快傑赤マント!
人気のない、廃屋の敷地内。暗闇を穿つように立つ街灯が僅かにそれを映し出す。金髪と茶髪と赤髪の男達。その出で立ちはいかにも素行不良といったものであった。
そしてその下には、組み敷かれた女性があった。卸したてであろうスーツは砂と埃に汚れ、ブラウスは無残にも引き裂かれている。
「いやっ! 離して!」
女性は小石や砂利に傷つくのも構わず必死に暴れるが、只でさえ女の細腕。両手両足を磔のように抑えこまれ、更には馬乗りにされては振り払うことなど出来よう筈もない。
「くそっ、暴れんじゃねぇ!」
「おい、こいつの口塞げ!」
それでも男達苛つかせるには充分であったようだ。馬乗りになった男が舌打ちして、その口に丸めた女性のハンカチを詰め込んだ。
「ふぐ……ふがっ!!」
くぐもった声を必死に上げ、助けを呼ぼうとする。だが、ここは夜になれば人気は殆ど無くなる場所だ。だからこそ、男達は女性をここに連れ込んだのだ。
ギラギラとした獣欲の瞳が六つ。確定した自分の未来に絶望し、それを成す男達への恐怖に女性の瞳から涙が溢れる。それはしかし、男達の歪んだ劣情を無駄に煽るだけであった。
「――いけませんね。大の男が三人がかりで、か弱い女性を襲うだなんて」
「「「っ――!?」」」
いきなり響いた涼やかな男の声に、野獣達の体がビクリと跳ね上がる。そして声が何処からしたかと、何度も周囲を見回した。組み敷かれた女性も一瞬、恐怖を忘れたように辺りを見回す。
「あ、あそこだ!」
「な、何だテメェは!?」
外門近くの街灯の上に――それはいた。
暗闇に浮かぶ純白の仮面。それに反比例するかのような真紅のマントとシルクハット。余りにもミスチョイスな格好であったが、しかし男の持つ常人ならざる気配が、それを調和へと変えていた。
「人に名を問う前に、君たちは自分の行いを悔い改めるべきでしょう。大人しく彼女を解放して、自首しなさい」
そう言って、赤いマントの男は音もなく街灯から飛び降りると、そのまま静かに男達に向かって歩みだした。
馬乗りになっていた男と足を押さえていた男は拘束を外し、赤マントの男に向き直った。
「おい。逃さねえように、しっかり押さえとけよ」
「わーってるよ」
腕を押さえていた男が女性を引き上げ、逃げられないように後ろから首に腕を掛けた。
「……どうやら、説得は無駄なようですね」
小さな溜め息を零しながら、しかし何故か声は笑っているように聞こえる。
「何ブツブツ言ってんだテメェ!」
男達は自分達の楽しみを邪魔した男に、二人は容赦なく襲いかかった。
男達は中途半端ではあったが、空手やらボクシングやらの経験者であった。生来の素行の悪さ故に道場やジムを追い出されたことが、却って彼らの不良ぶりを加速させた。
喧嘩では覚えた技を使い、更に卑怯な手も平然とやる。凶器だって当然だ。ちょっと目が合った。あいつは気に入らない。などと少しでも思えば、すぐにでも暴力に訴えてきた。
だからこそ、この異常な出で立ちの相手も、自分達の”力”でボコボコにしてしまえる。そう思うことに疑いなど無かった。
「おらぁ!」
振り上げられた石のような拳は、真っ直ぐに白い仮面へと迫る。が、それは何の感触もないまま通り過ぎてしまう。赤い怪人はスルリとその脇を抜けて、もう一人の男に向かって歩く。
「このやろぉ!」
これならどうだと、軸足を強く踏み込んでから蹴り足をミドルで鋭く振り抜く。だがそれが当たる瞬間、赤い影は姿を消し、同時に背後から足音がした。
そんなバカなと振り返れば、マントの裾を少しばかり揺らして、それは女性の方へと向かって歩いていた。
