第三話
秘密にしていたことがバレたときに取る行動というのは、人によって様々だろう。
勝手に人の住むアパートの部屋に入ってきて、猫が喋ったと言ってきた女の子(確かなっちゃんと言ったか)に対し俺が取った行動はと言うと、慌てて誤魔化すというものだった。
「今のは、ほら、あれだよ……えっと、一人二役……暇だったんだ」
「へえ……もう一度やってみてくださいよ」
「……武! お前は馬鹿か!」
クロの声を真似る。と言っても、クロはメスで声は高いので裏声になってしまったのだけど、似ているだろうか。
「さっきの声とは全然違いますね、もっと高い声でしたけど」
どうやら似ていなかったらしい。気を取り直して。
「タケル! あなたは馬鹿なの!」
ヒステリック気味になってしまった。
「なんですかそのヒステリーを起こした女性のような声は。もういいです。猫さん本人に聞きますから」
なっちゃんは俺から興味を無くしたかのようにクロへと視線を移すと、何故かその場に四つんばいになってクロと向かい合った。
俺はなっちゃんの行動に首を傾ける。何をするつもりなのだろうか……と思ったら、なっちゃんはそのままクロに近づき猫の鳴き真似をした。
「にゃーん」
馬鹿だ。この子馬鹿だ。俺が言うのもなんだけど、この子馬鹿だ。きっとクロもこう思っているに違いない。こいつ馬鹿だと。
「にゃにゃにゃ、にゃにゃにゃにゃっにゃにゃにゃ?」
にゃにゃにゃにゃ言っているだけなのに、何て言っているのか分かってしまった。多分『猫さん、今喋ったよね?」と言ったのだと思う。
「あのさ、君なんで猫っぽく話すの?」
「……そういえば、さっきあなたとこの猫さん、普通に人の言葉で話していましたもんね。猫語で話す必要なかったですよね」
「うん……ん?」
何かミスをしてしまったような気がして、眉を顰める。自分のミスにはすぐに気が付くことが出来た。目の前にいるなっちゃんのおかげで。
「ふ、ふふふ。引っかかりましたね! 今あなた、自分で認めました。猫さんが人の言葉を喋っていたって認めました!」
しまったと口を抑える。その行動も決定的な証拠になってしまった。どうやら彼女の行動は、全て計算してのことだったらしい。馬鹿はやはり俺だけだったようだ。
「もういいんじゃないですか、猫さん。全部分かっちゃいましたから、私とも喋ってください」
「……」
「猫さんが喋るまで私、帰りませんよ」
「……」
クロは無言に徹する。もう既にバレてしまっているのだし、喋ってしまってもいいのではないかとも思うのだが、クロは喋る気がないようだ。
「ずるいです……ずるいですよ! なんでこの男の人の前では喋っていたのに、私には喋ってくれないんですか!」
「……」
「……そうですか、分かりました。なら私にも考えがあります」
そう言って、なっちゃんはスクリと立ち上がると窓から外に出て行った。
「すぐに戻ってきますから」
なっちゃんが何処かへと駆けて行く。一体何処へ行ったのか、検討もつかない。
先ほどの失敗を思い出してか、なっちゃんの姿がなくなっても俺とクロは話すことが出来なかった。話しはじめた瞬間、またあの女の子が突然に部屋に入ってくるのではないかと思って。
そのまま沈黙の時が流れる。クロは行儀よく猫座りしたまま動かない。何を考えているのか分からなかった。それから何分経ったか、窓が叩かれたかと思うと先ほどの女の子が窓を開いてまた部屋に入ってきた。
何故か左手を後ろ手に隠している。どうでもいいが、無遠慮である。
「あ、そういえば、先ほどは言い忘れてましたけどお邪魔します。それと、私のことはなっちゃんって呼んでくれて結構です。まあそんなことよりも、ここに取り出したるは……」
