第六話
目の前にある光景に視線を固定したまま、俺は小声で話しだした。
「あれは確か、中学生の時だったな。俺には特に仲のいい友達が五人いて、いつもその五人と遊んでたんだよ。仲良しグループってやつだな。そのグループの中の一人に、康史ってのがいたんだが、その康史がある日クラスの女子と付き合うことになったんだ。いつも放課後は六人でサッカーやらバスケなんかをして遊んでいたんだが、クラスの女子と付き合いはじめた康史は、俺たちとサッカーやバスケをするよりも、段々その女子といる時間が多くなっていったんだ。まあ、そんな感じで、康史の恋愛経験値が俺の倍ほどになったとき、俺は多分この先ずっと忘れられないであろう光景を目にすることになった。中学生時代の俺は、ちょっと悪ぶってみたい年頃で、放課後の掃除をさぼったりするのがかっこいいとか、そんなことを思う馬鹿な餓鬼だったんだよ。その忘れられない経験をしたときも、俺は放課後の掃除をさぼって、急いで家に帰ろうと下駄箱に直行したのを覚えてる。でもさ、その日は運悪く途中で学級委員長に見つかっちゃったんだ。この学級委員長ってのが康史の彼女なんだが、眼鏡の似合う可愛い子だった気がする。と、そんなことはどうでもいいか。俺は委員長から逃れるため、学校の裏にある木の裏に隠れたんだ。そこは隠れるには絶好の場所だった。人なんてほとんど通らなかったし、静かでいい所だった。とにかくそこで時間を潰そうとしたんだが、その日は天気が良くて、ウトウトしちゃったんだよ。木の幹に背を預けて、多分、半分寝てたと思う。で、気がついたら夕方だったんだが、意識が覚醒したと同時に、なんか艶っぽい声が聞こえてきたんだ。誰かいるのかと思って、木の影から辺りの様子を伺ったら、康史と委員長がいてさ、それはもう中学生とは思えないほどの濃厚なキスをしてたんだよ……それが俺の見た忘れられない光景なんだが、その光景を見たときに思ったことが二つある。一つは何かすげえなっていうのと、もう一つ、なんだと思う?」
「……この状況において、私がその問いに分からないと言葉を返すと思うのか?」
「いや、思わない」
匍匐前進の姿勢を取ったまま、俺は小さく頷いた。背中の上に微かな重量感があり、そこにクロが乗っていることが分かる。
何故このような体制を取っているのか、簡単に説明すると、このような体制を取らざるを得ないからだ。
今の俺の現在地は、商店街の公園に設置された遊具、土管の中だったりする。滑り台を突き抜ける形で設置された土管の中で、俺は長々と昔の事をクロに話していたわけだ。
何故あのようなことを話したのかということにも、もちろん理由はちゃんとある。
土管の中から見える公園内の光景。少し離れた所にブランコがあるわけだが、そこにはなっちゃんの姿がある。
そしてなっちゃんの横には背が高いイケメン風の男子学生がいるわけだ。
別に濃厚なキスをしているわけではないのだが、何やら仲よさそうに、両者共ブランコに腰掛けて話している。
この光景を見て、俺も、そしてクロも、思ったことは一つだった。
「まさかあの娘に、彼氏がいたとはな」
クロの言葉を合図にするかのように、なっちゃんが男の肩に手を置いた。
「おい、クロ。なっちゃんが男の肩に手を置いたぞ。まさか、これはアレじゃないか?」
「あの娘、どうやら押すタイプらしいな。何だか私は少し緊張……おい武。私は一体何をやっているのだ?」
「は? 何って……隠れてるわけだろ?」
事の経緯は簡単だ。講義もバイトもなく暇だった日の昼過ぎ、俺とクロが公園のベンチに座って縁側のおばあちゃんの如くボーっとしていたら、公園になっちゃんと男子学生がやってきて、何故か俺とクロは慌てて土管の中に隠れたのだ。
何故隠れたかはよく分からない。しかし、クロだって事の経緯は分かっている筈なのに、今更何を言っているのだろう。
「そういうことではない。何故、私はここに隠れている?」
「いや、隠れた理由は俺にも分かんねえよ。慌てていたし、お前だって隠れただろ?」
