失くした記憶の代償
ゆりは私の手を引き歩き出した。私はそれに従った。数分も経っただろうか、ちょっと小奇麗で小ぢんまりした店先でゆりの足が止まった。
ゆりは首から肩に掛けた小さなポシェットのチャックを開けてカギを取り出した。あ、見覚えのあるポシェットだ。ゆりのお気に入りで外出する時はいつも同じように首から肩に掛けて大事にしていた淡いグリーンのポシェットだ。
私は凝視したまま沈黙している。
ガラッと、ゆりが慣れた手つきでカギを開けて中に入った。私もゆりの後に続いた。
外見に違わず小ぢんまりした居酒屋だった。カウンターには精々六人。四人掛けのボックス席が1つの小さな店構えだ。カウンターの1つに腰かけて店の様子を覗った。カウンターにはいくつかの煮物を盛った大きな盛皿が4皿ある。キープされた焼酎も何本か飾られている。何人かの常連客がいるようだ。
メニューは盛皿も含め私でもスーパーで買えそうなありきたりの肴である。品数は多くない。それを保存する業務用の冷凍庫が店構えに不釣合いに大きく目立って見える。
奥に2階へ上がる階段がある。ここで寝泊りしているようだ。店の大きさからすれば精々2DKが目一杯な広さだ。
壁に無造作にかけられた時計は午後5時になろうかとしている。自分の腕時計の針を確認した。同時刻である。
少し平常さを取り戻したようだ。ゆりがビールのロング缶を私の前に置いてくれた。私はビールを好んで飲む。ゆりも知っている筈だ。
私はビールの缶を開けたが口にはしないで、ゆりの存在を確認する方を急ぎゆりに問いかけて、ゆりもそれに答えてくれた。
「誰と暮らしているの。」
「ママと二人。」
「ママは何処。」
「だからさっきいなくなったでしょ。」
「さっきて、いつ。」
「パパがウチのこと助けてくれたでしょ。変な魔法で。」
「え。分かったの。ゆりは止まらなかったの。」
「そう。パパが信号を渡って助けてくれたでしょ。ママは信号を渡らなかったの。その時、いなくなったの。ウチ見てたもん。」
「本当。良く分かんないけど。本当は今どこなのか、何がどうなっているのかも、まるで夢でも見ているみたいなんだ。それよか、夢であって欲しいんだけど。それも違うみたいなんだ。」
「パパは、ウチのパパでしょ。」
「ねえ。どうしてそう思うの。」
私は驚いた。そうあって欲しいけど。いやそうでなきゃダメなんだとゆりを見つけてから心の奥に強い意志がある。あれ、ゆりが自分のことをウチと言っている。いつもそう呼ぶ。ゆりだ。記憶を失くしているが、ゆりに間違いない。
ゆりが話を続け、それに合わせて私も口を開いた。
「だってパパでしょ。」
「ゆりはパパのこと知ってるの。」
「知らない。」
「じゃあ、あのお母さんは本当のお母さん。」
「知らない。良く覚えてない。」
「覚えていないって。ずーといたんでしょ。」
「うん。ずーといたけど、良く覚えていないの。どうしてもすぐ忘れてしまうの。」
「私はゆりのパパだよ。ママもお兄ちゃんもお姉ちゃん、それに小さいお兄ちゃんがもう一人いるんだ。ママはくにこ、順番にひでまさ、ゆきえ、としなり、それにゆり。それがゆりの家族ですーっと一緒にいたんだよ。」
「本当に。どこにいるの、早く探さないと。」
「うん。必ず一緒に探そう。絶対にパパから離れちゃダメだよ。」
「うん。早く探そ。」
私は、溜息を一つついて、カウンターにある盛皿に箸は付けたが口にはできなかった。暫くそういう静寂が欲しかった。ゆりがいるだけで心が安堵している。ただ忙しく考えているが、頭の中の整理が出来ないでいる。
何をどう整理したらいいのかも分からない。ゆりのことから考えて行こう。暫く天井を見つめていたらゆりが聞いた。
「何の魔法なの。」
「パパも分かんない。さっき見てたって言っただろ。どう見てたのか話してくれないか。」
ゆりの問いかけで、何か考え始める糸口が見つかった気がした。
「車に轢かれそうになって。後ろからパパが助けて信号を走ってくれたの。信号を渡ってからパパに抱っこされながら、向こうの方を見てたの。そしたら何も動いていなかったの。固くなって。動いていたのはパパとウチだけだった。」
その時、ガラッと店の戸が開き、客が3入ってきて、ボックス席を目指した。ゆりには見慣れた光景で、客はそれぞれ慣れた手つきで勝手にビールのロング缶を取ってコップに注いで飲み始め、手馴れたように小皿を取ってカウンターにある盛皿に向っている。
その様子をゆりと私は目で追った。ゆりが思い出したように私に言った。
「その時、パパが言ったの。止まれって。」
その瞬間を私は見た。客の動きが完全に静止している。それも不安定な格好のまま。空気さえも静止している感じだ。
「あれ。ワッハハハ。」
ゆりがニヤニヤして愉快な表情で笑っている。顔は小さいが目はクリッと大きい。開けた口は大きく笑っている。良く見るゆりの笑顔だ。もう客の動きが始まっていた。