第四話
なっちゃんとの一連の騒動があってから数日が経ったある日の夕方頃、大学の帰りにコンビニでもらってきたアルバイト情報誌を読みながら、俺は今までに何度も湧き上がってきた疑問について考えていた。
それは勿論クロについてだ。人の言葉を喋る猫という存在について考える事は多くある。
クロとの出会いは今でもよく覚えている。お腹をすかせ、鳴きながらアパートの近くをうろついていた黒猫に、俺がついつい餌をやった事からはじまった。
黒猫は何度も俺の所へ餌を強請りに来るようになり、そしていつのまにかいついていた。俺の部屋を寝床として一週間くらいだろうか。人の言葉を話始めたときには驚いたものだ。
勿論、クロに対して色々な質問をぶつけたことは多々ある。だが、クロは自身のこと、特に過去については語らないのだ。
一体、クロはなんなのだろう。その疑問に馬鹿な俺が答えを導き出せる筈がなかった。
「……ふう」
一つため息を吐いて、俺は部屋の換気でもしようかと椅子から立ち上がり窓へ視線を向ける。
「ん?」
一瞬、視界の端に何か黒い影を見たような気がしたのだが、気のせいだろうか。
そんな疑問は、窓の外に見える夕焼け空を見てどうでもよくなった。俺は歩み寄った窓を開け放つ。
今日の夕焼けは、いつもより濃度が高いような気がした。つい、感嘆の息が漏れてしまう程に。
「……綺麗だな」
「私がですか?」
「うわあああああ!」
夕焼け空を見ていた俺の目前に、まるで地面から生えたかのように誰かが現れた。俺はそれに驚いて窓から飛び去り、部屋の中で尻餅をつく。
「いや、驚かすつもりはなかったんですよ。ただ、窓をノックしようかと思っていたら急に武さんが椅子から立ち上がってこっちを見たので、条件反射で地面に伏せてしまったんです。何してるんでしょうね、私」
窓の外に土で前の方が汚れている学生服を着たなっちゃんが立っていた。
「ああ……お母さんに怒られる」
俺は制服の汚れを叩き出すなっちゃんに視線を向けたまま立ち上がると、小さく咳払いをしてから話しかけた。
「入るときは玄関から……」
「クロさーん!」
来るようにと言おうとしたのだが、聞いちゃいない。なっちゃんは靴を脱いで窓から部屋へと侵入し、本棚の上にいるクロの元へと駆けた。
あの日、なっちゃんにクロが人の言葉を話すとバレてしまった日から、なっちゃんはこうやって俺の住むアパートの部屋にやってくるようになった。
正直、年下の女の子を部屋に入れるのは多少なりとも抵抗があるのだが入れないとクロを拉致しかねないので仕方ない。
下心があるわけでもないし、まあいいだろう。俺、年上の女性がタイプだし……って何を考えているんだ。
「猫さん。今日もなっちゃんがやってきましたよ。さあ、この胸に飛び込んで来てください……小さいですけど」
両手を広げ、笑いながらクロを呼ぶなっちゃんにクロは素っ気無く言う。
「すまんな娘。少し静かにしていてはくれないか」
「……え?」
そんな一人と一匹のやり取りを聞きながら、俺は窓を閉め(なっちゃんが来たら必然的に部屋の中が騒がしくなるだろうから)椅子へと腰掛ける。
それから少しして、なっちゃんは肩を落としながらとぼとぼと俺のへとやってきた。
「あの、武さん。クロさんどうかしたんですか? なんかいつもと様子が違うんですけど」
「いや、単純に今日はじゃれる気分じゃないんだろう。あいつも猫らしく気まぐれだから、あまりちょっかい出さない方がいい」
「……そうなんですか。はあ、残念です。今日はクロさんに訊きたい事があったんですけど」
「訊きたい事?」
「はい……別にクロさんじゃなくて、武さんでもいいんですけど」
「何? 分かることだったら答えるけど」
「そうですか。実はですね……」
「ん?」
言葉の途中で何故かなっちゃんは俺から離れると、床に正座をした。そして目の前の床をぽんぽん叩く。
「武さん。ここに座ってください。話をするときは、ちゃんと向かいあって話すべきです」
俺は「はいはい」と返事をしながら椅子から立ち上がり、なっちゃんに向かい合って正座した。そのまま何故か見つめあうこと数秒、なっちゃんは右の手のひらを頬にあて、照れたようにして言った。
「あの、ご趣味は……」
「お見合いか!」
「ふふ……今の一言で、武さんはツッコミキャラとして定着してしまいましたね」
「前から思ってたけど、変な子だよね、なっちゃんって」
「よく言われます」
よく言われるということは何処でもこの性格で通っているということだ。 一緒にいて面白いと考えるべきか一緒にいて疲れると考えるべきか悩む。
「まあ冗談はそれくらいにしておいて、本題に入りましょう」
「ああ、うん」
今更だが、何故正座なのか凄く気になった。だがそれを訊く前に、なっちゃんは話し始めてしまう。
「実はですね、昨日寝たのが十二時なんですよ。いつもは八時三十二分に寝るんですけど」
「はやっ! しかもなんか中途半端!」
「よく言われます。それでですね、何故昨日に限って寝るのが十二時になったかってことなんですが、クロさんのことでずっと考え事をしていたからなんです。ほんと今更なんですけどね、なんでクロさんは人の言葉を話せるのかなって」
なっちゃんもその疑問に行き着いたらしい。その答えを俺は持っていないので、首を横に振るしかなかった。
「え? 分からないんですか? クロさんと一緒にいるのに?」
「ああ、俺もクロについては色々考えて、質問もしたよ。でもあいつは自分のことを何も語らないからね」
「……なるほどー。クロさん自身が教えてくれないんだったら、打つ手なしですね……想像くらいしか出来ないです」
「想像?」
「はい。例えば、こういうのはどうでしょう。実はクロさんは魔法使いで猫に変身しているとか」
なっちゃんが真顔でファンタジーなことを言い出した。もしかして、昨日眠れなかったのはそんなことを延々と考えていたからではないだろうか。
渦中の猫はスヤスヤと眠りについていた。
「他にも妖怪だとか、実はクロさんが喋っているんじゃなくて、私と武さんに動物の言葉を理解する力があるとか、そんなことを考えたわけなんですが全部ただの妄想なので、あまり気にしないでください」
なんとも想像力が豊かな子である。長いことクロと一緒にいるが、そんなこと俺は考えもしなかった。
「まあでも、どうでもいいか。私のクロさんへの愛は変わらないでしょうしね」
優しい瞳でそっぽを向いているクロを見上げるなっちゃん。
口には出さないが、俺も彼女と同じ気持ちだ。
クロの過去に何があったとしても、クロから離れるつもりはない。例えクロが魔法使いでも妖怪でも何であろうとも。
というか、そろそろ足が痺れてきた。正座していた足を崩すと、ぴりぴりとした感覚が足に広がり、俺は顔を顰めた。
「お、待ってました! タッチ」
「ぎゃ! ちょっと、やめろ」
なんて事をするのだろうか。なっちゃんは面白そうに痺れた俺の足を突いてくる。
「ほれ」
「ぎゃあ!」
「仕方ないんです。押すなと書かれたスイッチを押したくなる原理。これはそれと同じです」
「やめろっつーの」
ふと、黒猫の姿を確認する。
クロは煩いなと言いたげに、長い尻尾をゆっくりと左右に揺らしていた。