「違う。隠れた理由を訊いているのではない。何故、私はここに隠れ続けているのかということだ」
「そりゃあ、今更出て行くのは気まずいからだろ。公園の出口は一つだ。出て行けば、なっちゃんのことだ。隠れていたってバレる。いいか、昔の俺もそうだったんだよ。そりゃあ、覗きは悪趣味だ。だがな、逢瀬の場に出て行くのは凄く気まずいだろ? それが知り合いなら尚更だ」
「ふ……お前は大切なことを忘れているぞ」
クロが俺の背中を歩き、俺の目と鼻の先に降りる。くるりと振り返り、その金色の瞳で俺を見た。
「いいか、私は猫だ。仮にあの二人が、これからまだ日も下りていない公園で、あんなことやこんなことを始めたとして、そしてその行為の最中に猫一匹が通り過ぎたとしても、何も思うまい。いや、あの娘は私の事を知っているから、後で何かを訊かれるかもしれないが、その時は、土管の中で昼寝をしていたとでも言えばいい」
「何が言いたいんだ、クロ」
「簡単なことだ。私は覗きなどという、低俗な事をするつもりはないということだ。では、さらばだ武」
クロが土管から出ようと、土管の外へと振り返る。俺はクロを土管の中から出さないために素早くクロのお腹を両手で掴んだ。
「待て、クロ! お前も興味津々だったくせに、なに急に冷静になってんだ! 俺をこの気まずい状況の中、一人にする気か!」
「ええい、離せ! そんなこと私の知った事か! 土管の中などに隠れるお前が悪いのだ!」
「お前だって隠れただろ!」
「お前につられたんだ! このたわけもの!」
猫パンチの嵐が俺の顔面に炸裂する。しかし、俺はクロを離すまいと、必死で猫パンチに耐えた。そんな時だった。
「……あの、何やってるんですか?」
俺のものでも、クロのものでもない声が土管の中に響いた。クロの猫パンチが止まる。声の主が誰かと視線を向けると、土管の中を覗きこんでいるなっちゃんがいて目があった。
「で、武さんとクロさんは、土管の中で何をやっていたんですか?」
土管から出ると、すぐさまなっちゃんから質問を浴びせられた。俺はどう答えたものかと視線をあちこちに彷徨わせる。
ふと視界に止まったのは、ブランコに座る男子学生だった。興味深そうに、こちらの様子を伺っている。
「私は昼寝をしていただけだから、武が土管の中で何をしていたかは知らんな。急に抱き上げられて、驚いて猫パンチをしてしまったが、寝ぼけていたのだ。大丈夫か、武」
「昼寝ですか。やっぱりクロさんも、狭い所が好きなんですね」
「猫だからな」
顔が引きつる。よくもまあ、スラスラと嘘が言えるものだ。しかしまあ、クロはうまくなっちゃんの質問をやり過ごしたようだ。さすがに隠れて覗いていました等とは言えないだろう。もちろん、それはクロに限らず俺もだ。さて、なんていい訳しよう。
「武さん、覗いてましたね?」
「うん……あっ」
しまったと思ってももう遅い。考えるのに夢中でつい反射的に『うん』と答えてしまった。
「はあ……そんなことじゃないかと思ってました。推測するに公園でボーっとしてたら、私が男の人と並んで公園にやってきたのが見えたので、咄嗟に土管の中へ隠れてしまった。それで、もしかするとあれは私の彼氏で、これからあんなことやこんなことをするかもしれない、だとしたら今から出て行くのは気まずいな……とか、ドキドキしながらそんな事を考えていたとこんな所でしょうか」
相変わらず色んな意味で恐ろしい子だった。ていうか、的確すぎだった。
「それと、クロさん。猫の目は暗い所でも光るんですよ」
「……ふん、そうだったな」
少し悔しそうにクロは言った。どうやらなっちゃんはクロの嘘も見破っていたようだ。
そんなやり取りをしていると、いつの間にかブランコに座っていた男子学生が、すぐ近くまでやってきていた。
しかし、何故だろうか。俺やなっちゃんのいる場所から五メートル程の距離で立ち止まり、そのまま何故か俺の方を凝視する。いや、正確には俺ではなく俺が抱いているクロをだった。
「あ、武さん。彼、私の学校の後輩で、ツン君です。最初に言っておきますけど、彼氏とかそういうんじゃないですから。勘違いしないでください」
