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コウスケの昔語り

作者: 琴璃

 嫌いな祖母が倒れた。これも何回目だろうか。昔はいくら嫌いな人でも、倒れたと聞くと動揺したものだが、日常茶飯事となってしまった今ではため息しかない。その度に贈られる祖母へのお見舞いを促すメールも見慣れたものだ。


「おばあちゃんが倒れました。病院はいつものところで、病室は三○六です。早めにくるように。母より」


高校二年生の十二月初旬。期末試験一週間前の金曜日。カラリと乾燥した空気は肌を刺し、吐く息は真っ白に染まっている。マフラーとコートが恋しくなり、手放す気もなくなる。孝佑はマフラーに顔をうずめた。バスにしばらく揺られ、最寄りのバス停に降りると軽い坂道が続く。道に沿って、とっくのとうに裸となったイチョウ並木が等間隔に植えられている。それを見ながら、季節を感じる。これが孝佑のここに来たときの習慣となっていた。


病室のドアの音が無駄に響く。祖母を見る。時々苦しそうに顔をしかめている。もともと病気がちな人らしいが、どんな病気なのかは知らない。僕がただ単に興味がないだけなのかもしれない。祖母の心拍数を静かに見つめる。豹変することなく、一定のリズムで描かれる直線は心地の良いものだ。


 しばらく経つと、母はどこからか大量の折り紙を取り出し、鶴を折り始めた。

「なんで鶴なんか折ってんの?」

「おばあちゃんが早く元気になれるように、って千羽鶴を折ろうと思ってね」

耳が痛くなるほど静かな病室には紙と紙がこすれ合う音、祖母の呼吸器の音、自分の鼓動が響く。口のなかにねっとりとした唾液がたまっていた。たまらなくなって、病室を出た。


 外はもう日が落ちかけていて、空は濃紺とオレンジのグラデーションに染まっていた。病院の電気がパチリパチリと灯り始める。祖母の病室である三○六号室の隣、三○七号室に孝佑は不思議と目が行く。ドアが不自然なほど完全に開いている。夕日の光が漏れ出ていた。僕は患者に目をとめようとはせずに自然とドアに手をかける。閉めようとした。こんなに開いていてはかわいそうだ、と見ず知らずの患者を憐れんだ。かわいそうに思ったのだ。自分の手を金属の冷たい棒につかませ、勢いよく引っ張る。ドアが大きな音を立てる。閉まっていく。そんなのときだった。

「待って!」

患者に止められた。ピシャリと叩かれたような声だった。思わず、肩をビクリと震わせる。そこで初めて姿を、顔を、病室を見た。患者がこちらにおいでとばかりに手を招く。孝佑は素直に指示に従う。自分の身体をその病室に押し込めてから、静かにドアを閉めた。

「えっと…すみません」

なにか怒られるのでは、と勝手に縮こまる。その患者はクスクスと肩を震わす。手をそっと口元に持っていき、笑うその姿は気品にあふれていた。ゆるく横でまとめられた長い黒髪が揺れているのをじぃっと見つめる。

「なぜ謝るの?別に悪いことしてないじゃない。あ、もしかして、急いでた?それなら、ごめんなさいね」

優しく微笑まれる。かわいらしいと純粋に思えた。彼女に興味が沸々と湧きはじめる。年齢は同じくらいだろうか。名前は?学校は?部活は?基本的な情報だけど、それだからこそ、気になった。まっすぐの見つめられる澄んだ瞳と目が合うと、心臓をぎゅぅっとわしづかみされるのではということまで想像した。もしかすると、これが〝僕〟にとっての「初恋」というものだったのかもしれない。

 ベッドに書かれていた患者の名前をさりげなく、彼女に気づかれないようにそっと盗み見る。「夏野 千代子」と書かれていた。どこかで聞いたことのあるような名前だと感じた。

「私、千代子って言うの」

にこりと笑った。千代子さん、千代子さん、千代子さん…。忘れないように、噛みしめるように、反芻するかのように、心の中で何度もつぶやく。

「ぼくはコースケって言います!」

緊張のしすぎだ。変に大きな声を出してしまった。千代子さんは少し目を見開き、驚いたような表情をしていた。たったそれだけ、たかがそれだけだが、顔が真っ赤に染めあがる。耳に手をやると、ものすごく熱い。身体中の血液という血液が沸騰しているかのようだ。今、彼女になんて思われてしまっただろうか?変な人だと思われたかもしれない。千代子さんの顔をちらりと見る。千代子さんはくすくすとまた上品に笑う。

