けつらく
「ああ、緊張します。汗が止まりません、ああ」
トイレの鏡の前で少女はぶつぶつとつぶやいている。緊張しいなのだろうか、彼女は周りに気味悪がられていることにも気が付かない。
「汗、汗はんぱねえです。動悸やばいです。これじゃ面接なんてとてもできません…」
備え付けのペーパータオルで何かに取りつかれたようになんども額をぬぐう、肌がこすれて赤くなっているがそれでも気が済まない様子である。やがてペーパータオルがなくなると、スーツの胸ポケットから乱暴にハンカチを取り出すとこめかみのあたりを入念にふき取る。
「あああああ、はやくしないと。あ、そうです。緊張を和らげる方法がありました!手に人と書いてそれを飲み込めばいいんだった!そうです!あははは、この方法があったんです!」
トイレの外ではあまりの様子に見かねた女性職員が警備部に通報していた。そんなことも知らずにガッツポーズをとった彼女を更なる悲劇が襲った。
スーツのポケットから零れ落ちた万年筆を踏みつけて彼女はすてんと真後ろに転がって倒れた。
万年筆を踏み砕くほど彼女が重ければ、万年筆が父から送られた丈夫で高価なものでなければそうはならなかったはずだった。
彼女はぴくりとも動かなくなった。
さすがに周囲も心配になって彼女に駆け寄る。すると彼女はぱちりと目を開けるとゆっくりと起き上った。
「だいじょうぶ?頭打ってないですか?」
気味悪がってしまった分、罪悪感があるのだろう。彼女を取り囲んでいた女性の一人が心配そうに尋ねた。
「あれ… あの、すみません、平気で…す… あ、汗…汗が止まりません…」
「ほんとだわ、顔色も悪い。待って、医務室に連絡しましょうか?」
「あ。あ。あ。 あれ どうすればいいんだっけ…あれ」
ふらふらと定まらない視点で彼女は周囲を見回した。やはり、頭を打ったのだろう。それもよっぽどひどい打ち方をしたに違いない。女性はそう考えた。
「立てますか?」
女性が手を差し伸べた。
彼女はその手を見つめた。そして視線を手首、腕を伝わせて女性の顔をまでたどると安堵したように言った。
「そうか、 人 を飲めばいいんだった」
女の手首が消え去り、赤い切り口から噴水が噴出していた。手品でもなんでもない。彼女の口に女の手首が咥えられていた。
女は驚いたように彼女の顔と自分の手首を交互にみた。そしてぱくぱくと口を開閉しながら悲鳴をあげる前に死んだ。彼女の二口目で頭から首までが齧りきられたのだ。
もにゅもにゅと何かを咀嚼する彼女の口からぽろりと目玉がこぼれおちた。
代わりに取り巻きの女性たち叫ぶ。血の雨が女性たちに降り注ぎ、女たちは絶叫しながらその場から逃げだした。
「ふう、ふう、まだ汗とまんないなあ。」
手首と頭のなくなった死体の前で、その血で真っ赤に染まった口をもごもごと動かしながら彼女は立ち上がった。
「不審者??」
面接会場で準備を終えていた重役の男は不満を隠そうとせずに警備主任をなじる。
「あのねえ、今日みたいに外部の人間を社内に招く場合こそ警備をしっかりしないと意味がないじゃないか」
「は、はい。現在対応中です。」
ざあっとノイズと音声が主任のインカムに響く。岡崎からの報告だが、返事をするタイミングがなかったので一瞬だけ無線のスイッチを入れてノイズで合図する。(ダジャレじゃない)
「今回だけの話じゃない。何のために君らがいるんだ。私の仕事は面接して能力を見る、人事部だからね。なら君は警備するのが筋だろう?ん?もし株主総会の日にでもこんなことがあったら首じゃあすまんよ首じゃあ」
「もちろんです。今後は警備を強化させて…」
「違うよ。意識の問題だって言ってるんだ君ィ。まあいい、こんなところで油を売ってるんじゃなくて、ほら上のフロアで待機してる就活生たちにも説明してきて。きちんと謝罪してきたまえ」
「は、…いや、か、彼らには追って連絡しますので今は現場の対応を…」
「言い訳はいらん。行ってきたまえ。きちんと頭を下げて自分の不手際を説明してこい。どうせインカムで指示出すふりをするだけなんだろう。ホラ」
底意地の悪さを隠そうとしない重役は嬉しそうに言った。
警備主任の顔が真っ赤になっているのを見て、重役の男は楽しくなってきたのか、
「どれ、君の謝罪を私も見に行こうかね」
などといいだす。
その場で重役の男を窓から突き落としたいという感情を必死に抑えながらとぼとぼと歩きながら警備主任がドアを開けた。
その瞬間。悲鳴と地鳴りが同時に訪れた。重役の男と警備主任は逃げまどう女たちに突き飛ばされ、硬めのカーペットの上に投げ出される。
「…な、いったいなんだ!」
状況がつかめずに重役の男がどなる。彼らを突き飛ばした女たちは男たちを見ようともせずに廊下の向こうへかけていった。なんと失礼な。
