えなかった。確かにこの店が持つオーラは、見方を変えれば誇りになり得る。あくまで、古びた店ではなく、ここは歴史ある店なのだろう。
それにしても、この歴史ある喫茶店と友菜との間に接点を見出すことはかなりの難航を極めた。友菜の趣味嗜好なんて詳しくは知らないけど、果たして16歳の女子高生に、この店の持つ歴史の重みを理解することはできるだろうか。
しばらく店の前で立ちあぐねた結果、僕はとりあえず店の中に入ることを決めた。朝から、風船顔をした女子のグループに「まだ聞き出せてないんだ」と平謝りを繰り返し、ようやくここまで辿りついたのだ。その代価が何もなしではとても割に合わなかった。
よく言えばレトロな、悪く言えば時代遅れな喫茶店の扉を開けると、ぎいぃーと蝶番が間の抜けた音を出した。外観の頑なさをまるで感じさせない店内の小奇麗な様相に、なにか騙されたような気がしたけど、気にしないことにした。
カウンター席が六つに、テーブル席が二つ。こじんまりとした喫茶店の主らしき人物はカウンター席の向こう側で、熱心に新聞を読みふけっていた。奥まった場所に設置されたテレビは、今日起きたニュースを熱心に伝えていたけど、彼の耳には届いてはいないようだった。
店内に流れる大げさなほどポップな音楽は、果たしてこの店の主の趣味だろうか。頑なさに惹かれてこの店を訪れた客に対して、この店の主はどう責任を取るつもりだろう。
「あの、すいません」
僕が声をかけると、難しい顔をして新聞を睨みつけていた老人は、ピクリと肩を揺らしてから、新聞にそうしていたように僕をにらみつけた。見たところ、年は六十前後だろう。若者全てに敵意を持っているようなその鋭い眼光は、裏返すとただの近眼に落ち着いた。僕がカウンター席まで歩み寄ると、老人は何度か瞬きを繰り返してから「ああ」としわがれた声を出した。
「悪いな。まだ営業時間じゃねえんだ」
老人はそう声を出すと、また持っていた新聞とにらめっこを始めた。どうやら、基本的に無愛想な人物らしい。老人に愛想を求めるのも気が引けたが、相手が客商売をしている以上、こっちもそうは言っていられなかった。
「あの、ちょっと聞きたいことがあって伺ったんですが」
僕の言葉に、老人は面倒くさそうに視線を上げた。
「あの、こちらの店の方ですか?」
「それ以外にどう見えるってんだよ」
黄ばんだシャツに、みすぼらしい短パンという格好で自信満々にそう言われては、僕に返す言葉はなかった。
「すいません。あの。ちょっと伺いたいことがあるんですが」
「だから、なんだよ」
「はい。工藤友菜という名前、聞いたことありませんか」
質問を投げかけた途端、老人はいきなり僕を不審者を見るような目で睨んできた。
「工藤友菜?」
「はい。工藤友菜」
「もしかして、おめえ。そりゃあ、ボブカットの髪をみんな真っ赤っ赤に染めた、あの風変わりな譲ちゃんのことかい」
「あ、はい。多分その譲ちゃんです」
友菜以外にも真っ赤な髪をしたボブカットの女の子がもしかしたらいたかもしれないけど、ここに至るまでの道のりでそんな女の子とすれ違うことは一度もなかった。
「そうかい。で、お前さんは一体なんなんでえ。もしかして、あの譲ちゃんのコレかい?」
そう言って、老人は器用に小指を立てて見せた。どうやら、この老人は思っていた以上にお茶目な性格をしているらしい。悪気がない以上、ニタリと笑ってみせる老人に、僕からあえて言うことは何もなかった。
「いえ。そういうわけじゃないんですけど」
僕の言葉に、老人はあからさまに気分を害したようだった。
「なんでえ。じゃあ、一体なんだってんだよ」
「工藤友菜は僕の義理の妹なんですけど」
「妹? ってことは、なんだ。お前ら兄妹ってわけか」
「はい。義理ですけど一応」
「そうかい……。そいつは、ちょうどいいや。こっちも、あの子のことで少し聞きたいことがあってな。ま、立ち話もなんだし、座りな」