「そこまで緊張しなくていいのに。ところで、コウスケくん。漢字はどんな?」

「コウは親孝行の『孝』に、スケは人偏に右で『佑』で孝佑です」

「そう…いい名前ね」

「ち、千代子さんもいい名前だと思います」

自分の名前を呼ばれたからか、千代子さんは少し目を見開いた。そして、ベッドにあった自分の名前を見る。納得したらしい。

「ふふ、ありがとう。この名前は私のおばあちゃんがつけてくれたのよ。おばあちゃんといっても、父方の、ね」

「おばあちゃん」という言葉の響きが新鮮なものだった。改めて聞くと、やわらかい言葉だ。彼女の口から発せられる声で聞くと、ますますこの言葉のあたたかみを感じた。

「孝佑くんの名前は誰がつけたの?」

「父方の祖母です」

彼女は少し目を輝かせているように見えた。

「なら、私とお揃いじゃない。孝佑くんのおばあちゃんはどんな人なの?」

彼女の目が爛々と輝く。僕に興味を持ってくれていると自覚するだけで、嬉しくもあり、なんだかくすぐったい心持ちにもなった。

 祖母のことを考える。思い出せ。何か思い出すんだ。何かあったか?まずいな。これじゃあ、話が続かない。

「…なんだか、ごめんなさいね」

彼女が僕の顔を申し訳なさそうな目で見つめる。僕も見つめ返す。睫毛の一本一本の長さに、はっとさせられる。

「こちらこそ、すみません。でも、祖母についての僕の話、聞いてもらえませんか」

「もちろん」

彼女はやさしい瞳で微笑んだ。

「僕、祖母のことが好きになれないんです。僕が気づいた頃には、ずっと家の書斎に引きこもりがちな人で。母方の祖父や祖母は一緒に遊んでくれたのに、父方の祖母は僕の相手にすら、なってくれなくて。それは今でも変わらないんですけどね」

彼女は複雑そうな、哀しそうな顔をした。

「ごめんなさいね」

「え…なんで、千代子さんが…」

「あ、いや、きっと孝佑くんのおばあちゃんはこう思っているんじゃないかしらと思ってね」

彼女はしばらく目を閉じて、軽く考えを巡らせると、そぉっと目を開ける。

「きっと孝佑くんのおばあちゃんはわからないのよ」

「え?なにがですか?」

「孝佑くんとの接し方、かな」

「僕との、接し方…」


あの人は本当にそんな人だろうか。僕にとっての祖母はいつも冷たい目で僕を見る。そして、祖母の気に障るようなことをするとすぐに機嫌を悪くし、さらに冷たく当たった。こんなことは僕だけだ。祖母は義理の娘である母にさえ、優しく接してくれるのに僕にだけ冷たくする。母は気にしすぎだというけれども、それは違うと思う。きっと、あの人は僕が嫌いなんだ。邪魔だと思っているに違いない。だから、僕もあの人を嫌うんだ。


