第一話
猫という生き物について、俺は一つの真理に辿り着いてしまったようだった。
まずあの姿。可愛い……とにかく可愛い。真ん丸の目、少し尖った耳、誘うように揺れる尻尾、ぷにぷにとした肉球。
そしてあの鳴き声。にゃーんっていう鳴き声。可愛い……凄く可愛い。
あの鳴き声を耳にしたが最後、人は高鳴る気持ちを抑えられなくなる。それは恋にも似た感情だ。
猫という生き物についての結論を言おう。
あれは人を魅了する為に生まれてきた存在だ。
そう、俺は魅了されてしまったのだ。
その結果、猫に懐かれ住んでいるアパートに居座られたとしても、それを無理やり追い出すなんてことは出来ないのだ。
例えそれが、人の言葉を喋る糞生意気な猫だったとしてもだ。
「お前は馬鹿か?」
六畳あるアパートの一部屋。今現在この部屋にいる人間は俺一人しかいない。手にはスーパーの袋をぶら下げている。ちなみに、キャベツとレタスを間違えて買ってきてしまった。
「もう一度聞く。お前は馬鹿か?」
俺は今、声を発していない。なら俺を馬鹿だというこの声の主は、一体何処にいるのか。
「何故キャベツとレタスを間違える? お前は馬鹿だ……あ、断言してしまった」
俺はスーパーの袋を静かに床へと降ろし、高い本棚の上に視線を向けた。そこを占領しているのは黒い猫だった。長い尻尾をユラユラと揺らし、金色の瞳でこちらを見下ろしている。
こいつの名前はクロ。何処にでもいる普通の黒猫かと思いきや、実はこの猫、ただの猫じゃない。
「なあ、クロよ。そんなにハッキリ言うことはないんじゃないか?」
俺は黒い猫、クロに声をかける。
周りから見れば変な人なのだろうが、俺にとっては全然変じゃない。何故なら、さっきから俺を馬鹿にするかのように声を発しているのは、この黒猫だからだ。
「ハッキリ言わなければお前は学習せんだろう? 猫である私でもキャベツとレタスの違いくらいは見分けられる。そう、お前が私以下の存在だということがいま証明されたのだ。さあ、私を敬え。そして毎日高級猫缶を馳走するがよい」
「よし、分かった! 高級な猫缶をやろう。そこから降りてこい」
俺は清らかに微笑みながら、クロに向かって手招きをする。
「やはりお前は馬鹿だな。そんな幼稚な手に引っかかる奴がいると思っているのか?」
「うがー! はあ……」
正直、怒る気力がなかった。いつもなら口喧嘩からの追いかけっこが始まる所なのだが、今日はショックな事があり、その気力が俺にはなかった。
「ん? どうした。いつもだったらギャーギャー喚きながら私を追いかけてくるというのに」
「今日はそんな気分じゃないんだ」
俺は気だるいのを片手を振る事でアピールする。そしてハンガーにかけてあったシャツに袖を通した。少し、外の空気を空いたい気分だった。
「何処かへ行くのか?」
「散歩だ」
玄関の前で靴を履きドアを開く。そんな俺の先へと回りこむようにして、クロが外へと躍り出た。
「私も付き合おう」
「……そうかい」
戸締りをしてから、俺はクロと共に近くの川原へと向かって歩き出した。
川原に寝そべる。秋の風が心地よかった。しかし、そんな涼しい風が哀愁を帯びているように感じるのは、俺の気分のせいだろう。
大学へ進学し、当たり前のように恋をした。講義でよく一緒になる、明るい笑顔の可愛い子だった。いつか気持ちを伝えようとしていたのだが、今日本人の口から彼氏にもらったプレゼントの話を聞いてしまった。小さな星型のネックレス。明るい彼女によく似合っていた。
「クロよ、俺は泣くぞ」
「やめろ、鬱陶しい」
クロは寝そべっている俺の胸板へと上り、俺の頬に顔を摺り寄せてきた。長い髭が少しくすぐったい。
「何があったか知らんが、元気を出せ。そのようなお前を見ているのは好きじゃない」
「失恋したときぐらい落ち込ませてくれ」
「ほお、失恋か。ふむ、なら一ついい事を教えてやろう。その女に失恋したのは良いことだ」
「何でだよ?」
「きっとその雌はとてもつまらない雌だ。多分、雄をたくさん囲っている。金に目が無くて、子供が嫌いで、お前以上に馬鹿な雌だ」
「いやお前、彼女に会ったことないだろ? なんでそこまで……もしかして俺を慰めようとしてるのか?」
クロは何も答えない。どうやら図星のようだった。こいつは口調も態度も生意気で、けれども心優しい黒猫だ。
「あはは! 優しいところもあるんだな!」
「うるさい! 黙れ! 笑うな!」
クロは俺の頬にペチペチと猫パンチしてきた。ちょっとだけ痛かった。
「悪い悪い。笑うのは失礼だよな。でもまあ少し元気が出たよ。ありがと」
「ふん、隣でウジウジとされると私の気が滅入るからな」
「帰ろうか。今日は少し高めの猫缶をご馳走してやる」
「おお。中々気前がいいじゃないか! それでは早速家に帰るとしよう」
俺はクロを連れて、アパートへと帰ることにした。
河川敷には、俺とクロの影が隣り合って長く伸びている。
濃い絵の具を落としたような茜色の空を見上げる。
失恋の悲しみはもう消えていた。