そう言って一方的に新聞をぽんとカウンターの上に投げ出した老人を見ながら、僕はわけが分からないまま、とりあえずカウンター席に腰を下ろした。老人は座っていたイスを前に寄せて、カウンターの上に頬杖をついた。
「あの」
「まあ、待ちな。物事には順序ってもんがある。年功序列ってやつだな。まずは、ワシの話を聞きな」
「はあ」
「二ヶ月ぐらい前か。真っ赤っ赤な髪した姉ちゃんがひょっこりウチの店に入ってきてよお。ウチじゃそんな若いお客なんて一人も来ねえし、なんたってあの派手な髪にほとんど裸見てえなナリしてるもんだから、怪しいのなんのってよお。そしたらどうだい。その姉ちゃん、ワシと目が合うなり思いっきり頭ぁ下げてきて、私をここで働かせてくださいって言い出してくるもんだからよ」
「ちょっと待ってください」
僕は思わず老人の話を遮った。
「働かせてくださいって。友菜がそう言ったんですか」
途中で話を切られた老人は、気に入らなそうだったけど、文句を言わず「おおよ」と大仰に頷いた。
「ってことは、友菜はここで働いてるってことですか」
僕の言葉に、もう一度老人は「おおよ」と言って大仰に頷いた。
「それでよ」
呆然としている僕を見て、しめしめとばかりに老人は続きを話し出した。
「アルバイトの募集はしてないし、そもそも七月いっぱいでこの店畳むことに決まっちまってたから、そりゃ無理だって断ったのよ。なのに、譲ちゃん、妙に食いついてきてよお。あんまり必死だったもんで、思わず店を畳むまでの間ウチで働いてもらうことにしたわけよ。ワシも女の押しには昔から滅法弱くてよお。だはは」
老人の下品な笑い声を聞きながら、僕は想像してみた。妄想の中だけの心配を現実に持ち込み、娘の部屋から日記帳を持ち出す母親。その母親を見かねてメモ用紙片手に探偵の真似事をする義兄。その義兄に、実は義妹はアルバイトしてましたと真相をしめしめと話す老人。
これがホームドラマなら、笑って済ませられそうな話だったけど、現実なだけに、肩を落とすぐらいしかなす術はなかった。盛大にため息をつく僕を見て、老人はようやく僕の様子を気にかけた。
「ん? どうかしたのかい、兄ちゃん」
「あ、いえ。こっちのことですから。それより、友菜のことで聞きたいことがあるって言ってましたよね」
「おお。本題はそこよ、そこ」
老人は思い出したように声を上げた。もうどうにでもなれ、と僕は心の中で呟いた。
「譲ちゃんがなんでウチに来たのかがよく分かんねえのよ。こんなこと言うのもなんだが、ウチじゃ待遇なんてあってないようなもんだ。金が要るなら他のとこあたりゃいい。なのに、あの譲ちゃん、ウチをえらい気に入ってるときた」
「それは、本人に直接聞いてみたらどうですか?」
「ああ。一度聞いてみたけど、はぐらかされちまってよ。まあ、女心となんとやらってな。聞くだけ野暮ってもんだろ」
「そうですね。こっそり義理の兄から聞き出すのも十分野暮ですけど」
「だはは。そりゃ、おめえ、男の性ってもんだろが」
そう言ってカウンター越しからバシバシ僕の肩を叩く老人に、僕は曖昧な微笑を返した。無愛想が第一印象な、このお茶目でお喋りな老人に、なんだか僕は少しだけ好感を抱いていた。
「僕もその原因は知らないんですけど」
そう言って、僕はあの日を老人に話した。
五月四日。その日、僕たちは家族みんなでテーブルを囲み友菜の誕生日を祝った。十六歳を迎えたその日の友菜は、ケーキに立てられた十六本のろうそくを吹き消し、無愛想ながらも僕たちに「ありがとう」と呟いた。そして、次の日、友菜は長い髪を首筋辺りまでばっさりと切り落とし、髪を真っ赤に染め上げた。学校に行かなくなったのもその日からだ。
十六歳の誕生日を境に、友菜は別人のように変わり、僕たち家族はみんなそんな友菜を前に、ポカンとするしかなかった。
「譲ちゃんが初めてウチに来たのが、五月の頭あたりだから、変わりだした時期ってのはちょうど重なるわな」
「はい」
「ところで、兄ちゃんよ。ここに入ってきてから、何か違和感を感じねえかい」
