10.夏休みに向けて
夏休みに向けて、慌しく夏が動いていた。悪化の一途を辿る太陽の下品な笑い声に影響され、浮き足立つクラスメイト。ヒートアップする蝉の挽歌。嫌がらせの対象が僕からまた綾瀬さんに戻った。風船顔の女子のグループは、友菜のことなどすっかり忘れて、綾瀬さんの興味を窓の外から自分たちに向けようと一生懸命だったけど、おそらく綾瀬さんの目に、彼女たちの姿が映ることはないだろう。彼女の見ている景色に興味はあったけど、窓の外を二分ほど眺めてから、僕はその行為に飽きて止めてしまった。
一通りの嫌がらせをこなした後、もうやることが他に見つからなかったのだろう。風船顔の女子のグループは彼女を取り囲み、四方八方から中傷を飛ばした。
風船顔の女子のグループは、まず彼女の左手の手首に刻まれたリストカットの痕を話題に挙げた。その理由について、彼女たちは彼女たちの思いつく限りの原因を口にし、それを笑い飛ばした。
僕はあの時の彼女の言葉を思い出して、彼女が今ここにいる意味を考えてみた。一歩間違えれば命を落としていたかもしれない行為の末に、今彼女がここにいる意味。その意味を見出すまで、きっと彼女はずっと遠くを見つめているのだろう。
無意味でも、それは必要な行為で、やっぱり僕にはその答えを見つけることは出来そうになかった。
窓際に座る彼女の横顔は、この教室の中で誰よりも大人びて見えた。
終業式を終えた帰り道、僕は駅を二つまたいで、例の喫茶店に足を運んでいた。明日から意味もなく長い休暇が始まる。でも、そのメリットを風船顔の女子たちを視界に入れないで済むことぐらいしか見つけられない憂鬱を引きずった頭の中で、なぜか時間に置き去りにされた喫茶店が浮かんだ。それがポジティブな思考かどうかは分からなかったけど、あの老人の下品な笑い声を思い出すと、憂鬱はだいぶましになった。
古びたドアを押して店内に入ると、蝶番の寂れた音に気付いた老人が、カウンターの向こうで、新聞からひょっこりとこちらに顔を見せた。それから、老人は僕と目が合うと、手にしていた新聞をたたんでカウンターの上に放り、口をへの字に曲げて、まるで子供みたいな顔をして、子供みたいなことを言った。
「なんでえ。この間の文句でも言いに来たのかよ」
そういえば、僕がここに来たことを友菜には言わないでくれという約束は、その日のうちにアッサリ破られたのだった。別に期待してませんでしたからいいですよ、なんて言えばそれはそれで怒られそうだった。どちらにしても、全く客商売には向いていないこの老人の顔を見られただけで、僕はだいぶ満足していた。
こちらに敵意がないことを表すために曖昧に微笑んでみると、老人は拍子抜けしたように僕から目を逸らした。
「言っとくけど、譲ちゃんならもう三日前にここを辞めてったぜ」
「そうですか」
「なんでえ。そのことじゃねえのかよ。だったら、何の用だい。もうじき畳んじまう店に若い者が喜ぶもんなんてなんもねえぞ」
もう一度曖昧に微笑んでみると、老人は不審そうに僕を見た後に、息をついてからカウンター席に座るよう僕を促した。
店内に流れる気取ったクラシック音楽は、いい意味でも悪い意味でも、この店によく馴染んでいた。派手に飾られたテーブルクロスや小物も取り払われた店内は、以前来たときに比べて一気に老け込んだような気がした。もうじき畳んじまう店をわざわざリフォームする意味をカウンター席の向かいに座る老人を見ながら考えてみた。
「まあ、いつまでもはっちゃけたままってワケにもいかねえわな」
カウンター席に座る僕を見て、老人は唐突に言葉を発した。目を丸くする僕を見て、クツクツと笑ってみせる老人は、もしかしたら僕が思っていたよりずっと大人だったのかもしれない。
「兄ちゃんは初めてだったよな。これが本来のワシの店のありようだ。渋いだろ?」
「いいですね。年季を感じます」
僕の形だけのお世辞に、老人は形だけ満足そうに笑った。
「ま、はっちゃけたまま終わるってのも悪かあねえけど、いい加減疲れちまうしな」
