第二話
食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋と言うが俺にとってはグータラの秋だった。どうやらそれはいつも偉そうなクロにとっても同じようだ。
「武。腹が減ったぞ。用意しろ」
本棚の上から偉そうなクロの声が聞こえる。俺はその声を無視し、ベッドの上に寝転がった。
開けた窓から入ってくる秋の風が、さわさわと髪を撫でてくれて気持ちいい。
「おい。聞いているのか? 武。私は腹が減ったのだ。私が空腹を訴えたらお前の取る行動は一つしかない。決してベッドの上に寝転がることではないのだ。まさか武、お前はわざわざ口で説明しないと動けないほどの馬鹿なのか? だとしたら、お前の馬鹿さ加減は近所の公園でよく会うブチにも劣るぞ。ちなみに、ブチとは野良猫だ。いいのか? お前は野良猫にも劣るほどの馬鹿ということになるのだぞ? いや、すまない。私がいる以上、お前はもう猫にも劣る馬鹿だったな」
この猫は、いつもこんな感じだ。餌を与えてやっているのは俺だ。言わば俺は奴の御主人様と言っても過言ではない。だというのに、クロは俺を敬った事など一度もない。
むしろ俺の事を自分より下等な存在だと思っているのではないだろうか。
俺がいなければ餌の一つも用意出来ない癖に。
ふと俺は今のクロの言葉に対して、とてもいい切り替えしを思いついた。涼しいせいもあってか今日は冴えているのかもしれない。
「クロよ、認めよう。俺はお前より馬鹿だ」
「な、なんだと?」
認めたのが予想外だったのかクロの驚いたような声が聞こえた。俺はその声を聞き、ほくそ笑んで続ける。
「そうだ。俺よりお前のほうが遥かに利口だよ。だからな、クロ。お前だったら飯の用意くらい一人で出来るんじゃないか? 俺に出来ることがお前に出来ないはずがない。なにせお前は、俺より利口な猫なんだからな」
「……ほう。そうか。お前は私のこのふにふにとした前足で、ネコ缶を開けたり、ミルクを人肌に温めたりしろと言うのだな?」
「ははは! 出来ないか。そうだよな。お前は猫だもんな。悪い悪い。あまりにお前が利口なんで、ついつい猫だということを忘れていたよ。いや~悪いことをしたな。仕方ない。人間である俺が! 猫であるお前のために! 今から餌を用意してやろうじゃないか! ははは!」
俺には出来て、お前には出来ないという事を思い切り強調してやった。中々に気分がいい。いつも馬鹿だの馬鹿だの馬鹿だの言われている仕返しだ。
「……待て、武」
起き上がり、棚に用意してあったネコ缶を開けようとしたところで、クロから静止の声が掛かった。俺は本棚の上へと視線を向ける。
「賭けをしないか?」
「賭け?」
「そうだ。私がお前の力を借りず、そのネコ缶の中身を食べることが出来たら私の勝ちだ」
「いや、無理だろ。肉球ぷにぷになお前の前足じゃ、これを開けることなんて出来ない」
「いいから。どうだ? やるか? それとも逃げるか?」
逃げるという言葉に、俺は少しカチンと来た。
「勝負に乗ってやる。制限時間を決めようじゃないか。時間は三十分。どうだ?」
「ふ、ふふふ。いいだろう。三十分以内に、そのネコ缶の中身を私が食せば私の勝ち、食せなければお前の勝ちだ。買ったほうが負けたほうの言うことを何でも聞く。いいな?」
「な、なんでも?」
「なんだ。怖気づいたのか?」
「そんなわけないだろ。それじゃあ……よし、今から開始だ。さて、どう開けるのか見せてもらおうじゃないか」
クロの自信満々な様子が気にかかるが、大丈夫だろう。プルタブ式とは言え、ネコ缶の蓋は硬い。どう頑張ったって、クロのあの肉球プニプニな前足で開けられる筈がない。
「ふっ……武、私はお前の将来が心配だよ。こういう勝負事では、よくルールを確認するのが鉄則だというのに、お前はまんまと私の策にかかった」
「なに? なっ!」
言葉が終わると同時に、クロはネコ缶を口に咥えて、開け放たれていた窓から外に飛び出した。
「え? まさか!」
ここに至って、俺はようやくクロの考えを理解した。あいつ、外にいる誰かにネコ缶を開けてもらうつもりだ!