「ああ、そうなんだ」
どうやらこのツン君とやらは、なっちゃんの恋人ではないらしい。俺の早とちりだったようだ。
それにしても、なっちゃんが通う高校の後輩らしいが、そうは見えない。学生服を着ているものの、落ち着いていてすごく大人っぽく見える男だった。多分、私服姿で会ったら同年代だと思うだろう。
「話はよくなっちゃん先輩から聞いています。武……さんですよね? 初めまして、俺は都築司。なっちゃん先輩にはツン君って呼ばれてます。よろしくお願いします」
そう言って、都築司は軽く頭を下げた。髪型が印象的だ。短い髪が逆立っていて、とてもツンツンしている。多分、だから【ツン君】なのだろう。あだ名を命名したのはなっちゃんに違いない。訊かなくても分かった。
「ああ、よろしく。司……でいいか?」
「はい。好きに呼んでくれて結構です」
「了解。んじゃ、司。早速質問なんだけど……この微妙な距離感は何?」
俺は未だに五メートルという中途半端な距離を保っている司に訊ねた。しかし、その質問に司は黙り込み、口を開こうとしない。
「そのことについては、私が説明しますよ」
隣に立っていたなっちゃんが、俺が抱いているクロを撫でながら言った。
「実はですね、ツン君はネコが苦手なのを克服するための特訓中なんですよ。その話をさっきそのブランコで聞いていたわけです。要は相談を持ちかけられたんです」
「相談?」
「恋の相談です。その相手というのが、大の猫好きなんですよ。だから猫への苦手意識を克服して、その人と距離を縮めたいらしいんです」
「あ、なっちゃん先輩! 言わないって約束したじゃないですか!」
「相手までは言ってないから大丈夫」
「はあ……まあ、いいんですけどね」
司は大きく溜息を吐き、それからまたしてもクロの事をジッと見つめ始める。猫が苦手というのも本当らしい。
「まあ大体事情は分かった。司のこの微妙な距離は俺がクロを抱いているからってわけだ」
無言で司は頷き、なっちゃんもクロを撫でたまま首を縦に振る。
「とりあえず、ツン君から話を聞いて思ったんですが、無理せず少しずつ猫に慣れていくべきだと思うんです。そこであの、武さん。ちょっといいですか?」
俺の着ている服を掴み、俺はなっちゃんに公園の出口の方へと連れてこられた。司とは大分距離が開いてしまったが……。
「ここまで来れば大丈夫ですね。私、ツン君には借りがありまして、その借りを返したいと思ってます。そこでクロさん。ちょっとお願いがあるんですけど、あそこにいるツン君が猫が苦手なのを少しでも克服出来るように、協力してください。さっきのことは、それでチャラにしましょう」
「……計算高いな、娘」
「私だって、出来れば大好きなクロさんに交換条件を出すようなまねはしたくなかったんですが、このことについてはクロさんに頼むしかないんです。私も借りを、というよりも助けたもらった恩を返したいですし……そうだ! さっきのことについては無条件でチャラにします。その代わり、お願いを聞いてくれたらとっておきのプレゼントをします。これも交換条件に変わりないですが、どうですか?」
「その前に、私は何をすればいいんだ?」
「簡単なことです。ただツン君と散歩をしてもらうだけですから」
「そうか。とっておきのプレゼントとは何だ?」
「それはお楽しみってことで、どうですか?」
「……いいだろう」
「ありがとうございます。それじゃあ」
なっちゃんが司に手招きをする。司は小走りで俺たちのいる場所へとやってきた。
「それじゃあ、ツン君。今からクロさんと散歩してもらうね」
「……散歩?」
「そう、散歩。川原をブラブラと」
「……なっちゃん先輩と、武も一緒に?」
「私と武さんは橋で待機してるから、クロさんとだけ。大丈夫。クロさんは人に危害を加えたりする猫じゃないし、人の言うことを聞く利口な猫だから」
一瞬、クロとなっちゃんの目が合う。アイコンタクトとは、クロとなっちゃんも随分と仲良くなったもんだ。
