タイムトンネルの扉
タイムトンネルの扉を開き潜ってしまい、そこで出会ったのは記憶を失くした末娘のゆり。2人はタイムトンネルの信号を渡り、10年未来にタイムスリップした。
昨日は役員会議の資料作りで深夜まで残業が続いた。資料と言っても前向きな資料ではない。出来もしない前向きな営業報告で役員達の言い訳を作成する結構厄介なお荷物なのだ。それで自宅に帰らず、いつもそうしているように銀座にあるサウナ付きカプセルホテルに泊まり、朝8時にコールをかけて起き、ごく普通にいつものカフェでコーヒーを飲んで、遅刻しない程度に虎ノ門にある会社に行った。私が勤める会社は銀行の虎ノ門支店で、勤続15年になる。社員用入口からごく普通にドアを開きオフィスに入った。
このドアがタイムトンネルの扉とは私が知る由もない。
オフィス内はまだ時間が早い所為でガランと静かだが、異様な気配を感じている。何気に見渡すと私が良く知る同僚や上司らしき人がいるが、皆測ったように老けてしまっている。全く知らない人もそこにいる。もっと不思議なのは皆が自分の存在を知らないのか、気付いてもいないようだ。窓口の入口に大きく描かれた銀行の名前も私の知らない長たらしい横文字の日本語が並んでいる。合併でもしたかのように仰々しい名前だ。ふとカレンダーを見て愕然としてしまった。そのカレンダーの西暦は私の知らない10年先の4桁の数字になっていた。
逃げるようにして外へ出て15年も見慣れた虎ノ門界隈の風景を見廻すと、高層ビルや町並みに変化はないが、その場所にあるはずの例えば銀行の看板がない。あるのだが私が知りもしない名前に変わってしまっていた。目を疑ったがそれが事実でしかなかった。
私が確かに昨日泊まり、今朝そこから出勤した銀座にあるはずのカプセルホテルもそこは真新しいビルになっていて、その存在は既に確認できなかった。
その後、住み慣れた自宅に戻ろうといつも通りに帰ってはみたが、自宅は存在しないどころか建物すらその場所にはなかった。見慣れた町並みは気にするほどの変化もなく、子供が通う小学校も中学校もあった。いつも知っている近所の人たちもやはり皆測ったように老けてしまっていた。
そこには私と私の家族が生活したという痕跡だけが消えてしまっていた。
頭の中の整理が付く訳もなく、ただ呆然と途方に暮れて彷徨っていた。電車にでも乗って降りたのだろう記憶にない町並みが目の前に広がっている。
意識も忘れてどれくらい歩いていただろうか。気付くと自分が歩く歩道の前を末っ子のゆりが歩いている姿が目に焼きついた。そんなはずはないと考える余裕も無くゆりの姿を追ってしまっていた。
傍に母親らしい、おそらく母親に違いないが、それ相応の女性と一緒に2人は少し離れて歩いている。その母親はゆりの母親、つまり私の妻ではない。それでも何かに縋るようにゆりの姿だけを追い続けていた。
暫くして信号待ちするために2人の歩が止り、私とゆりの距離を急速に短くした。手を伸ばせば届きそうな距離にゆりがいる。
それは信号待ちのほんの一瞬のことだった。
「ゆり!止まれ。」
私はそう叫ぶと、ゆりを抱き上げ向う側の歩道を走っていた。
車道の信号を見ていたゆりが、信号が青になる判断を早まったのだ。トラックが急ぎ通り抜けようとしていた瞬間である。思わず止まれと叫んだ。叫ぶと同時にゆりを抱き上げて走った。
そして2人は10年未来にタイムスリップした。
ゆりは無事だった。ゆりを抱いたまま向かいの歩道に立った私が見た景色は、全てが静止した有様である。ほんの数秒間であったが、間違いなくこの瞬間を見た。景色の静止が終わり、時間が動き出した。
車の急ブレーキ音、その目撃者の悲鳴。それらの雑音の中で、異常な時間を目の当りにした。時間が静止したのだ。時間を静止してゆりを抱いて走った。誰もが間に合わないと確信した悲鳴が続いている。しかしゆりは無事だ。私が静止した時の間に抱きかかえて救った。無事にいるゆりを見て悲鳴が驚嘆に変わっているが、私の耳には何も入らない。
一瞬ではあるが、確かに自分は時を止めてしまった。そう確信すると私の意識が遠くへ行った。
暫く呆然としていたらしい。気が付くと目の前にゆりがいた。周囲がまだざわめいている。野次馬の一人や二人もいるだろうかまだ無責任に騒いでいる様子だ。
私は正気を取り戻し、落ちた鞄を拾いその場から立ち去ろうと急いだが、ゆりが私の袖を引っ張って離そうとしなかった。素直に従い、ゆりに袖を引かれるままに歩き出した。
「ゆり。怪我はなかった。」
私は思わずゆりと呼んでしまった。それもごく自然な形で。と同時にしまったと思ったが、ゆりのはずがないと思い平静を保った。
しかし、ゆりが発した言葉は予想を裏切り私の期待に答えてくれた。私は釘付けになり、ゆりを凝視してしまった。
「やっぱりウチのこと知ってんだ。」
「え。ゆりって名前なの。」
私は確認した。ゆりは私の予想を遥かに越え、ごく自然な言い回しで答えた。
「知らないけど、パパでしょ。」
私はゆりのその答えにほんの僅かな時間を楽しんだが、傍に母親がいないのに気付き、辺りを探すように見回した。でもいない。どこに行ったのだろうと思いゆりに尋ね、ゆりも答えた。
「お母さんはどうしたのだろう。」
「もういないよ。」
「え。さっきいたよ。ほら信号待ちの時に傍にいただろ。その人がお母さんじゃないの。」
「うん。でも、もういないの。」
「え、何で。一緒にいたでしょ。」
「でもいないの。ウチにも分かんないから聞かないで。」
「・・・・。」
私はそれ以上尋ねなかったし、尋ねたくもなかった。ゆりが傍にいることの安堵の方が大きかった。母親の存在がなくなってしまったことでゆりを独占していることが、素直に嬉しく思えこれ以上尋ねるのを止めた。