何だ、この男は。という、ある種の恐怖に似た感情が鎌首をもたげる。が、それを自分達を無視して歩く男に対する怒りが上回り、その無防備な背中に、再び襲い掛かった―――が。
「う……っ!?」
突然、二人が呻き声を上げた。そして膝から崩れ落ちて四つん這いとなった。
「ぐ……。なんだよこれ……」
「力が……入らねぇ」
突然の事態に混乱しているのか、その顔は青ざめ、呼吸は乱れている。震える体に力を入れようとするが、全く言うことを聞かず、潰れるように地面に倒れ伏してしまった。
「ぐぅ……!?」
更には女性を押さえていた男も、突然の脱力感に襲われて地面にへたり込んでしまう。グラグラと揺れて白む視界と、こみ上げる吐き気に耐え切れず、ついには仰向けに倒れこんだ。
突然過ぎる光景に、女性は呆然とした。誰が何をした訳でもない。なのに自分を襲った男達は苦痛に呻きながら地面で悶えている。
「ふぐっ!?」
顔に差した影に、女性は短い悲鳴と共に顔を上げた。気が付けば赤尽くめの男が立っていたのだ。逆光に差す影が無機質な仮面を不気味さを際立たせる。
「大丈夫ですか?」
しかし男は徐にしゃがむと、女性の口に入れられたハンカチを引き抜いた。そしてボサボサになってしまった髪を、白手袋に包まれた指でそっと梳いた。
「この男達は半日は動けないでしょうから、安心して下さい。警察も間もなく、こちらに到着する筈です」
遠くに聞こえるサイレンの音。パトカーがもう近くまで来ている。
「あ、貴方は一体……?」
掠れるような声で女性は尋ねる。と、男はその指を仮面に掛け、少しだけずらした。
「その前に一つ。お嬢さんに質問があります」
その奥から、まるで魂を吸い込んでしまいそうな深淵の瞳が覗き、まるで悪戯小僧のように歪められた口元が見えた。
そして彼はこう尋ねた。
「赤いマントと青いマント、どちらを選びますか?」――と。
◇ ◇ ◇
〈夜の帳〉などという言葉も今は昔のこと。闇を恐れ、闇を光で照らし、人の技術は夜を昼の如く変え、眠らない街が都会には溢れかえる。
黄昏から黎明までの時を闊歩していた悪鬼妖魔魑魅魍魎も、人の智がもたらした人工の光に、段々と衰退をしていた。
学校などでも怪談話など怪異の噂も鳴りを潜め、闇は払拭されたかのようであった。
だが、闇を恐れ生まれた光が、より濃い闇を生み出すことになってしまった事は皮肉の一言に尽きるであろう。
怪異がなくなれば、今度は人の心に淀みが生まれる。それは陰と陽から成る人の心を闇へと傾け、怪異に変わる脅威を生み出しつつあった。
そんな中、人の畏れを糧とする妖怪達――特に〈人の噂〉にて生まれた物達は様々な方法を用いて、己が存在を繋いでいた。
口裂け女という妖がいる。彼女はとある小さな映画館を営んでいた。
そこで上映されるのは古今東西、あらゆる処から仕入れた恐怖映画であり、また、ホラー好きが講じて撮影されたマニアたちの自主制作品。
館内にはホラーにまつわる”曰く付き”の展示物も所狭しと飾られていた。
噂が噂を呼び、14年経った今では『ホラー映画マニアで此処を知らない者はモグリ』とさえ言われる程に高い知名度を得た。そんな口裂け女の下には幾らかの妖がやってきて、そこの職員として働きながら、やってくる客から畏れを得ていた。
それぞれが様々な方法で畏れを得ている中、一風変わった方法にたどり着いた物がいた。
その名は――赤マント。
赤マントとは、少女を狙って浚い、殺すとされた怪人であり、後に”赤いちゃんちゃんこ”と混ざって、赤と青の二色の選択を迫り、『赤を選べば鮮血に沈め、青ならばその血を奪う』という性質に変わった妖怪である。
