4.日記帳
その日、夕飯を摂り終えると、珍しく綾菜さんが「ちょっと、いいかな」と言って、部屋に戻ろうとする僕を引き止めた。仕事で家に帰るのがいつも深夜を回る夫と、毎夜夜遊びに明け暮れる娘を持った義母に気を遣い、いつも、なるべくなら夕食は綾菜さんと一緒に摂ることにしていた。お互いに気を遣い、気まずい時間をただ無為に過ごしているだけなのは分かっていたけど、家族のために作った料理を、一人で食べている綾菜さんの姿を見てからは、なるべくなら僕も夕飯には参加するようにしていた。そんな僕に、綾菜さんは静かな微笑を返すだけで、そんな綾菜さんを見ていると、僕のしていることはまったく意味のないことのように思えた。
「なんですか、綾菜さん」
僕がそう言って振り返ると、綾菜さんは静かに微笑んだ。ずっと前、両親の性交を目撃してしまってから、初めて僕が綾菜さんを名前で呼んだときも、綾菜さんはこんな風に静かに微笑んでいた。でも、あの時見た微笑は、今向けられているものより随分頼りないものだった。その微笑に落ち着きが戻った頃、僕たちは家族になり、同時に絆とか、目に見えない大切な何かとかいうものを失った。
何も言わず静かに微笑む綾菜さんを見て、僕も何も言わずダイニングのテーブルの前に腰を下ろした。対面式のキッチンカウンター越しで、綾菜さんは洗い物を流しに置いてから、軽く手を洗い、僕の向かいに腰を下ろした。
「なんですか?」
「うん。ちょっと、相談したいことがあるんだけど」
そう言って表情を曇らせる綾菜さんを見て、僕はその相談事がどういうものであるのかを悟った。もっとも、滅多に相談事などしてこない義理の母親とテーブルを挟んで向かい合っている時点で、どうがんばってもいい予感はしなかった。
「友菜のことなんだけどね」
綾菜さんの口から出た予想通りの言葉に、僕は全力で表に出ようとする心理状態を押さえつけた。油断していると、今すぐにでも綾菜さんにメンチを切ってしまいそうで、僕はさりげなく綾菜さんから目を逸らした。リビングのテレビでは、つまらないお笑い芸人が力いっぱいはっちゃけて、出演者から顰蹙を買っていた。
「ごめんね。一輝君には関係ないことなのは分かってるけど、他に相談できる人がいなくて」
綾菜さんの声に、僕は視線を綾菜さんに戻した。
「そんなことないですよ」
さらに表情を曇らせる綾菜さんに見かねて、僕は気が滅入るような台詞を口にした。
「僕たち、家族なんですから」
僕の言葉に、綾菜さんは「そう……そうだね」と自分に言い聞かせるように呟いた。それが心からのものであるのか、ただの演技に過ぎないのかは、静かに微笑む綾菜さんからは読み取れなかった。どちらにせよ、僕の気分が軽くなるようなことはないのだけど。
「それで、友菜がどうかしたんですか」
あくまで、儀式的に僕はそんな台詞を口にした。友菜がどうかしだして、今日ですでに二月ほど経過していた。決して嫌味ではなかったのだが、綾菜さんは申し訳なさそうに顔を伏せた。
「うん。ちょっと、一輝君に見て欲しいものがあるの」
そう言って、綾菜さんはおもむろに腰を上げ、リビングに置かれた箪笥の中からあるものを取り出した。再び僕の向かいに腰を下ろした綾菜さんと、テーブルの上に置かれたあるものを見比べてみても、いまいち状況はつかめなかった。
綾菜さんは気まずそうに目を伏せるばかりで、とても状況説明をしてくれそうにはなかった。僕はとりあえず、状況を理解するため、テーブルの上に置かれたものを観察することにした。
見たところ、それは文庫本より一回りほど大きな、何の変哲もない書籍のようだった。しかし、すぐに表紙に「DIARY」という文字を見つけて、僕の背中に悪寒が走った。「DIARY」という文字を埋め尽くすように、ちりばめられた無数のハートマークは、その日記帳を可愛くアレンジしていたけど、この如何ともし難い状況を救い上げるには、少々パンチが足りなかった。
