1枚の写真
何人かの客の入れ替えがあったが、夜の9時を回ると店の中は2人になった。ゆりがごく普通に店の戸締りをした。暖簾も看板もない商売っ気を全く感じない不思議な店だ。
あれ。よくよく思い出して見るともっと不思議なのが、客のそれぞれは注文も会計もしていなっかた。客がまるで我が家で飲んでいるように勝手に酒も肴を取って飲み騒いでいる。お勘定も客勝手で好きなようにお金を置いているようだ。余りに自然な動作なので今まで気付かないでいた。
よく考えればゆりや私の存在にも気付いているのかいないのか、意識する様子も全く感じない。まるで私たちが見えていないようだ。えっ、何かおかしい。私からはお客の動きがとてもスローに感じる。何故だろう。
「パパ、変だよ。もう魔法が効かないよ。止まれ。ほらね。」
ゆりが何度も試している。
「魔法か。それなら魔法の呪文は止まれ。だね。」
ゆりの放った言葉に同調するように自分も口にした。止まれと。しかし、私の魔法も架からなかった。
「パパの魔法も効かなくなっちゃったね。不思議だったのに。」
残念がるゆりの言葉が私の思考をぼんやり刺激し、暫く考え始めた。魔法といい、お客の映像といい、ここは異様な世界だ。記憶を失くしたゆり、そしてここのいる私。別の世界のそれぞれが1つの世界に混在しているとでも言うのだろうか。
思い立ったように私から口を開き、ゆりと交互に口を開いた。
「ゆりも前から魔法を使えたの。」
「ううん。今が初めて。それまで知らなかった。パパはどうなの。」
「パパもあの時が初めて。それまでは知らない。でももう使えない。」
私は呟くように言って、また暫く思考を始めた。時間を止めるなんて考えられない。しかしそれは不思議な現象だった。
「今日のお客さんは常連さん?ゆりは知っていたみたいだけど。」
「知ってたとかも、もう覚えてない。いつもそうなの。何度も思い出そうとしたこともあるけど、思い出せなくて疲れてきちゃうから思い出さないの。どうせ思い出せないもの。」
「・・・・・」
「前のお母さんも同じなの。もう顔とかは思い出せないの。」
ゆりはとても寂しそうに小さい声で答えた。辛い思いをしている。ゆりは私よりももっと先にこの世界に来てしまったらしい。たった1人きりで。熱いものがこみ上げたが思い直した。もう私がいる。本当のお父さんがゆりの目の前にいる。ゆりはもう一人じゃない。
「でもパパのことは忘れてないよ。会った時から思い出さなくても覚えてるの。そうそうパパだけじゃないよ。くにこでしょ、ひでまさでしょ、ゆきえにとしなり。ね、覚えてるでしょ。」
ゆりはそう言うと首から肩に掛けていつも大事にしているポシェットのチャックを開けて、中から1枚の写真を取り出して私に見せた。
「あ!」
私は息を呑んでその写真に見入った。家族が写った1枚の写真である。
「この写真はどうしたんだ。」
問いかけるように私は口を開いた。
「この中にあったの。いつも見ていたからパパの顔もママの顔も知ってるの。お兄ちゃんもお姉ちゃんの顔も。ねえ、ここに写ってるのウチでしょ。そうでしょ、パパ。」
ゆりは祈るように聞いた。
「そう、間違いなくゆりだ。ママもお兄ちゃんもお姉ちゃんもいる。必ず会えるから心配ないよ。」
ゆりにそう答え、ゆりもそう信じた。
「そうだよね。パパが来てくれたし、魔法もあるし。」
確かにゆりはここにいて、自分もゆりの傍にいる。でも居なければならない世界はここではなく10年前の世界でなくてはならない。ゆりの言うとおり自分はゆりをこの世界から救い出すために来たのかもしれない。魔法を持って。しかしその魔法ももう使えない。
顔をゆりに傾けた。ゆりはじーっと写真を見つめている。いつもそうしていたのだろう。ゆりはいつからこの世界にいるのだろうか。ゆりは体で知っている記憶以外は置き忘れてここに来てしまったようだ。喋りかたや仕草など失くした記憶以外は全てゆりの仕種である。間違いなくここにいるのはゆりであった。でも私は記憶を持ったままこの世界に来たらしい。どうやって来たのだろう。
そう考えながら何気なく辺りを見渡して、自分の鞄がないことに気付いた。確かに足元に置いていたのだが。自分は座ったまま椅子から離れていない。どこにいったのだろう。ゆりに尋ねた。
「パパの鞄どこにあるか知らない。」
「さっき消えちゃったよ。ウチが魔法を架けた時に。ウチ見てたから。」
なんの驚く様子もなくゆりは普通に答えた。ゆりはこの世界に何かを見ているのかもしれない。しかし、記憶が続かない。私と会ってから話したりした私とこの世界で作り出した記憶以外には。鞄のことなどどうでもよくなった。
「そうか。」
と投げ出すように言い、考えに耽った。