なっちゃんが後ろ手に隠していた物を俺達に見せた。何かと目を凝らすと彼女の手に握られていたのは猫缶だった。それも、近所のスーパーに売っている一番高級なやつだった。
どうやらなっちゃんの考えというのは、餌付けだったらしい。ちなみになっちゃんが持っている猫缶は高いので、クロに買ってあげたのは数える程しかない。
まあでも、クロは餌に釣られるようなやつではないだろう。
「娘、苦しゅうないぞ。その猫缶を私に馳走しろ」
「あっ! 喋った! わーい! 猫さんが喋った!」
「喋るのかよ!」
俺のツッコミも空しく、なっちゃんは嬉しそうに両手を挙げて万歳していた。
「武、お前もこの娘を見習ったらどうだ。何かを頼むときは、貢物を用意する。これが常識だ」
「はは~。私もそう思いまして、このようなものを用意しました。ささ、私が蓋を開けますので、存分に召し上がりくださいませ」
「ふむ。娘、中々見所があるな。お前のような奴は嫌いではない」
「はっ!、なんと私にはもったいなきお言葉でございます!」
なんとなくこの一人と一匹のやり取りがむかついたので、俺は無言で近づくと、猫缶を取り上げた。
「なっ、武! なにをする!」
「ちょっと、何するんですか! 返してください!」
「うるさい! 黙れ! クロ、お前さっき猫缶食べたばっかしだろ! 太るからこれはお預けだ」
「なんだと! くっ……おい娘、あの猫缶を取り返すんだ!」
「え? あっ、はい! とりゃー!」
なっちゃんが猫缶を取り替えそうと突進してきたので、俺は手に持っていた猫缶を奪われまいと頭上に掲げた。なっちゃんはそのまま俺の体にぶつかってくる。一応弁明しておくと、俺はただ頭上に猫缶を掲げただけで、何もやましいことなど考えていなかった。だから、ぶつかってきたなっちゃんの胸がたまたま俺の肘に当たってしまったとしても、俺にはなんの罪もない筈だ。
「いま、胸触りましたよね……エッチヘンタイ。ひどいです、もうお嫁に行けません」
顔を両手で覆い、そのままへたり込むなっちゃん。俺は何も悪くない筈なのに、何故こんなにも気まずいのだろう。
仕方ないのだ。こういう場合、たとえ男に罪はなくともあやまらなければならないのが今の世の常だ。
「あの、ごめん、わざとじゃ……」
「スキあり!」
俺の手から猫缶が消える。嘘泣きとかもう、ほんとやめてほしい。本当かどうか分からないから。
「猫さん! 言われたとおり、猫缶を奪い返しました!」
「お、おお。やるな、娘」
このとき俺は思った。さっきからこの子に騙されてばっかじゃないかと。
「はあ……もういいよ。好きにしろよ」
「だそうです。では猫さん。存分に食してください」
クロの前に正座し、嬉しそうに笑いながら話すなっちゃんを見て、俺はもうなんだかどうでもよくなってきた。
猫が喋っているのに、なんでこの子は平然としているんだとか、そんな疑問が頭を過ぎる。
まあ、俺も人の事は言えないのだけど。
俺は椅子に腰掛け、美味しそうに猫缶を食べるクロと、それを楽しそうに見つめるなっちゃんを観察した。
クロが猫缶を食べ終わるのを確認し、俺は机の上にある置き時計へと視線を向けた。時刻はもう午後七時過ぎ。さすがにこの時間まで年下の女の子を親の許可なく置いておくのは色々とまずいのではないかと思い、そろそろ帰るようなっちゃんに伝えた。
「もうこんな時間だし、そろそろ帰ったほうがいいぞ」
「嫌です」
即効で拒否される。まるで遊園地に行って、帰りたくないと駄々をこねる子供のように感じた。だが、そこをどうにかして帰すのが大人の務めだ。
「あのな、気持ちは分かる。きみ楽しそうだし、クロと離れたくないのも分かるけど、ずっとこの部屋にいるわけにもいかないだろ?」
「ん? な、なんだ」