さて、そんな赤マントの中でも特に変わり者であった”彼”は、廃校となって寂れてしまった自分のテリトリー『茜原小学校』にて、すっかり困り果てていた。
人が消えれば、そこの怪異も滅ぶしかない。しかし、どう足掻いても此処に人は呼べないし、かといって依り代無しに遠出をするのは自分の滅びを早めるだけだった。
幾日、幾夜を思案で巡り、しかし妙案など浮かぶ筈もない。仕方なく”彼”は学校の図書室に、何かアイデアのヒントはないだろうかと、足を向けた。
既に殆どの書籍は図書館や他の小学校に寄贈されており、そこには殆ど、本らしい本は残っていなかった。
これは、いよいよもって駄目かと思ったその時――ふと、壁に掛けられたポスターが目に入った。
それは数年前。この小さな村で行われたヒーローアトラクションのポスターであった。
これを見た時、”彼”はまるで雷に打たれたかの様な錯覚と同時に、眼から鱗がボロボロと落ちたかのような衝撃を受けた。
彼らの糧となる畏れは、どんな形にせよ”恐怖”であれば良いのだ。つまり――今までとは違った形で、『自分が、人間から畏れられる存在』になれば良い。
そして、それは同時に『彼らの糧となる恐怖』を『人が奪う』ことを妨害する役目を持つ。
つまり――悪人を排除する”ヒーロー”の様な事をすれば、人の世に”噂”を広めることが出来る。そして同時に悪人に対して”恐怖”を与えられる。
まさに一石二鳥。これこそが自分の生き残る道だと、”彼”は早速、行動を開始したのだった。
◇ ◇ ◇
「くそっ! また”赤マント”か!!」
バン! と、苛立ちのままに拳がデスクに振り下ろされる。
ここはT県警千田署捜査一課。課長である大森は、先日逮捕した連続婦女暴行グループの調書を読んでいた。
そこにあったのは『赤いマントの男』に関する事柄。同時に被害者にも事情聴取を取ったがそこでも出てきたのは『赤いマントの男性が自分を助けてくれた』というものだった。
千田警察署管轄内ではここ最近、何処からともなく現れて犯罪者をやっつける『赤マントの男』が出没を繰り返していた。
「で、でもほら……おかげで苦労なく犯人を逮捕出来ますし、もしかして正義の味方……なんて」
「おい、高村。お前の頭は寝てんのか? 寝言は寝て言え! このバカモンが!!」
「ひっ!」
高村と呼ばれた若い刑事は、大森課長の怒号を浴びて思わず身を竦めた。
「いいか。犯人は全員、失血死ギリギリまで血を無くしてたんだぞ? それも”体には一切、それらしい傷を付けず”にだ。現場にも、一つの血痕さえ残さない徹底ぶりだ。お陰で抵抗もされずに犯人を現行犯で抑えられた。それはいい」
「えっと……そうですね」
「だがなぁ。犯罪者だろうとなかろうと、誰かを害すりゃそれは犯罪だ。奴は”正義の味方”なんかじゃない。ヤツは”正義の味方気取り”の、只の連続傷害犯なんだよ」
ギラリと、まるで獰猛な野獣のごとき瞳が光る。その圧力に、一課内の空気がまるで質量を倍加させたように重くなった。
どんな方法であっても、相手が犯罪者であっても、その身を害する行為は犯罪だ。それ自体がそもそも、褒められた行為ではないのだ。案にそう言った大森課長は、その恰幅の良い体を椅子から持ち上げて、デスクの上のタバコを取った。
「どんな理由があるかは知らんが、”赤マント”なんて古臭い妖怪のモノマネをする奴の神経がマトモなものかよ」
「そりゃあ、まぁ……そうですね」
