第四話
興味を向けていなかったのだから当然なのだけど、私は特別猫が好きというわけではなかった。
道端で野良猫を見つけたりすると、可愛いなとは思う。
でも、別にそれは犬やハムスターを見ても同じことで、特別猫を可愛いと思ったことはない。
そんな私だったけれど、最近ちょっと変わってきた。
拾った仔猫にミルクをあげたりしている内に、自分の中で猫に対する想いがどんどん強くなっていった。授業中、仔猫の事を考えてぼーっとして、それを先生に怒られてしまうくらいに。
そんな想いが募る時間を終え、早く仔猫に会いたくて私は今日も恵さんの家へと足早に向かった。
「睦月ちゃんが言ってたんだけど、君達、砂糖粒を運ぶらしいね」
門の前にこまちゃんが居て、また何かに話しかけている。多分、蟻の行列だろう。
「あ、もしかして今、何か期待した? 甘いなー、砂糖だけに」
蟻にそんなことを言うこまちゃんのことがとても心配になった。
「砂糖は砂糖でも、私が持ってきたのは……」
言いながら、こまちゃんはスカートのポケットを漁り、中から何かを取り出す。
「じゃーん、角砂糖。そしてこれを、どーん! 天空から角砂糖が降ってきたー! さあ、これを運んで! 私に奇跡を見せて!」
何だか一人で盛り上がっているこまちゃんに、私は背後から近づく。こまちゃんに一つ、蟻の重大な事実を教えてあげよう。
「あの、こまちゃん。蟻はね、角砂糖も普通に運ぶよ」
「……え?」
驚いたようにこまちゃんは振り向く。やっぱりこまちゃんは、蟻に角砂糖は運べるはずがないと思っていたようだ。
「え? 蟻ってそんなに力持ちなの?」
「ううん、みんなで協力して運ぶの」
私の言葉を聞いたこまちゃんは、ゆっくりと立ち上がり、何故か遠い目で青い空を見上げた。
「甘いのは、私のほうだったんだね……完敗だよ、蟻」
やっぱりこまちゃんは、ちょっと変な子だと思った。
「それじゃあ、行こうか」
蟻の行列を飛び越え、こまちゃんは門を通り、家へと歩いていく。私も角砂糖に群がる蟻を踏まないよう気をつけながら、後に続く。
「ただいまー」
「お邪魔します」
挨拶をしながら、こまちゃんが開けた扉が閉まらないよう手で押さえつつ、私は恵さんの家にお邪魔した。
はじめて来たときは緊張したものだけれど、もう何度か来ているので緊張はしていない。
でも、相変わらず気持ちは高鳴っていた。それは勿論、ここにいるのがとても楽しいからだ。
「こまー!」
声に反応し、私は視線を前に向ける。通路奥に、もう見慣れた灰猫グリと、白猫ブランの姿があった。またいつもの劇が繰り返されるのだろうかと私はこちらに向かって走ってくるグリを見続ける。
「お母さん! 蟻凄いよ! 蟻! 彼らは勇者だよ!」
しかし、私の予想は外れ、こまちゃんは走ってくるグリを華麗にスルーし、靴を脱ぎ捨てると、ドタバタと床を踏み鳴らし、居間の方へと駆けていった。
床を滑りながら、まだ玄関前で立ち尽くす私の目の前でグリは立ち止まる。グリは何だかとても悲しそうな瞳で、私を見上げた。
「よしよし」
何だか可愛そうだったので、私はグリの頭を撫でる。
「グリは騒々しい」
そんな言葉を残し、居間へと消えていったブランのせいで、私の行為はあまり意味を成さなかった。
「……ねえ、睦月ちゃん。私って騒々しい?」
「えっと、騒々しくない。グリは元気で、とってもいい子だよ」
「そ、そうだよね!」
「物は言いよう」
居間からブランの声が届く。その言葉のせいで、私の言葉はあまり意味を成さなかった。
「……ブランの馬鹿ー!」
物凄いスピードで、グリは通路奥へと走り、消えていった。
「こら、ブラン。グリを苛めちゃ駄目よ……睦月ちゃん、いらっしゃい。上がって」
そう言って居間から歩いてきたのは、制服姿の恵さんだった。
沙織さんと凄く似ているので、たまに見間違えてしまうけれど、最近は眼鏡を掛けているか、制服を着ているかどうかで判断しているので、呼び間違えることはない。
もしかして、こまちゃんも大きくなったら恵さんや沙織さんに似るのだろうか……。性格がこまちゃんで、見た目が恵さん……蟻相手に話しかける恵さん……想像できない。
「睦月ちゃん? どうしたの?」
「あ、何でもないです。お邪魔します」
頭に浮かんだどうでもいい考えを打ち消し、私はいつものように、靴を脱いで恵さんの家に上がり、私のと、ついでにこまちゃんの靴を揃える。それから恵さんの後を付いて、居間へと向かう。