「……分かった。やってみる! これも、恵さんのためだ! って何名前を言っているんだ僕はぁぁ!」
グーに固めた両拳がパーに変わり、司の頭を覆った。
同じ馬鹿として、好感の持てる馬鹿だった。
「と、いうわけで川原までやってきたわけですが、ツン君。とりあえず、ここから向こうに見える橋まで適当に散歩してきて。クロさんはツン君の横をついていくから、道中、できる限りクロさんとスキンシップできるよう努力するように」
三人と一匹で連れたち川原にある橋の上までやってくると、なっちゃんは司にあれやこれやと指示を始めた。時は既に夕刻。これから、司は川原の周辺をクロと散歩することになるのだが、司は緊張しているのか、肩に力が入り無言だし、クロはクロでなんとなくめんどくさそうだった。
目的は司がクロと散歩をして少しでも猫の苦手なのを克服できるようにすることなのだが、司の様子を見る限りあまり期待できそうにはない。というかそもそも、猫が苦手なのを克服する必要があるのか疑問だ。それよりも、少しでもその恵さんって人と接する事が重要だと思うんだが。
「待ってくれ。この黒猫は、ちゃんと僕の横をついてくるのか?」
「そこは心配しなくていいよ。さっきも言ったけど、クロさんは利口だから。触っても、絶対に引っ掻いたりしないし。てかね、ツン君。触っちゃえばこっちのもんだと思うんだよ」
「……触る? それは……難しいな」
「恵さんの理想の男性に近づくためにも、ツン君、ここは挑戦すべきだよ」
「……そ、そうだな……が、頑張ってみよう……よし……よし! 行くぞ!」
なんていうか、司は見ていて本当に好感の持てる男だった。惚れた女性のために努力する姿は見ていて微笑ましい。
微かな笑みを浮かべつつ、歩き出した司とクロを見送る。司の斜め後ろをクロが付いていく形だった。
橋の上から河道へと出て、そのまま道なりに向こうに見える橋までゆっくりと進んでいく司とクロを目で追いつつ、俺は橋の柵に両腕を乗せた。
なっちゃんが俺の横に並ぶ。多分、なっちゃんも司とクロの見ているのだろうと、視線をなっちゃんに移すと、なっちゃんは何故か俺を睨んでいた。
「目付き悪!」
「私の目付きが悪いのは、武さんのせいなんですけど」
「え? 俺のせい?」
「はい。覗いていた上に、変な期待と誤解をするなんて、酷いじゃないですか」
どうやら、公園での事を根に持っているらしい。覗いていたのも、変な誤解と期待をしていたのも事実なので、ここは素直に謝るしかない。まだ誤ってなかったし。
「ごめん。悪かったよ」
「武さん。どうやら私は計算高い女らしいんですよ」
「……はあ」
「隣町に、美味しいケーキ屋さんがあったりするんですが」
馬鹿な俺でも、なっちゃんが何を言いたいのか理解できた。
「……今度ね」
「武さん、愛してます」
「はいはい」
機嫌が直ったのかなっちゃんは笑顔になった……隣町のケーキによって。
「まあ、ケーキぐらいなら……ん?」
いつのまにか、司とクロは橋のすぐ近くまで行っていた。司とクロの距離を見る限り結局司はクロに触ることが出来なかったのだろう。しかし……。
「……あれ、誰でしょうね?」
俺が不思議に思ったことを、なっちゃんが口にしてくれた。微妙な距離を保っている司とクロの前に、誰かが向かい合う形で立っている。遠いので顔はよく分からないが、黒いロングの髪を見る限り、女性であることがわかる。司と黒髪の女性は何かを話しているようだ。
司がこちらに振り返り、指差すような動作をする。司と黒髪の女性二人の視線を感じた。
「ツン君の知り合いですかね?」
「さあ……お、おお!」
一体何があったのか、司がクロを抱き上げた。猫に近づくことさえ躊躇していたあの司が。
その後、女性は腕を組み、クロを抱く司達に背を向け橋の向こうへと歩き出す。十歩程歩いたところで振り返り、そしてまた歩みを再開して遠くへと消えていった。
「……凄い! ツン君がクロさんのことを抱き上げましたよ! あ、こっちに走ってくる」