「え?」
唐突に話題を変える老人に、僕は目を丸くして声を返した。
「だからよ。違和感だよ。何か気づくことはねえか?」
確かに、外観と内装のギャップとか、流れているポップな音楽とか、この店で違和感を探し出せばきりがなさそうだった。でも、老人が自信満々でクイズを出してきた以上、答えはもっと思いもよらないもののような気がした。
「なんですか?」
「気づかねえのかい」
さも満足そうに老人は言った。
「ええ。一体なんですか」
「時計だよ」
「時計?」
「おう。この店には時計を一つも置いてないのさ。もちろん、営業中にはテレビもつけねえし、客には時計やら携帯電話やら、時間の分かるもんは全部預からせてもらうのよ。時間からの開放。コレがワシの店のモットーなわけよ」
「はあ」
「この店を訪れる客ってのは、一時の間だけでも時間を忘れたい、もしくは、時間の鎖から開放されたいって連中なわけだが、それは何も客だけに限ったことじゃねえよなって話だ」
ようやく老人の言いたいことを察した僕は「ああ」と呟いてから「なるほど」と呟いた。
僕は思い浮かべた。時間から開放されるという甘い錯覚を求めて、この店を訪れる様々な人々を。そして、その人たちに作り笑いを振りまく友菜を。
全ては無意味な出来事で、それでも、それは必要なことのように思えた。
「まあ、不変なんてもんはこの世のどこにもありゃしねえ。見てみろ。この店だって、譲ちゃんが入ってきてから随分様変わりしちまった。今流してる音楽も、テーブルにかかってるテーブルクロスも、椅子も、なんもかんも全部譲ちゃんがセレクトしたもんだ」
「そうですか」
どうりで、と僕は心の中で呟いた。
「もうすぐ畳んじまう店だしな。最後ぐらい若い子の感覚を取り入れてはっちゃけるのも悪くねえ。譲ちゃんにしたってな、そうなんじゃねえのかな」
「え?」
「はっちゃけてる間は、嫌なこと全部忘れられるってこった」
僕は「ああ」と呟きながらも「なるほど」とは口に出せなかった。
この店の辿る運命を忘れるためにはっちゃける老人と、なにかを忘れるためにはっちゃける女子高生。端から見ても、二人の葛藤と苦しみを理解することはとてもできそうになかった。
「無意味ですね」
僕の言葉を老人は「だが必要なこった」と言って笑い飛ばした。
それを笑い飛ばせるようになるまで、どれほどの時間をこの老人は要したのだろう。考えようとしたけど、それが虚しい行為であることに気づいた僕はすぐに考えることをやめた。それから程なくして、テレビに浮かんだデジタル時計に目をやった老人が、そろそろ友菜がやってくる時間だと言い出したので、友菜に僕がここに来たことは話さないでほしいとお願いだけして僕は店を出て、来た道を引き返そうとした。そして、すぐに足を止めた。
道行くくたびれたサラリーマンや、おしゃべりに興じる中学生とも高校生とも取れる学生の流れの中に、友菜の姿を見つけたのは偶然だろうか。それとも必然だろうか。
だらだらと不規則に流れる人の流れの中で、一人だけ早足で歩く友菜は、まるで誰かにケンカを売っているみたいに、挑戦的だった。タンクトップ一枚と、上着というには心もとないデニムのショートパンツは、友菜の華奢な体の半分も覆ってはいない。
真っ赤な髪色と、日焼けのない真っ白な素肌をさらして、友菜は一体誰にケンカを売っているのだろうか。
友菜と目が合う前に逆の道を引き返した僕は、しばらく見知らぬ道をぶらぶらと歩いた後、また来た道を引き返した。
頑なな意思を持つ喫茶店の横を通り過ぎたとき、ガラス窓の向こう側で、友菜が老人に無邪気な笑顔を振りまいていた。もし、ここで友菜が働いていることを知らなかったら、僕はその笑顔の持ち主が友菜だと気づくことはできただろうか。
くたびれた背広を着込んだ、中年のサラリーマンが店に入っていくのを見送ってから、僕は店から離れた。そういえば、喫茶店の名前を聞いていなかったことに気づいて、僕は少しだけ後悔した。