しかし男たちは転んで群から取り残された女たちの表情に気おされて二人は言葉を飲み込んだ。倒れこんだ女たちは歯を食いしばりながら、泣き叫んでいる。まるで叫びたいのに、それを許されていないような不自然な表情だった。
「み、みっけ…!お、おおおお男の人ががががががああああああああああああ、こ 怖いなあ あああ、緊張してきたよ…でもだいじょぶ 飲めばいいんだ」
異形はどこからかやってきた。
焼けているみたいに真っ赤に染まっている唇に、就活のためにきれいにされていた白い歯。まったくの異常な女がそこに立っていた。
女たちの悲壮なうめき声はいっそう激しくなる。
彼女はおどおどと小走りでへたり込んだ女に駆け寄るとその女の額にキスをするように口を近づけた。硬く閉ざされていたの女から、今度は大きく広がり、天から地へと堕落するオペラのような叫びが廊下に響いた。
倒れこんだ女は目がなくなっていた。顔の上半分がごっそりとえぐられ、ぶるぶると痙攣しながら絶叫と血しぶきをまきちらした。
「ああああああああああああああああああ!!!!」
重役の男は叫び声をあげて逃げ出そうとしたが、彼女はそれを羽交い絞めにするように後ろから抱き留め、面接、おねがいします!!と歯をむき出しにして元気に叫んだ。前歯には誰かの髪の毛と肉が挟まっていて、そのあまりにも凄惨な笑顔に重役の男は泣きながら失禁した。
男を拘束したまま彼女はぺこりぺこりと頭を振り回した。最後に お願いします!といって彼女は重役の男を窓から投げ捨てた。
そして死を眼前にして失神したゆえにその場で最後まで生き残った女の腕を掴む。
すう、と息を胸に入れて 失礼します!と元気よく引いた。
腕から肩から背面にかけての肉と皮膚が無残にも引き千切られ、ドアに見立てられた女は脊柱や肋骨をむき出しにされた。
痛みによって覚醒させられた女は あぎゃあ、と短く叫んで女は再び意識を失った。
彼女は女の断面図とちぎられたドアを交互に見て
「二重ドアでした… 緊張して、た もう一枚あるんだね 」
ビルの外は重々しい雰囲気が漂っていた。パトカーがバリケードを組んで完全にビルを取り囲んでいた。
「異常な女が一人だけ、一人だけなんですね」
「はい」
警官の念押しに警備主任はうなずいた。脱出の際に鳴らした火災警報でビルの内部は一時騒然としていた。
誤報だと修正する律儀な社員がいなくて助かった。そうでなければ火災警報は混乱だけ招いて誰も脱出できないままだっただろう。ビルのなかであの悪魔によって皆殺しにならなかった幸運に男は感謝した。
ビルのただ一つの出入り口は警官隊によって完全に包囲されていた。すでに死人ありと、報告されていたおかげで警官たちは皆手に拳銃を構えていた。
なんにせよ、たすかった。
死の恐怖によってきちきちに緊張させられた肉体は、弛緩しぴりぴりとした痛みを主任に与えていた。あの一瞬で筋肉痛になるなんてこんなこともあるんだな。
そんなことも考える余裕すらあった。
玄関のほうから物音がすると、あたりは一瞬で静まり返る。警官隊をさらに包囲するように展開する野次馬たちも一斉に押し黙った。これは協力するとかではなく、きっと犯人が射殺される瞬間を見たくてたまらないのだろうな、と主任は思った。
そして、女が出てきた瞬間、警官隊は一切の躊躇も口上も述べずにただただ引き金を引いた。破裂音があらゆる方向から炸裂して、女は悲鳴一つ上げずに倒れこむ。
警備主任の男が悲鳴を上げる。
「こいつじゃあないんです!!!こいつは俺の部下の…岡崎です!!!!」
血だらけの肉塊になった岡崎を抱きかかえたまま、警備主任の男はどなった。
そして、警官隊が口々に何かを叫んでいるのに気がついた。
女を追いかけて出てきた彼女が主任の目の前にいた。それで拭いたら今度は血がべっとりとついてしまうだろう、赤いハンカチで額をぬぐうと、
「緊張したら 人 を のむ 」
ふう、と息ついたあとに口を開いた。
『速報です、本日、五反田で起きたテンタクルシステム合同就活セミナー襲撃事件の犯人とされる女性が射殺されたとのことです。同事件において負傷者四名、重傷者五名、死亡者七十二名、行方不明者一名が発表されておりますが、いずれも正確な人数は警察も把握出来ていないため、関係者との確認の上公式発表を行うとされています。…つづきまして、「ザ・ストレイン」日本初公開を記念してプレミアム…』
男は出血していた。それどころか、頭蓋は陥没し、首からは真っ白い骨が見えていた。
革の靴は片方が無く、スーツの肩口はズタズタになり、真っ赤な傷口が覗いていた。それでもよろよろと歩き続けた。
「私の しごと は めんせつ して のうりょくを 」
「めん して のう みる」
男は狂おしそうに頭をかきむしった。
はやく みなくちゃ のう みる 。