司がクロを抱き上げたまま、もの凄い勢いでこっちに向かって走ってくる。多分、猫に触れることが出来たことに興奮しているんだろう。
「み、みみみ、見てくれ! ほら! さ、触れた! 僕、猫に触れたぞ!」
「やったねツン君! 凄い!」
「は、はは、あはははは!」
橋まで戻ってきたツン君は、クロを抱いたまま嬉しそうに笑い始めた。司に抱かれているクロはなんだか迷惑そうだと感じた。
「二階堂の挑発にはイラっとしたけど、やった! こ、これで、恵さんの理想の男性に一歩近づいた!」
二階堂とは、先ほどの女性の事だろうか。どうやら知り合いだったらしい。
「……あ」
「……ん?」
大声で喜ぶ司。そんな司を見て、何故か動きを止めるなっちゃん。なっちゃんの様子が気になり視線を追うと、喜ぶ司の背後に、買い物帰りだろうか、ビニール袋を持ったまま、ぽかーんと口をあけて立っている女性の姿があった。
その女性の顔には見覚えがある。駅前の喫茶店でオーナーをしているふわさんという人だ。なっちゃんもふわさんも何故動きを止めているのか分からなかったが、とりあえず挨拶をすることにした。
「確か、ふわさんでしたっけ。こんばんは」
「……武さん、でしたよね。こ、こんばんは」
「……え?」
司が笑顔のまま振り返る。そして何故か司も硬直した。司の腕からクロが飛び降り、俺の足下へとやってくる。なんだか、俺とクロ以外の三人の時間が止まっているように感じた。
「……あー、三人とも、どうかした?」
俺の問いかけに、三者無言。理由は分からないが、気まずい雰囲気が流れる。三人の間に形成されたその雰囲気の中、最初に声を上げたのは、髪がふわふわのふわさんだった。
「えっと……今来たところなのよ。私、何も聞いてないから……あ! そ、そうだ! もうすぐブランのご飯の時間ね。急いで帰らないと……えーと、なっちゃんと武さんと……司君もそれじゃ!」
慌てた素振りで駆けていくふわさんの行動に何故慌てているのだろうと疑問を持ちつつ、なっちゃんを見ると、なっちゃんは苦笑いをしていた。
「……どんまい。ツン君」
司の肩を、なっちゃんが軽く叩く。先ほどまで笑顔だった司の顔が不気味な笑みで硬直し、そして司はその表情のまま前のめりに倒れるのだった。
「それにしても、あの司とか言う男、今日は災難だったな」
いつもの定位置である本棚の上に陣取り、クロは言った。
「まあ、人生色々あるさ」
あの後、俺は復帰……と言えるかどうかは分からないが、とりあえず立ち上がった司と別れ、なっちゃんを八百屋の前まで送り、クロとアパートに戻ってきた。
なっちゃんを送る際に聞いた話によると、司の好きな恵さんというのは、どうやらふわさんの事だったらしい。要は、司は理想の男に近づいたと声を大にして言った台詞を、好きな人本人に聞かれたという事だ。倒れたくなる気持ちもよく分かる。
司はあの後、ふらふらしながら、ぶつぶつと独り言を言って帰っていった。事故とかにあわなければいいが……心配だ。
「あの男と歩いていて思ったのだが、お前とあの男は相性がいいと思うぞ」
「……なんでそう思う」
「ふん。言わなければ分からぬか?」
「よし、クロ、降りて来い。可愛がってやる」
「ふん。誰が降りるか」
クロといつものやり取りをしつつ、クロを睨んでいると、その黒い毛並みを見たせいか、ふとあの黒髪の女性の事を思い出した。
「そういえば、河道で司が黒髪の女性と話してただろ? あれ、誰だ?」
「……さあ、知らんよあの男の知り合いのようだったが」
「……ん?」
不思議だった。長い付き合いだから分かってしまう。クロはいま、嘘を吐いた。
「なんか話してただろ? どんな話をしてたんだ」
「さあ、私はやりたくもない事に付き合わされて正直退屈だったからな。あの二人の会話に興味もなかったし、よく聞いていなかった」
まただ。またクロは嘘を吐いている。クロは司とあの女性の会話の内容をちゃんと聞いた筈だ。それを俺に隠す理由とは一体なんだろう。
「さて、私は疲れたから寝るぞ」
そういって、クロはいつもの定位置で眠りはじめた。
俺はなんだか釈然としなかった。