第八話:羨望と憧憬
その足音は、どこまでもついてくる。
仕方なく天秤の君は、先を急ぐ足を止めた。
「…私に何か用かい?」
振り向き様に尋ねる。
「貴方こそ、このお山にどんなご用なのでしょう?山頂に向かうようですが…
このお山の頂は、お母様しか立ち入れない場のはずです。」
そう言いじっと見返してくるのは、“淡水と生命の司”である“白蛇の君”。
「そのお母様からお預かりした物があって、山頂に向かっているのです。
けれど君は、このまま進んでも山頂には入れないのだから、
そろそろ引き返しなさい。」
白蛇の君の視線が力を弱める。
それでも尚、その東雲色の瞳は物言いたげに見つめてくる。
「…お母様からの預かり物というのは、こうも毎日、様子を窺う必要のある物なのでしょうか?」
天秤の君は、黄金の歯車を思い浮かべた後、ふと了の寝顔を思い浮かべながら答えた。
「そう…その通り。毎日、様子を窺う必要のある者だよ。」
怪訝な表情を浮かべ、そして俯く。
「…そう、ですか。」
俯き肩を落とす白蛇の君を見つめてながら、天秤の君は思い返す。
幼い頃から、なにかにつけて構って欲しがってきた白蛇の君。
それでも素直で聞き分けがよく、こんなふうに後を付けてくることなど今まで無かった。
なのに一体、どうしてしまったのか?
親しみを込めた微笑みを浮かべ、天秤の君は語りかける。
「先に谷に戻ってくれませんか、白蛇の君。私も用事が済みましたら、戻りますよ。」
すると白蛇の君は、徐に顔を上げ答えた。
「分かりました。なるべく早く、帰ってきてくださいね。」
「ええ…今日は、なるべく早く戻るようにしましょう。」
漸く笑みを浮かべると、白蛇の君は谷の方角に去っていった。
その背に流れる踝に届く程の長い髪の、桜色がはらはらと風に揺れていた。
※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※
山を降りてきた白蛇の君は、日時計の平野で一休みすることにした。
このまま谷に帰ってもよいのだが…落ち着かない気分を鎮めたかった。
迷惑がられるかも知れないと思いつつも、少しでも天秤の君の側に居たくて…後ろをついてまわってきた。
そんな白蛇の君に、天秤の君は苦笑しつつも、今まで追い払うようなことはなかった。
けれど最近の天秤の君は、白蛇の君の目を盗むようにして、毎日どこかに出掛けてしまうのだ。
それで此方も、こっそり追いかけたのだが…体よく追い払われてしまった。
「…嫌われてしまうかな」
独り言を呟く白蛇の君に、精霊達が戯れてくる。
気付けば、太陽は天辺に登っていて、一日の中で最も眩しい光を放っていた。
「こらこら、くすぐったいよ。」
この時間を支配する光の精霊達は、随分と上機嫌にじゃれついてくる。
誰かのハミングが聞こえる。精霊達が運んできたようだ。
「これはまた…適当なハミングだ。けど君達は、お気に入りなんだね。」
その適当なハミングを、精霊達はバラバラにして並べ替えて…更に適当な鼻歌が響いく。
そして日時計の平野に、白蛇の君の笑い声が響いた。
※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※*※
足元に影が伸びている。…随分と時間が経っていた。
白蛇の君は光の精霊達に暇を告げ、谷に帰ろうとしていた。
ふと山を振り返り、見上げる。
すると誰かが二人連れ立って、降りてくるのが目に入った。
一人は天秤の君だろう。もう一人は一体、誰なのか?
谷に戻るのなら、日時計の平野を通るはず。
白蛇の君は、物陰に隠れて待つことにした。
程なく現れたのは、漆黒の髪の少年。
少年は紺碧の瞳で、天秤の君を見上げて言う。
「ここからは一人で帰るよ。貴方と一緒に戻ると、また、羽衣の君が臍を曲げるから…」
天秤の君は小首を傾げ、少年に応える。
「そうなのかい?それは困ったものだね。」
“困った”と言いながらも、天秤の君は実に楽しげで…
白蛇の君が見たことも無いような表情を浮かべながら、少年の後ろ姿を見送っていた。
そして暫しの後、天秤の君も谷に戻っていった。
茜色に染まる夕日に照らされ、白蛇の君は茫然と立ち尽くす。
天秤の君、貴方にとってあの少年…“了”は一体、何なのでしょう?
多くの神々から寵愛される末子の神。
“司”を持たぬ事といい、あの独特の気配といい、確かにあれは特別だ。
けれど貴方だけは、そんな了の存在に動じないと思っていました。
天秤の君、貴方のほうが、ずっとずっと特別なのだから…
気付けば日は沈み、夕闇がせまる。
未だ茫然とする白蛇の君の肩を、白魚の様な指が、するりと撫でた。
両肩がピクリと跳ね上がる。
振り返ると、漆黒の瞳と目が合う。
白蛇の君にとって最も近しいその神は、淡白な微笑を浮かべていた。
「天秤の君が、君を探していたよ。」
「…そう」
「珍しいこともあるものだ。いつもは君が、彼の神を追いかけているのだろ?」
「いつもいつも、追いかけているわけじゃないさ。」
「そうか?何があったか知らないが…もう戻ろう。」
先導するその背には、白蛇の君と同じく踝まで届く長い髪。
そしてその色は、空を映した紺碧。了の瞳と同じ色。
“大海と水平線の司”である“彼岸の君”は、白蛇の君が幼い頃から側に居た。
物静かな年長のその神は、長く白蛇の君の側に居ながら、愛着らしい愛着を示すことはなかった。
神々の住まいである谷にたどり着くと、彼岸の君の宅の前で佇む天秤の君の姿が見える。
「ほら、お待ちかねだよ。私は暫く夜空でも楽しんでくるから、いっておいで。」
彼岸の君が声をかけるが…白蛇の君は、俯き唇を噛み締めていた。
そして踵を返すと、彼岸の君を振り返りもせずに言う。
「申し訳ありません。宅に帰ります。」
早く戻ってきて欲しいと言ったのは自分だが…今だけは天秤の君と顔を会わせたくなかった。