第九話:日常と惰性
白い山の頂。真上には白い光を放つ太陽。
そして了は…惰眠を貪ることも忘れ、考え込んでいた。
今まで当たり前のように見てきたもの、そして触れてきたもの。
朝の草原、昼の陽炎、夜空を映す水鏡。
大風を起こす風袋、そして…微風を運ぶ羽衣。
誰の目にも映っていると思っていたそれらは、司の主と了の目にしか映らないものだった。
しかし何故に、自分には見えるのか?そして、それは何を意味しているのか?
いくら考えても糸口は掴めず、ふーっと息を吐き出し、ゴロリと仰向けになる。
天秤の君と目が合った。
「なっ、何してるんだ!」
「何って、考え事の邪魔をしてはいけないと思って、大人しく待ってたんだよ。」
いつの間にかそこに居た天秤の君は、片膝を立て頬杖をついて座っている。
その肩から、不意に銀色の髪がサラリと零れ落ちて、了の鼻先を掠めた。
無意識に延びた了の手が、それを掴む。
「…離してくれないかな」
天秤の君が文句を言うが、了は銀色の髪を掴んだまま反応がない。
「了…」
もう一度、呼び掛ける。ハッと顔をあげた。
「…ゴメン」
そう言いながら、了は漸く手を離した。
「まったく、了といい白蛇の君といい、どうして私の髪を玩具にするかな。」
乱暴に髪をかき揚げると、天秤の君はそっぽを向いてしまった。
「白蛇の君…あの大人しそうな神が、そんなことをするのかい?」
了は上体を起こし膝を抱え、天秤の君を窺う。
「唐突に行動的になることがあるのですよ。あの子は…」
この山の中腹まで、後をつけてきた白蛇の君。
あの日から数日経つが、まだ一度も顔を見ていない。
「天秤の君…?」
了の呼び掛けに、天秤の君はハッと顔をあげる。
「何でもありません。それより了は、何を考え込んでいたのかな?」
「ああ。神器の事なんだけど…どうやら僕には、どの神のも見えるようなんだ。」
「…全ての神の神器が見えると?」
「恐らく」
互いに暫し、無言になる。
重大なことなのか、些細なことなのか?
良きことなのか、悪しきことなのか?
隠すべきなのか、広めるべきなのか?
探るべきなのか、捨て置くべきなのか?
あまりにも当たり前なことが覆されると、抵抗も不安も湧いてこない。
只々、疑問だけが湧いてくる。
『我、母なる女神より、運命の司を預かりし者なり。』
不意に、天秤の君が黄金の歯車を現す。
「天秤の君?」
「了…ひとつ、試してみないか?」
「試す…何を?」
「君も司を、そして神器を持ってみるといい。」
「つまり僕に、“運命の司”である“歯車の君”に成れと?」
「ああ、そうだ。そうすれば、司を持たないことが原因なのか、それとも違うのか分かるだろ。」
了は膝を抱え、再び考え込む。
ふと、この世界に生まれ出る時に抱えていた、不安な気持ちを思い出す。
母に死の運命を運んだ者が、母の司を受け継ぎ、母の存在を完全に過去のものとする。
同胞達は、これをどう感じるだろうか?
「いいのかな?僕がお母様の司を貰っても…」
「私は、君こそが相応しいと思うよ。」
天秤の君もまた、了が生まれた時のことを思い出していた。
“移ろい”の宿命を負った末子の神。それは母の願いでもあった。
思えば、母なる女神が“移ろい”を望んだ時点で、“運命”は了の手にあったのかも知れない。
けれど了自身は、この世界の平穏を愛し、移ろいゆくことに抵抗を示している。
「大丈夫だよ…了。これはお母様の願いであり、私の願いでもあるのだから。」
「天秤の君…」
ずっと、この世界の神々に慈しまれ、了は生きてきた。
けれど本当は、ずっと不安だった。
だから、この世界の核心に、積極的に触れることはしてこなかった
則ち、皆の拠り所となりつつある神々の長子、天秤の君との関わりである。
「分かりました。…けれどその前に、一つお願いがあります。」
「なんだい?了」
「天秤の君、貴方の神器…“世界の天秤”を見せてくれませんか。」
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神々の住まいのある谷に戻ると、羽衣の君が了を出迎える。
羽衣の君の背後には、風袋の君も居た。
「了、おかえり。」
「ただいま、羽衣の君。お久しぶりです。風袋の君」
「ああ、おかえり。了」
「風袋の君、天秤の君がお呼びです。年長者の方々に、相談したいことがあるそうです。」
「相談?…分かった、直ぐに伺うとしよう。」
風袋の君の背を見送りながら、羽衣の君が尋ねる。
「相談って、いったい何だろうな?」
「…明日になれば分かります。」
「了?」
「羽衣の君、貴方の神器を…“風の羽衣”を見せてくれませんか。」
「ああ…別に構わないけど…」
踊るような仕草で、羽衣の君が虚空に手を延べる。
すると、ゆらゆらと現れた羽衣が、その主の両腕にふわふわと絡みついてゆく。
微風が辺りを包み、羽衣の君の長い髪を揺らす。
緩やかに波打つ銀髪が踊る様は、まるで目に見えぬはずの風が姿を現したようだ。
了は、幾度となく目にしてきたその光景を、まるで初めて目にしたかのように見入った。
いつもと様子の違う了の視線に、羽衣の君は段々と気恥ずかしさを覚える。
「了…その…どうしたの?」
「どうもしない…なんでもないよ。」
そう言いながら、“風の羽衣”に触れる。
そこから、くるくると微風が絡みついてきた。
赤子の頃から了を包んできた、優しい風。
それらを唯々、受け取り生きてきた。
あまりに惜しみなく与えられ、煩わしさすら覚えて…
明日、それが一つ変わる。
どんな余波が起こるのか、それとも起こらないのか…今は、想像も出来ないけれど。