俺は急いで玄関の前から靴を持ってきて、それを窓の外に放る。窓から外に飛び出し、放った靴を履いてクロの後を追いかけた。
クロの姿は既に見失っていた。さすがは猫、俊敏だ。商店街の方向へと走って行った筈なのだが。
「くそ、見失った。何処だ?」
俺は辺りを見回しながら、商店街の中を小走りしていた。一度見失ってしまったら見つけるのは難しいかもしれない。あいつは猫。狭い小道も何のそのだ。
「おや。武ちゃん! どうしたんだい! そんなに慌てて!」
八百屋のおばちゃんに声をかけられ、俺は立ち止まった。よく利用する八百屋だ。たまに値段を負けてくれるので、とても助かっている。
折角だから、黒猫を見なかったか訊いてみることにした。俺は溌剌とした笑顔のおばちゃんに歩み寄る。
「おばちゃん。黒猫見なかった?」
「ああ! さっきなっちゃんが抱いていたのを見たよ」
「なっちゃん?」
「私の娘さ。川原の方へ歩いていったよ」
「そうですか。ありがとう! おばちゃん!」
「なっちゃんと仲良くしてやってね!」
俺はおばさんの声を背に、川原へと向かって猛ダッシュした。
そして川原へ到着した。見慣れた黒い猫と黒い髪をした女の子の姿を見つける。今まさにクロがネコ缶の中身に口を付けようと……。
「あっ! 空飛ぶ猫だ!」
俺は咄嗟に叫んでいた。
「ええー! 何処! 何処!」
俺の嘘に、女の子は空を見上げて視線を巡らせる。だがクロの方はまったく反応せず、ネコ缶の中身を食べ始めた。
俺はそれを見て、がくっとうな垂れる。クロの方を見る余裕はなかった。きっとあいつは憎たらしく笑っているに違いない。
「何処にもいない……ちょっと! そこの人! 空飛ぶ猫なんていないじゃないですか! 私の、もしかしたらこの世界には空飛ぶ猫もいるかもしれない、というファンタジックな期待を粉々に砕いてくれましたね! 酷いです! 聞いてます?」
うな垂れた俺の顔を覗き込むようにして、女の子が近づいてきた。よく見るとかなり可愛い女の子だった。この子があの八百屋のおばちゃんの一人娘であるなっちゃんだろうか。端整な顔立ちと艶やかな長い黒髪、そしてくりくりとした目が印象的だ。生命力に溢れているような雰囲気で、性格も明るそうな子だった。
「君がなっちゃん?」
「あ、はい。そうです。私がなっちゃんです。 ん? 何で私の事を……もしかしてアレですか。ストーカーってやつですか。キャーヘンタイ」
さすがは八百屋のおばちゃんの娘。テンションが高い。そして彼女が凄く変な子だというのも良く分かった。間違いない。
「はあ……帰ろう」
俺は一人で盛り上がっているなっちゃんの横を通り、クロの身体を抱き上げる。
「ふふふ。私の勝ちだな」
小さい声でクロが呟く。悔しくてつい歯軋りしてしまう。
「……いま」
いつのまにか静かになっていたなっちゃんが、ジッと俺の事を見つめていた。いや、正確には俺が抱いているクロの事を。
そして、次に驚くべき台詞を平然と言ってのけた。
「私、地獄耳なんですけど……いまその猫喋りませんでした?」
俺も、そしてクロも体を硬直させた。
地獄耳にも程があった。確かにクロは小声で喋りはしたが、決してなっちゃんの立つ位置に届く声量ではなかった。
さすがにここで『うん、喋ったよ』と言うわけにもいかない。俺は焦りを隠して言った。
「ソンナコトナイヨ。アハハ。ネコガシャベルワケナイジャン」
裏声、そして棒読みになってしまった。
自分でも自覚してしまいそうだ。俺は馬鹿だと。
「……そうですよね! 猫が喋るわけないですよね! すいません。私、何馬鹿なこと言ってるんでしょうね。そんなファンタジー、ある筈ないですよね! 空飛ぶ猫がいないように、人の言葉を喋る猫なんて、そんないる筈ないですもんね! あはは……引き止めちゃってごめんなさい」
「あ、ああ。うん。あはは……それじゃあ、俺は帰るよ」
俺は焦っていることが悟られないよう、わざとゆっくりその場を去った。
クロを抱いたままアパートへと戻る。そういえば戸締りをしていなかったが、泥棒に入られた様子もなかった。
そんなことよりも、今は先ほどのなっちゃんとのやり取りの事で頭が一杯だった。
「び、びっくりしたー」
あの女の子に喋ったと言われたときは心臓が止まるかと思った。
クロが人の言葉を喋ることは、おいそれと他者に知られる訳にはいかないのだ。噂が広まり、それを聞きつけてどこぞの学者やマスコミ、TV関係者等が押し寄せてきたらたまったものではない。今の平穏な日々が壊される事は、間違いないだろう。俺は馬鹿だが、それくらいの想像は出来る。
「ふう、私も驚いた。あの女はどれだけ地獄耳なのだ。普通、あの距離であの声では聞こえんぞ。だが、私のミスだ。人前で喋るべきではなかった」
「いや、あれはあの娘がおかしい。風だって吹いてたのに、あの距離で聞こえるのは……ほんと、どんだけだよ」
俺とクロは同時にため息を吐いた。正直、勝負がどうだとかそんなことは忘れてしまった。
「はあ。とりあえず、なんとか誤魔化せたみたいで良かったな。俺に感謝しろ」
「何を言う。声が裏返っていたではないか。正直、あの時ほどお前を馬鹿だと思ったことはなかったぞ。まったく、少しはああ言った状況でも冷静に……」
クロの言葉が急に止まった。なんでそこで止めるのかと不信に思った俺はクロに視線を向けた。クロは窓の外を見ていた。
そこに何かあるのかと思った瞬間、窓が音を立てて開いた。
窓枠を飛び越え、何者かが部屋へと侵入してくる。その何者かは俺とクロの間を遮るようにして綺麗に着地し、少し長い黒髪を揺らしながら抑揚なく言った。
「やっぱり喋ってるじゃないですか」