居間にはテレビの前で丸くなっているブランと仔猫、そして何故か両足を抱えてうずくまっているこまちゃんの姿があった。
「……こまちゃん?」
「ああ、この子ね、慌てて走るからテーブルに脛をぶつけたのよ。こういう慌しい所、誰に似たのかしらね」
どうやら、こまちゃんはつくづく脛に縁があるらしい。脛に縁って変な言い方だけど。
「仔猫ね、今は眠ってるけど、さっきまで元気に駆け回ってたのよ。離乳するまでもうすぐね」
恵さんはテーブルの前にある座布団の上に座り、仔猫の現状について私に説明をした。
うずくまって動かないこまちゃんのことはとりあえず放置して、私はブランの横で眠る黒猫を確認する。
出会った時は弱々しく感じた黒猫も今ではすっかり元気になり、既に走り回る程になったのだ。私はそれが嬉しくてたまらない。
「離乳して大人になっていく過程で、人の言葉を話すようにもなると思うわ。ブランとグリもそうだったから」
「そうなんですか……凄く楽しみです」
眠る黒猫を横目に、こまちゃんを避けつつ恵さんの向かいに腰を下ろす。
本当に楽しみで仕方なかった。最初にどんな言葉を発するのだろうか、どんな風に話すのだろうか、どんな性格をしていて、どんな声をしているのだろうか、想像するだけでもわくわくする。
「あ、それでね、昨日お母さんと話していたことがあるのよ」
「何ですか?」
「その仔の名前。やっぱり、契約者である睦月ちゃんが決めるべきだと思うわ」
仔猫の名前、そう言えばまだ決めていなかった。
あの仔、その仔、仔猫などと呼ぶより、やっぱり名前を付けたほうがいいに決まっている。
でも、どうしよう。変な名前を付けたくないし、とても悩みどころだ。
黒猫の名前をどうしようかと考えていると、うずくまっていたこまちゃんがゆっくりと上体を起こした。
膝立ちのまま私の隣に正座する。正座をしたのは、多分まだ少し痛いからだろう。
「名前、アリがいいと思うよ。黒いから」
それは絶対に嫌だと思った。
「そんなの嫌だよ」
「え? 何で? 可愛いじゃん」
「だって、蟻じゃなくて猫だもん」
「えー、猫はないよー。そのままじゃーん」
「違う! 猫って名前にするってことじゃなくて!」
「こま……ちょっと黙りなさい」
恵さんはこまちゃんににっこりと笑いかける。いつもと同じ笑顔のはずなのに、何かが違うような気がした。
「……はい、お姉さま!」
驚いたことに、こまちゃんは本当に黙った。似たもの親子、私には優しいけど沙織さんと同じように恵さんも実は怖いのかもしれない。怒らせないようにしよう。
「それで、睦月ちゃん。どうしようか?」
「えっと……う~ん、あの、グリとブランはどうやって名前決めたんですか?」
参考になるかと思い、私は恵さんに訊く。
「私は白猫。だからブラン」
質問の返答は恵さんからではなく、テレビの前にいるブランからのものだった。しかし理解できない。白猫だからブランというのは、どういう意味だろう?
「あのね、ブランやグリは、色から名前を付けてるの。ブランっていうのはフランス語で白って意味で、グリっていうのは灰色の意味なのよ」
「黒はフランス語で何て言うんですか?」
「黒はノワールね。黒猫をシャノワールって言うらしいわ」
「シャノワール」
シャノワール……何だかかっこいいと思った。
でも、名前にするには少し長い気がする……シャノワールだから、略してシャノ、それにちょっとアレンジを加えて『シャノン』なんてどうだろう。
「あの、シャノン……なんてどうですか?」
「ええ! キャノン! 何か凄い強そうだね!」
じっと黙っていたこまちゃんが我慢出来なくなったのか、大きな声で言った。
どうやら聞き違えたらしく、変な名前だと勘違いされている。
「違う! キャノンじゃなくて、シャノン!」
「ロンドン? 国の名前じゃーん!」
「……こまちゃん、わざとやってる?」
「ええ! ジョン・レノ……」
「こま、うるさい」
「……はい」
今度はブランに言われ、こまちゃんは押し黙った。
段々、猫も含んだこの家の住人の上下関係が分かってきたかもしれない。
こま&グリ→ブラン→恵さん→沙織さんと、きっとこんな感じだろう。
「シャノンね。いい名前だと思うわ」
「そうですか?」
「ええ、きっと、気に入ると思う」
私は床に手を付きながら移動し、まだ小さな黒猫の前へとやってくる。
「……シャノン」
試しに私が付けた名前を呼んでみる。すると、黒猫はパチリと目を開き、そしてみゃーとか細い鳴き声を上げた。
――こうして、名前が決まったのだ。今でも時折呟くあなたの名前……シャノン。