僕は一縷の望みにかけて「これ、綾菜さんのですか?」と恐る恐る声を出した。今年で四十三歳になる綾菜さんが、見ているだけで恥ずかしくなってくる日記帳を持っていたところで、誰も文句は言えないはずだ。が、綾菜さんは控えめに首を横に振り、僕の望みを申し訳なさそうに押しつぶした。
「これは……まずいですよ」
しばらく待ってみても、一向に綾菜さんが口を開かなかったので、仕方なく僕は思ったことをそのまま口に出した。すると、綾菜さんは伏せていた顔をぱっと上げて、必死な面持ちで「分かってる。分かってるけどね」と言って、また申し訳なさそうに目を伏せた。
分かってる。綾菜さんに悪気がないことも、綾菜さんが純粋に友菜のことを心配していることも。でも、悪気がない、心配していた、と言っても、なにをしてもいいのかというとまた話は別だ。もし、なんで今更そんなことするの、と友菜に反論されたとき、綾菜さんはどう言い訳するつもりなのだろうか。
「友菜だったら、こういうことされたらすごく怒ると思いますけど」
「うん。だから、まだ友菜には何も言ってないし、中身もね、まだ見てないの。今日友菜が家を出て行った後で、部屋から持ち出して来ちゃったんだけど」
「はあ」
「さすがに、勝手に中身を見るのは気が引けるから」
なるほど。勝手に部屋に上がりこんで日記を物色することはできても、勝手に中身を見るのは気が引けるということか。しかし、良くも悪くもそこまでしてその行動に意味があることに綾菜さんは気づかないのだろうか。もし気づいていて、あえて僕を巻き込もうとしているなら、この人はとんだ食わせ者だ。
「それで、僕にどうしろって言うんですか?」
「そんな。どうしろってことはないけど。ただ、中身を見たほうがいいのかどうか迷ってて……一輝君はどう思う?」
僕は、頭の中でこの後の展開を思い浮かべた。おそらく、綾菜さんの頭の中でも、僕とまったく同じ展開が浮かんでいるのではないだろうか。口を開くのも憂鬱だったけど、今更席を立ち上がるわけにもいかなかった。
「それは、見ないほうがいいと思います。その前に、面と向かって本人と話すべきじゃないですか」
「それは分かってるけど、あの子、私には何も話してくれないもの。もう、あの子がなにを考えてるのか私には分からないのよ」
「はあ」
「友菜、一輝君に自分のこと何か話してないかな。ほら、二人とも年が同じだし、何かと話しやすいと思うのよ」
「いえ。友菜とはあまり話はしませんから」
「そう……」
そう言って、綾菜さんは額に手を当てながら、憂鬱そうに黙り込んだ。その横で、MCがはっちゃけるお笑い芸人に半ギレしながら駄目だしをしていたけど、お笑い芸人はまったく聞いていなかった。沈黙の中、視線を綾菜さんに戻すと、綾菜さんはまだ憂鬱そうな顔をしていた。お笑い芸人は、ひたすらはっちゃけている。
「とりあえず」
僕がそう声を出すと、綾菜さんはあくまで控えめに顔を上げた。僕の顔を恐る恐る見上げている綾菜さんを見ていると、なんだか、もう何もかもがどうでもいいような気がした。
「日記は友菜に気づかれる前に戻しておいたほうがいいですよ。一応、僕からも話してはみますから」
「……ごめんね。一輝君には関係ないのに」
「なに言ってるんですか。家族でしょ、僕たち」
そう言って、口元を無理やり引き上げる僕を見て、綾菜さんはふっと静かに微笑んだ。それがきっかけだとは言わないし、原因を全て綾菜さんに押し付ける気はない。だけど、なんだか少しだけ、友菜がどうかしてしまった理由が分かったような気がした。
テレビでは、お笑い芸人がいまだ力の限りはっちゃけていた。