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シャノワールの選択  作者: 雨乃晴彦
第一章 武とクロ
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第七話

 変化は突然だった。

クロが人の言葉を話さなくなったのだ。俺がどんな言葉をかけても、その口からは鳴き声しか発せられない。

 最初はただ単にふざけてるだけだと思った。だが、クロは冗談みたいな事をするような奴じゃないことは、この俺がよく知っている。

 話さなくなったのか、または話せなくなったのか、理由は全く分からなかった。

「……なあ、クロ。お前、喋れなくなったのか?」

 俺の問いかけに、クロはいつもと同じように本棚の上から俺を見下ろす。 しかしクロの口から返答の言葉はない。ただ無言で、俺を見下ろすだけだった。

「クロ、何とか言えよ」

「……にゃーん」

 このやり取りを、今日は何度も繰り返している。何度問いかけてもクロからの返答は鳴き声だけだった

 クロと出会ってから色々なことがあった。でも、こんなことははじめてで俺はかなり動揺していた。

 どうすればいいのか分からない。この問題に対し、何をすべきか全く分からなかった。

「……クロ。何で急に喋らなくなったんだ?」

「にゃーん」

「俺は猫語は分からないんだよ」

「にゃーん」

 何をするべきか分からないから、こうやって問い続けることしか出来なかった。

 唐突に、何を思ったのかクロは本棚の上から飛び降りると玄関の方へと向かう。

「お、おい。クロ」

 俺は椅子から立ち上がり、慌ててクロの後を追う。

 クロは玄関の前に座り、訴えるかのようにジッと玄関を見つめていた。

「外に出たいのか?」

 クロが振り返り俺を見る。頷くことも鳴くこともしない。クロが何を考えているのか全く分からず、俺は急に得体のしれない不安を感じた。

「外に出たいんだろ? そうだよな? クロ?」

「にゃーん」

「……にゃーんじゃ、分からないって」

 試しに扉を開けてみる。クロは扉を開けた俺を二秒ほど見つめた後、開いた扉の隙間から素早く外へと駆けていった。まるで俺から逃げるように。

 クロを追うべきだろうか。いや、追った所で先ほどの展開が繰り返されるだけだ。今は少し一人になって頭を落ち着けよう。

 開けた扉を閉めようと手を伸ばす。もう少しでドアノブに手が届くというところで、ドアノブは俺の手から遠ざかり閉めようと思っていた扉は俺の意思に反して開いていった。

「窓から来ると見せかけて、フェイント!」

 ドアを開いて現れたのは、私服姿のなっちゃんだった。相変わらず元気だが、今日はその元さ気について行けそうな気分ではない。

「武さん何かありました?」

 笑顔で登場したなっちゃんの表情が真剣なものに変わる。瞬時に俺の様子がおかしいことに気づいたらしい。

 クロが人の言葉を話せなくなったことを、なっちゃんには言っておくべきだろう。この問題について隠すことに意味はないし、一人で考え込むよりなっちゃんと二人で考えたほうがいい筈だ。

「とりあえず、上がって」

「……あ、はい。お邪魔します」

 珍しく、なっちゃんはちゃんと挨拶をしてから入室した。俺の様子から今はふざけてる時ではないと分かってくれたのだろう。

 部屋へとやってきて、なっちゃんはクロがいないことにすぐ気づいたらしく疑問の声を発した。

「クロさん、いないんですか?」

「うん。今さっき外に出ていったよ……でさ、そのクロのことで話があるんだけど、まあ座って」

 テーブルの前に敷いてあるクッションに座るよう、なっちゃんに促す。なっちゃんは俺に言われたまま、クッションの上に正座した。俺はそんななっちゃんの向かい側に胡坐をかいて座り小さく溜息をつく。