なっちゃんが無言でクロを抱きしめクロは困惑の声を上げた。
本当に気持ちはよく分かる。何故なら、俺もクロと初めて会話をした時は驚きよりもドキドキとした胸の高鳴りの方が強くて、奇跡的に出会うことが出来た喋る猫と離れろだなんて言われたら、きっと俺だって嫌だと言ったに違いないからだ。
「えっとさ、なっちゃん。君って八百屋のおばちゃんの娘なんだろ? だったら、すぐ近所だし良かったらまた遊びに来ればいい。そうじゃなくても、クロはよく商店街を散歩してるし、クロとはいつでも会うことが出来る」
気が付くとそんなことを言っていた。俺の言葉に、なっちゃんは俯かせていた顔を上げ、静かに問いかけてきた。
「遊びにきてもいいんですか?」
「まあ、クロと話したいって気持ちは分かるし、クロも……いいよな?」
一応クロにも確認を取る。こいつも嫌だとは言わないだろう。
「構わんよ。娘、もちろんお前が遊びに来るときは、期待してもいいのだろ?」
猫缶のことを言っているのだろう。こういうところには抜け目のないやつなのだ。
「……あはは! それはもちろん、猫さんと話せるのなら、猫缶の一つや二つ」
「いや、いいから。そんなの持ってこなくても。とりあえず、今日のところはもう帰りな。おばちゃんが心配してるかもしれないし」
「分かりました……名残惜しいですけど、今日のところは帰ります」
なっちゃんは立ち上がり、窓に手を掛けた。そのまま来た時と同じようにして外へ出た。
「一応言っておくけど、今日みたいに無許可で入るのは無し。あと、来るならちゃんと玄関から入るように」
「いや、あのときは無我夢中でして……すいませんでした」
俺から目を逸らして謝ると、なっちゃんの姿が視界から消える。靴を履くために屈んだのだろう。そしてすぐになっちゃんの姿がまた出現し、彼女はクロへと視線を向けた。
「なんかいま、凄くドキドキしてます。今日は眠れそうにないです」
「……ちゃんと寝ろ。次に会ったとき、お前の目の下にクマが出来ていたら、笑ってやるからな」
「分かりました!」
「あと、俺からも一つ。クロが喋ることは他の人には秘密だ」
「分かりました! 三人、いえ、二人と一匹だけの秘密ですね!」
そう言って、なっちゃんは本当に楽しそうに笑った。俺もクロと出会った時にこんな顔をしていたのだろうか。こんな輝くような、見ているこっちまで楽しくなってくるような笑顔を。
「それじゃあ、帰ります! 絶対にまた遊びに来ますから! 猫さん、待っていてくださいね! あと、そっちの人も!」
どうやら俺はおまけらしかった。まあ、いいけど。
別れの挨拶をしてから、なっちゃんは去っていった。
窓を閉め、ちゃんと施錠してからクロに声を掛ける。
「はあ……ばれちゃったな」
「そうだな。でもまあ、ばれたのがあの娘で良かったと思うよ」
「なんだ? 初対面だっていうのに、もう懐いたのか? やはり猫缶が効いたか」
「まあ、それもあるがな……」
見ればクロの尻尾はゆっくりと左右に揺れていた。本で見た事がある。猫の機嫌がいい時、尻尾はそういう動作を見せるのだ。
クロと同じで、俺も機嫌がよかった。喋る猫の存在を知り、ああやって喜んでくれる人間がこの世界にどれ程いるのだろうか。
言わばクロは、人の常識を覆す存在だ。常識の範囲を超える存在を知った時、人間の取る行為が全て好意的なモノとは限らない。俺やなっちゃんのように、非現実的な出会いに喜ぶ人間もいるだろうが、全ての人間がそうとは限らないのだ。利用するもの、迫害しようとするものがいても何ら不思議ではない。
それを理解しているからこそ、クロはなっちゃんに喋る猫という特異な存在を認められた事が、素直に嬉しいのだろう。
そして、それは俺も同じ気持ちだった。