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2.友菜(ともな)

 一日の終わりと始まりの境目に見るものは、決まって毎日同じ悪夢だった。悪夢に慣れるなんてことはないけど、いい加減毎日毎日こう繰り返されると、ご苦労なことだと一人言ちる余裕ぐらいは出てくる。少なくとも、泣きながら飛び起きて両親の寝室まで助けを求めに行くなんて事は、中学に上がるまでには卒業した。一度、両親の性交の真っ最中に部屋に飛び込んでしまったことが、その行為を抑えるに至った最大の要因だった。


 トラウマ。精神的外傷。幼い頃、何度も連れて行かれた精神科の医者やカウンセラーが見出す答えは、どれも似通っていた。彼らのどんなアドバイスも療法も実践はすれど一向に僕の悪夢が覚める兆しは見られなかった。いい加減、医者やカウンセラーの肩書きを持った彼らが、インチキくさい人間にしか見えなくなった頃、僕はこの症状がすっかり治まった風を装った。


 その頃の僕には、悪夢なんかよりも、初めて見た男と女が交わっている光景のほうがよっぽどショッキングだった。交わっていたのが実の父親と義理の母親でなかったら、どんなに気が楽だったろうと今でも思う。そうでなければ、マスターベーションの度に、二人の恍惚とした表情がいちいち脳裏をよぎることもなかっただろう。これも、一種の悪夢だと僕は思う。


 僕が寝ている間にも働き続けている電灯の明かりが、寝起きの今だけは、うっとうしくてしょうがなかった。上半身だけをベッドから起こすと、寝汗がシャツを濡らして、肌に張り付いて気持ち悪い。シャツの胸元をつまんで持ち上げると、左手の甲が視界の中に入ってきた。  

 じっとりと湿った汗が、ぽつぽつと僕の左手の甲に浮かんでいた。その様は、まるでぐつぐつと沸騰する液体を僕に連想させて、その連想は痛みを伴い僕に浸透する。


 幼い頃に刻まれた、左手の甲から手首にかけて醜く腫れたケロイド状の狂気が僕の体から完全に消え去ることはなかった。そして、まるで何かの儀式のように、悪夢の後には決まって、じくじくと昔の傷痕が痛み出す。


 ぶり返してくる痛みの源を食い入るように見つめる。ぽつぽつと、吹き出物のようにところどころ浮かんだ爛れた皮膚が、ブサイクな模様を作っていた。その模様を見つめながら、それほど、僕は昔の出来事に縛られているのだろうかと、この状況がすでに答えになっているのに、意味のないことを考えてみる。


 毎日繰り返し見る悪夢。いつからか、暗い場所と狭い空間が苦手になったのも、その影響だ。自分の部屋にいるときでさえ、部屋のドアは常に開け放っていないといけないし、寝るときも常に電灯をつけていないといけない。そうしなければ、じわじわと傷痕が痛み出して、放っておくと気が狂いそうなほどの不安に襲われる。


 じわじわと神経を侵食していく痛みに少しの不安を感じて、僕は左手を胸に抱き、体を目一杯縮込ませた。このまま、痛みが体中を駆け巡り、僕の全てが過去の狂気に乗っ取られてしまいそうな懸念が、しばらくこうしているとやがて収まることを僕は知っている。


 開け放った窓の外では、リーリーと涼しげな虫の鳴き声が、リズムよく心地いい音楽を奏でていた。じめじめした夏の暑さをごまかすとまではいかなくても、日中、命を削りながらひたすら蝉に鳴き続けられることを思えば、気休め程度には涼しく感じた。


「どうかしたの」


 その声が聞こえたのは、本当に唐突だった。驚いて顔を上げると、開け放たれたドアのすぐ前に友菜が立っていた。驚いて友菜を見つめつつ、僕は、一体彼女はいつからそこにいたのだろうかと思案した。案の定、すぐに友菜は器用に眉根を吊り上げて「なに」と不機嫌な声を僕に向けた。どうかしたの、と声をかけてきたのは友菜のほうじゃなかったか。