「話って何ですか?」

「……理由は分からないけど、クロが人の言葉を話さなくなった」

「……え?」

 直球で言った俺に、予想通りの反応をなっちゃんはした。当然だ。驚かないはずはない。俺だって、その結論に至ったときはとても驚いたのだから。

「嘘……じゃ、ないですね」

「ああ……なあ、なっちゃん。何でだと思う? 何でクロは急に喋らなくなったんだ?」

「……そんなの、私が知るわけないじゃないですか」

「だよな」

 なっちゃんに原因があるとは思っていないし、なっちゃんがその原因を知っているとも思っていなかった。しかし聞かずにはいられなかったのは、やはりまだ動揺しているからだろう。それは、なっちゃんも同じらしい。

「ちょっと待ってください。クロさんは喋らないんですか? 喋れないんじゃなくて?」

「分からないけど、多分喋れないんだと思う。もしまだクロが喋れるなら、今更俺に喋れることを隠す理由はないだろうし」

「何かしらの原因で、クロさんは普通の猫になった、こういうことでしょうか?」

「そう……かもしれない」

「ていうか、原因なんて分かる筈ないんですよね。だって、私は何でクロさんが人の言葉を喋れていたのか、それさえも知らないんですから」

 確かにそうだ。それが分からない以上、いくら考えた所でクロが喋れなくなった原因なんて分かるはずもない。

「私、クロさんを探しに行きます。自分で確認しておきたいですから。武さんはどうしますか?」

「俺は……待ってるよ」

 少し一人になりたい気分だった俺は、そう返答した。

「そうですか。それじゃあ、クロさんを見つけたら戻ってきます」

 そう言って、なっちゃんは窓の方へと向かった。しかしすぐに立ち止まり小さな声で何かを呟いたかと思うと、今度は玄関の方へと向かって歩いていった。

 平静さを保ってはいるが内心なっちゃんも動揺しているのかもしれない。

 玄関の扉が閉まる音が耳に届く。なっちゃんがいなくなったことにより部屋の中は静寂に包まれた。


 窓が開きそこからクロを抱いたなっちゃんが部屋に入ってきたのは、あれから二時間程経ってからのことだった。

「形式に囚われず、窓から入室する、これぞなっちゃんスタイルです」

 どういうわけか、なっちゃんはいつもの変ななっちゃんに戻っていた。てっきりクロが話せなくなったことを確認して、意気消沈しながら帰ってくると思ったのだが。

「なっちゃん?」

「クロさん、川原にいましたよ。そこで一発いいのを食らっちゃいました」

「は?」

「武さんのこと、馬鹿だなんて言えませんね。自分が恥ずかしいです」

 なっちゃんは抱いていたクロを床に降ろすと、ポケットから何かを取り出す。それはペットショップなどでよく売られている鳥の羽で作られた猫じゃらしだった。

「クロさん! 今日はこれで遊びましょう!」

「にゃーん」

「じゃあ、これを持って振ってください。私がじゃれ倒しますから……ごめんなさい。そんな呆れたような目でみないでくださいよクロさん」

 なっちゃんが猫じゃらしを振る。それを捕まえようと、クロが猫じゃらしに飛びつく。もう見慣れた光景だ。しかし、今はそんなことをやっている場合ではない筈なのに……なっちゃんは何をやっているんだろう。

「な、なあ、なっちゃん」

「何ですか? 今忙しいんですけど」

「何ですかって……」

 クロと遊ぶのに夢中なのか、なっちゃんはこっちを見ようともしない。

 まさか、クロが話せなくなったことを知り、ショックのあまりおかしくなってしまったのだろうか。

「なっちゃん、クロのこと、確認したよな?」

「はい、確認しましたけど」

「なら……何でそんな平然としてられるんだ?」

「……武さん」

 なっちゃんは俺の名前を呼び、クロを抱いて立ち上がった。

「やっぱり、武さんも馬鹿ですね。ここはクロさん、さっきのようにガツンと一発やっちゃってくださいな」

 そう言ってなっちゃんがにっこりと笑った瞬間、俺の視界はクロで一杯になった。

「……え?」

 一瞬、何が起きたのか分からなかった。クロに猫パンチされたのだと気づいたのは、生意気な顔で俺を見上げるクロの顔が視界に入ったときだった。

 いつもと変わらない、クロの生意気そうな顔。

 俺を馬鹿にしたかのような目……何も変わってはいなかった。

「私、武さんから話しを聞いて、不安になりました。私と武さんとクロさん、この楽しい関係が変わってしまったんじゃないかって。でも、そんなことなかったんです。確かに、クロさんは人の言葉を話せなくなってました。でもそれって重要なことですか? 私は重要だとは思わないです。だって、特別であっても普通であっても私はクロさんのことが大好きですから」