「いい歳ですから」
「抜かせよ、この」
屈託なく笑いながら、老人はカウンター越しに僕の肩を小突いた。
「で? 譲ちゃんがらみじゃねえなら、今日は何の用で来たんだ?」
「用がないと来ちゃいけませんか?」
さすがに、あんたの顔が見たかった、なんて言うのは憚られたので、質問に質問で返してみた。もちろん「ああ、いけねえな」なんて返答が返ってくるとは僕も思っていなかった。
「いけないんですか?」
「当たり前だろ。ここに来ていいのは時間を忘れたい奴だけだぜ。兄ちゃんが来るにはまだ早すぎるだろうが」
「でも、友菜は通ってましたよね」
「譲ちゃんは特別だ」
「特別ですか」
「おう、特別だ」
しばらく僕たちは見つめ合った。
「好きになっちゃいけない人を好きになったんだとよ」
くるっと僕に背を向けた老人は、仕方ねえなあ、という感じで声を出した。
「長いことずーと好き続けてるらしい。まあ、ワシもそれ以上詮索するほど野暮じゃねえから、詳しくは知らねえけどよ」
僕は、嬉々として、相手は誰なんだ、ええ? と友菜に詮索している老人を想像した。もちろん、その可能性は否定も出来るけど、友菜がこの人にその話をする気持ちはよく分かった。多分、友菜もこのお茶目な老人に好感を抱いていたのだろう。
「ここを辞めてく時、譲ちゃんに聞いたんだ。答えは出たのかい、ってな。すると、譲ちゃん、なんて答えたと思う?」
「なんて答えたんですか?」
僕は老人のしわがれた背中を見ながら声を返した。相変わらず黄ばんだシャツを今日も老人は愛用していた。
「何にも答えなかったよ。ただ、別れ際に見せた笑顔はどこか寂しげだったぜ。最後の最後まではぐらかされちまった」
「そうですか」
「だから、譲ちゃんは特別なのよ」
「なるほど」
なんとなく、老人の気持ちは理解できた。
「兄ちゃん、譲ちゃんの兄ちゃんなんだろ。だったら、妹のことしっかり支えてやんな」
そう言って老人はくるっとこちらを向いて、まっすぐ僕を見つめた。老人の芝居じみた言動に真面目に付き合うのは照れくさかったので、僕は老人を見つめたまま、はぐらかした。
「僕と友菜は義理の兄妹ですけど」
「馬鹿野郎。みみっちいこと言ってんじゃねえ」
「はあ」
「ったく、兄ちゃんよ……いい加減譲ちゃんの気持ちに気付いてやれよ」
「はあ」
「この鈍感野郎が。譲ちゃんの好きになっちゃいけない人ってのは、兄ちゃんのことなんだよ」
すっぱりと言い切る老人に、僕は目を丸くした。そんな僕に老人はしてやったりと、得意気な顔で少し胸を張って見せた。いや、それ勘違いですから、と突っ込むタイミングを逸した僕は、とりあえず「友菜がそう言ったんですか」と、控えめに突っ込みを入れた。
「馬鹿野郎。勘だよ勘」
「勘ですか」
「ただの勘じゃねえぞ。大人の勘だからな」
「大人の勘ですか」
どちらにしろ、自信満々な老人に真実を語るのは忍びなかったので、黙っておくことにした。すっかり影で友菜の恋の手助けをしてやったつもりでいる老人に、いろいろとためになるアドバイスをもらってから僕は、喫茶店を出た。
外に出ると、相変わらず太陽は下品な笑い声を上げていた。来た道を戻りながら、長い坂道を下る途中で、僕は後ろを振り返った。
長いアスファルトの道路の先は、熱気が立ち上って視界をぼんやりと揺らしていた。坂道の頂上の突き当たりにあるはずの喫茶店は、この夏が終わる頃にはなくなってしまう。
僕は、老人の嘆きにも似たため息を思い出す。
「この店を畳んだら、ワシも息子夫婦の厄介になるんだ。死んだばあさんと始めたこの店は、出来るなら死ぬまでやり通してやりたかったけどな」
今、僕の胸をよぎったものを切ないというほど、僕と老人は親しくはなかった。多分、失くしてしまうものの前では、誰しも人は、こんな風に立ち止まって振り返ることしか出来ない。
僕の横を自転車にまたがった小学生の集団が勢いよく通り過ぎていった。長い坂道を懸命に駆け上がっていく彼らの小さな背中は、やがて坂道の向こう側に消えていった。