「いや……どうしたの?」


 僕の台詞に、友菜は心底ダルそうにため息をついてから「それ、こっちの台詞なんだけど」と声を返してきた。


「え?」


「え、じゃないよ。こんな時間に、しかも、ベッドの上でうずくまってちゃ誰だって不審に思うでしょ」


 友菜の口から出た不審という言葉が、僕を妙に納得させた。なるほど、僕を心配してではなく、ただ単に不審に思ったのなら、友菜が僕に声をかけることもあるかもしれない。毎夜毎夜、夜遊びを繰り返しながらも、家に帰るときは家族を起こさないように、物音ひとつ立てず部屋に戻る配慮を怠らない義理の妹ならば、とりあえず、不審な義兄の様子を無視して素通りすることもできないわけだ。


 それにしても、こうして面と向かって友菜と口を利くのは随分久しぶりだった。同じ家、隣り合った部屋に住みながら、僕たち義兄妹が顔を合わせることはほとんどない。同じ高校に在籍しながら、友菜が高校に顔を出すことはほとんどないし、生活時間自体がずれているので、こうした予期せぬ機会でも訪れなければ、僕たちが口を利くことはまずないだろう。もし、二人が同い年ではなく、年が二、三歳離れていたら、僕たちも少しは兄妹を演じることができたはずだ。


「何でもないよ。発作みたいなものだから」


 そう言って、僕は笑顔を作ってみた。長いこと笑った記憶がなかったので、うまく笑えているかどうか自信はなかった。訝しそうに僕を睨む友菜が、僕の返答に疑問を抱いているのか、僕の表情を気味悪がっているのかは分からなかった。


「それって――」


 そう言葉を発してから、友菜は思い直したように口をつぐんだ。それが、気遣いによるものか、単にどうでもよかったからなのかは定かではなかったけど、おそらく、友菜が選ぶとしたら後者だろう。すでに数年前に完治したと公言した発作に、今頃、僕が襲われていようが、その事実が友菜の生活に支障を来たす理由はどこにもない。詮索がどれほどうっとうしいものであるかも、高校に行くことを止めた時点で、友菜は身に染みて知っていた。


「どうでもいいけどさ」


 本当にどうでもよさそうな顔をして、友菜はどうでもいいことを口にした。


「寝るときぐらいは部屋の戸閉めたら。物騒だし」


「別に盗られて困るような物なんてないから」


「電気。つけっぱなしで寝るの、電気代もったいないし」


「とりあえず、親に文句言われてから考えるよ」


「あんたってさ。ほんと、つまんないね」


 脈絡もなく発せられた最後の言葉も、やはりどうでもいいことのセットに含まれているのだろうか。僕は少し考えを巡らせてみてから、そんな僕を友菜は大して期待してなさそうな顔で眺めていた。


 やがて、僕が「そう」と返事を返すと、友菜は呆れたように大きく息を吐いた。君に言われたくないよ、なんて言葉を返していれば、友菜は満足したのだろうか。少なくとも、友菜のように軽々しく本心を口に出す度胸を僕は持ち合わせていなかった。


「お大事に」


 そう言って、手をひらひらさせながら自分の部屋に戻る友菜を僕は黙って見送った。


「君に言われたくないよ」


 相手がいなくなってから、僕は本心をなんとなく口に出してみた。独り言を呟いている自分の姿を客観的に想像してみて、すぐにその行為に後悔した。友菜の言葉を反芻して、素直に、なるほど、と納得するあたりが僕のつまらない所以だろうか。


 隣の部屋から、友菜がベッドの上に倒れこむ音が漏れてきた。その後、一切隣から物音がしなかったので、友菜ももう寝たのだろうと思い、僕も再び眠ることにした。


 何気なく時計に目を向けると、時刻は午前二時を少し回ったところだった。友菜に声をかけられてから、左手の痛みをすっかり忘れていたことに気づいたのは、意識が暗闇に溶け込む少し前だった。


 リーンリーンと、意識の端で涼しげな音楽が鳴っていた。








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