 俺は一体……何を不安がっていたのだろう。

 何を怯えていたのだろう。

 クロが喋れなくなったから、何なんだ? 

 クロが喋れなくなったら、俺はクロのことが嫌いになるか? 

そんなことはありえない。

 俺がクロと一緒にいるのはクロが特別だからという理由じゃなく、単純にクロのことが好きだからだ。

 一緒にいたいと思っているからだ。

 その想いが変わることは……絶対にない。

「猫パンチ、効きましたか?」

「かなり効いた」

 生意気な顔で俺を見上げるクロを抱き上げる。

 得体のしれない不安はもう消えていた。

「原因を考えたところで意味はないよな。クロ、お前が喋れなくなったとしても俺はお前と一緒にいるよ。この先もずっとな」

 金色の瞳が、ジッと俺の瞳を覗き込む。そして鼻の先端に濡れた感触を感じた。クロが俺の鼻を舐めたのだ。その行為はクロがこれからもよろしくとそう言っているように俺には思えた。

「あー! ずるいです! 私も舐めてください!」

「うわ、ちょ」

 勢いよく、なっちゃんが俺に突進してくる。それに驚いた俺は、それを避けようとして足を滑らせてしまった。まずいと思った俺はクロを床に衝突させまいと両手を頭上にあげた。

「あきゃあ!」

「ちょ、えええええ!」

 後方に転びそうになっている俺に覆いかぶさるように、なっちゃんは体制を崩した。このままだとクロとなっちゃんは大丈夫だが、俺が悲惨なことになりそうだ。

 思ったとおり、転んだと同時になっちゃんの肘が俺の鳩尾に沈む。

「ぐおえ!」

 蛙の鳴き声のような声を発し、俺は悶絶した。

 両手で持ち上げていたクロを手放す。痛いなんてもんじゃない。人体の急所だ。これは死ねる。

「あ、武さん? あれ、どうかしました?」

「ぐううううう」

「あ……まさか……こんなにも私に近づいてしまって、恥ずかしいとか?」

 ツッコミをいれる余裕もない。俺の変わりに、誰かこの娘にそんなわけねえだろとツッコンでくれ。

「あー……収まってきた」

「ありがとうございます、武さん。身を挺して、私をかばってくれたんですね」

「いや、全然。勝手になっちゃんが倒れたきただけだし、てか早くどいて」

「了解です!」

 俺の上に乗っかっていたなっちゃんは敬礼をすると、近くにいたクロを両手で抱き上げごろりと俺の横に寝そべった。

 見慣れた天井と、なっちゃんが抱き上げるクロが視界に入る。

「やっぱり、何も変わりませんよね」

「……そうだな」

 左手を伸ばしクロを抱いているなっちゃんの左手に自分の左手を重ねる。

「これからも、この二人と一匹の関係は続いていきますよね」

「ああ。これからも、面白おかしく続いていくだろうな」

 それは揺るがない。ずっと一緒にいたいと、そう思っているから。

 きっとこの先も、この楽しくも幸せな時は続いていくのだろう。

 クロがいて、なっちゃんがいて、他には何もいらない。

 クロとなっちゃんがこれからもずっと傍にいてくれるのなら、俺は何だって出来そうな気がした。

「にゃーん」

 一声鳴いたクロの尻尾は、機嫌よさそうにゆらゆらと揺れていた。

 クロが喜んでいることが分かり、俺となっちゃんは顔を合わせる。

 笑い声を上げたのは二人同時だった。

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