「大丈夫?」

「え?あ、はい…」

「なんだか、怖い顔していたわよ?」

千代子さんは心配そうに顔を覗き込むと、漆塗りの高級そうな手鏡を僕の顔の前にかざす。確かに。言われてみると、眉間にはしわが寄っている。

「心配おかけしたみたいで、すみません」

軽く頭を下げる。

「えいっ」

「いたっ…」

千代子さんは笑顔で僕の頬をつねる。しかし、僕の言葉を聞いた瞬間にパッと手を放す。

「突然、なにするんですか?痛いな、もう」

彼女は意地悪そうに唇を歪ませる。

「さっきから孝佑くんが謝ってばかりでしょ。だから、孝佑くんの悲しそうな顔以外の顔が見たくて」

僕はこんな優しい人に心配をかけさせていたのか。このあたたかさがとても心地良いものだった。

「そういえば、なにか欲しいものとかないんですか?」

千代子さんは驚いた表情を見せた。

「え?なんで?」

「ほら、明日も明後日もいるんですよね」

「…まあね」

「千代子さんには早く退院してほしいですし、もっと元気になってほしいし、あとは…その今日はありがとうって意味で…そのぉ」

今度は焦るような顔を見せる。

「え、でも、感謝するのはこちらの方よ?だって、私の話し相手になってくれたのは孝佑くんじゃない。ね?」

「いいじゃないですか。僕に千代子さんのためになるようなことさせてくださいよ」

千代子さんは少し困ったような表情を見せると、また意地悪そうな顔をした。

「じゃあ、本を買っていてもらおうかな」


 千代子さんは本の題名や作者、発売時期はわからないと言って、教えなかった。内容はどうも聴覚障害をもつ少年と出会った女の子が奮起するという話らしいが、肝心のところを教えてもらえなかった僕は頭を抱えていた。期限は明日まで。もうこの本屋で六件目だ。探しても見つからない。病院を出てから、もう二時間近くは経っている。家に帰らなければ、流石に不味い時間だ。だが、本は見つからない。


 僕は自分の部屋に戻ると、椅子に深く座った。彼女に何かしてあげたい。しかし、本はどこに行っても見つからない。さあ、どうするべきか。


 僕はその日初めて、小説を書いた。


 翌日の朝。僕は徹夜して書き上げた小説の原稿を持って、急いで彼女の待つ三○七号室へと向かった。


 「千代子さん、持ってきましたよ」

息を切らしながら僕は十数枚の原稿を手渡す。

「あら、本というよりは少なすぎるわね。でも、面白そうじゃない」

千代子さんはにこやかな表情を浮かべると、原稿に目を通し始めた。


 「ありがとう。大切にするわ」

一通り、読み終えた千代子さんは大事そうに僕の原稿を抱えた。

「あの、千代子さん…」

「なに?孝佑くん」

「なんで、泣いてるんですか?」

「え?」

千代子さんの頬はいつの間にか濡れていた。だが、笑っている。

「やぁね、嬉し涙に決まってるじゃない」

彼女は白魚のように美しく、ほっそりとした指で自分の頬をぬぐう。

「もう、これで心残りはないわ。ありがとう。それと、ごめんなさいね」

そう彼女は言い残すと、笑った。そして、僕の意識はそこで途絶えた―。


「…け…うすけ、孝佑!」

僕はハッと目が覚める。いつの間にか母が僕の肩を揺さぶっていた。

「こんなところで一人、なにしてるの?」

母は心配そうに僕を見る。

「一人って…何言ってるんだよ。ここにいるだろ?」

僕が指さしたベッドには原稿しかない。千代子さんの姿がどこにも見当たらない。

「まさか…そんなわけが…」

その原稿を拾い上げると、涙で所々、にじんでいる。千代子さんは幻ではない証拠だ。しかし、見回しても、だれかいたような痕跡は全くない。頭が真っ白になった。そして、また強く肩を揺さぶられる。

「それよりも、大変なの。おばあちゃんの容体が急変したのよ。お医者さんも危ないって…」


 腕を強く引っ張られながら、隣の病室に連れていかれる。頭はパニック状態となっていた。去り際に病室のプレートを確認する。そこにはなにも書かれていなかった。


 病室の祖母は苦しそうに悶えていた。祖母の周りには父や母、叔父までもが囲んでいた。母によって、僕は傍に寄らされる。祖母は僕の袖を軽くつかむと、口をぱくぱくと動かす。何か伝えることでもあるのだろうか。僕は祖母の呼吸器のついた口元に耳をやった。


「あの小説は、あっちに持っていくわ」


 そう彼女は言うと、満足げにほほ笑んだ。そして、彼女は永遠の眠りについた。




 「それが、先生が小説家になろうと思ったきっかけということですか」

記者は疑いの目で私を見つめた。

「はい。そうです」

私は千代子さん、いや、若かりし頃の祖母の顔を思い浮かべながらほほ笑んだ。こう話してみると、なんとも不思議な体験をしたものだ。そして、あんなに読書の好きだった祖母を嫌っていたというのに、自らがその本を提供する立場にいつの間にか、なっていたというのもなんだか、彼女に仕組まれた罠のような気がしてならない。しかし、今の自分が完成したのは彼女のおかげなのだ。

 さあ次はどのような物語を書き上げようか。

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