11.旅立ちの儀式
その日の夜、友菜が僕の部屋を訪れた。あの一件から今日までの十日間、友菜とは顔を見ることはあっても、言葉を交わすことはなかった。
「今、暇?」
暇そうにテレビをぼんやりと眺めていた僕に、友菜は律儀にそう声をかけてきた。僕と目が合うと、友菜はばつが悪そうに僕から目を逸らして、言った。
「ちょっと、今から付き合ってよ」
僕は、友菜の横顔を目を丸くして眺めた後に、この十日間のブランクを破って、友菜が僕を誘っている意味を考えてみた。十六歳の女の子の考えを察してやれるほど大人ではなかったけど、初めて僕を頼ってきている義妹の誘いを断るほど、僕も野暮ではなかった。
「うん」
僕の返事を受け取ると、友菜はもう一度僕の目を見てから、何も言わずに廊下を歩いていった。
僕はテレビの電源を消して、部屋を出た。
見上げると、ぽっかりと口を開けたような満月が空に張り付いていた。夜の空に浮かぶ数え切れない星の中に、心許ない記憶に残っている正座の名前を探してみたけど、首を上げたまま歩くのに疲れて、すぐに止めた。
それなりにロマンチックな夜空の下を、僕はバケツを右手に持って、黙々と歩いていた。そんな僕の少し前を先導するように歩いている友菜も同じく黙々と歩いていた。
これからなにが起こるのか、今どこに向かっているのか、なぜバケツが必要なのか、聞きたいことは山ほどあったけど、家を出てから前をさきさき歩いていく友菜の背中は、何も聞くな、と言っているような気がしたので、僕は何も聞かずに時々夜空を眺めながら歩いた。
程なく歩いた後、友菜は躊躇なく公園の中に入っていった。僕は、もういいだろうと思って、公園の入り口で立ち止まった。
「ねえ。僕はこれからなにに付き合わされるの」
僕の声に、友菜は公園の真ん中あたりで立ち止まってから、僕を振り返った。
「旅立ちの儀式」
「旅立ちの儀式?」
「旅立ちの儀式」
まるでしりとりのように僕たちの間で交わされたキーワードは、まったく質問の答えになっていなかった。とにかく、夜の公園と意味も分からず持たされたバケツをヒントに答えを探してみたけど、僕は首を傾げることしか出来なかった。
公園の入り口で突っ立っている僕に友菜は「いいから、入りなよ」と声をかけて、しょっていたナップサックをベンチの上に下ろした。僕は公園の入り口からそんな友菜を眺めてみてから、結局、ベンチの傍まで歩み寄った。
旅立ちの儀式の準備に取り掛かる友菜を、僕は横に立って見守った。
ナップサックから取り出されたものは、手持ち花火の詰まった袋だった。それを手にした友菜は答えを提示するとともに、珍しく僕に微笑みかけてきた。
夜の公園と、意味も分からず持たされたバケツと、手持ち花火の袋=旅立ちの儀式。その方程式の証明はとても出来そうになかった。でも、提示された計算式をこなせば、自ずと答えは出てくるのだろう。僕は、友菜に曖昧に微笑み返してから、バケツに水を汲んだ。
確か条例で夜に公共の場で花火をするのは禁じられていたはずだった。試しに、それを友菜に言ってみたけど「馬鹿じゃないの」と返された。確かに、馬鹿みたいだった。
友菜がショートパンツのポケットからマッチを取り出して、僕の持つ手持ち花火の先端に火をつけた。ちろちろと先端の紙包みを燃やした赤は、火薬に達して緑色の火花を噴いた。花火をするなんていつ以来だろう。そんなことを考えながら、まばゆい光を見つめていると、両手に手持ち花火を持った友菜が僕の隣に立って少し身をかがめた。
慎重に手持ち花火の先端を噴き出す火花に近づける友菜の真剣な横顔を、僕は黙って見守った。手にした手持ち花火が音を鳴らすと、友菜は「わ」と短く声を上げた。
赤、緑、紫、オレンジ、様々に発光して散っていく手持ち花火は、すぐにバケツの中をいっぱいにした。五袋も手持ち花火のセットを持ってきていた友菜に、二人でやるには多すぎるんじゃないかと言ってみたものの、気がつくと全ての袋を二人で開けていた。
こんな風に時間を忘れて夢中になったのはいつ以来だろう。手持ち花火を両手にはしゃぐ友菜につられて、僕も時間を忘れていた。
「最後はやっぱこれだよね」
そう言って、友菜は愉快そうにナップサックの中から線香花火の詰まった袋を取り出した。その用意のよさと、打ち上げ花火を用意していない友菜の気配りに、僕は苦笑して、友菜から線香花火を受け取った。
硝煙の匂いの残った公園の片隅にしゃがんで、僕と友菜はゆっくり上ってくる控えめな火花を、注意深く見守った。細い線を撒き散らしながら、小さな円を作って燃え上がる線香花火。
そっとそこから目を逸らして、隣にしゃがむ友菜の横顔を覗いた。少しの間、そうしていると、友菜は自分の線香花火を見つめたまま、独り言を呟くように声を出した。
「あんた、さやかに会ったよね」
返事を返すのに一呼吸置いたのは、綾瀬さんの下の名前に馴染みがなかったからだ。僕が「うん」と返事を返すと、友菜はやっぱり線香花火の火花を見つめたまま、言った。
「さやかさ、半年前に弟を事故で亡くしてるんだよね」
「そう」
「弟とは歳は一つしか離れてないんだ」
「うん」
「弟のこと、好きだったんだって」
友菜が好きという言葉に託した綾瀬さんの想いを僕は想像してみた。それが血のつながった肉親に向けるものだったとしたら、悲しすぎる。そうじゃなかったとしたら、切なすぎる。どちらにしろ、僕に彼女の傷を推し量ることなんて出来そうになかった。
「辛いだろうね」
口に出すには軽々しすぎると分かっていたけど、僕にはそう言葉を返すしかなかった。そんな僕を責めもせずに、友菜は言った。
「どっちが痛いのかな」
「え?」
「好きで居続けることと、忘れること。どっちが痛いのかな」
その言葉に、僕は答えを返すことが出来なかった。友菜も、僕に答えなんて求めてなかった。その答えを知るには、僕たちはあまりにも子供だった。
それから、僕たちは無言でいくつもの線香花火の火花を見守った。この二ヶ月間、友菜がはっちゃけ続けて導き出した結論を、僕は傍にある友菜の横顔を見ながら考えた。
線香花火の火花は、やがて音もなく消えていった。