「だからこそ、さっさとその”赤マント”を捕まえなきゃならんのに、まったくお前らは……ん? おい、新人はどうした?」
「あぁ、あいつなら例の通り魔事件の聞き込みに行ってますよ。そろそろ帰ってくるんじゃないですかね」
そう高村が答えると同時に、捜査一課のドアが勢い良く開いた。
「只今戻りました。……あれ、どうしたんです?」
入ってきた人物は自分に突き刺さる視線の数々に、つい首を傾げた。
「いや、何でこうも測ったようなタイミングなんだろうなと思ってな」
「なんですか、それ? あ、課長またタバコですか? いい加減減らさないと、また麻里子ちゃんにどやされますよ」
「うるさいほっとけ。それより御手洗、さっさと通り魔事件の聞き込みの報告書、まとめろよ」
「了解です」
御手洗と呼ばれた男性は早速自分のデスクに付き、引き出しから報告用の白紙書類を取り出した。彼の開けたドアから大森課長が外に出て、やっと重苦しかった空気が緩和されたので、御手洗を覗く全員が「はぁ」と、嘆息した。
「あの……沢木さん。何かあったんですか?」
御手洗は隣の沢木という女性刑事に尋ねた。彼女は御手洗の二年先輩の刑事であり、一年目の御手洗は沢木に指導を受けている立場である。
「また、例の”赤マントの変態”が出たのよ。聞いてないの?」
「え……あぁ~、あの”赤マント”ですか。どうりで荒れているわけですね」
「課長自身は”赤マント”をただの容疑者と思っているけど、上は『自分達の面子を潰してくれる厄介者』って思ってるからね。相当せっつかれてるみたい」
「……そうですか。課長も大変ですね」
御手洗は何とも言いがたい感覚に、引きつった笑いを浮かべた。
(う~ん。こういう事態は予想外だったなぁ~)
書類を書きながら、御手洗はそんな事を思った。
何故、こんなことを御手洗――御手洗悠が思うのかといえば、彼こそが件の『赤マント』であるからだ。
茜原学園で自分の生存方法を思いついた”彼”は具体的な方法を求め、学校のトイレを介して様々な場所に向かった。その目的は自由の利く依代を探すことだった。
『赤マント』とはトイレを依り代とする妖怪であり、その行動範囲は敷地内に限定されている。だが、『悪を恐怖させるヒーロー』になるには、どうしてもそれが必要だった。
何十もの場所を渡り歩いた”彼”は、幸運にも”それ”を見出した。それがこの”御手洗悠”の身体であった。
”御手洗”とは当然『みたらい』と読む。だが、これにはもう一そう、一つの呼び方がある。
すなわち、誰もが一度は御手洗の事をこう呼んだであろう――『おてあらい』と。
『みたらい』と『おてあらい』。同じ『御手洗』という漢字を使いながら、全く異なる意味を持つ二つ。『赤マント』は御手洗という人間を『トイレ』に見立てる事を思いついたのだ。
御手洗悠は非常に無気力な青年であった。学校の成績は良く、運動神経も良い。しかし、彼はどこまでも無気力な人間であった。
熱中できるもののない、それを見つける気力もない、欲求といえるものも精々、死なない程度の三大欲求ぐらいなものだ。
空っぽの名器。そんな言葉がピッタリな彼が、『赤マント』と出会ったのは偶然であった。
いや、正確には出会ったわけではない。『赤マント』が彼の前に現れた時、彼は自分の手首を切って自殺をしていたのだ。
空虚故に死に対する抵抗感も薄かった彼が自刃を選ぶのも、ある意味当然の帰結であったのかもしれない。
しかし、そこに現れた『赤マント』は血を自在に操る妖怪であった。失血死したその体に血を返し、再び生命を動かすことはそう難しい事ではなかった。
とはいえ、一度死んだ人間の魂までが還る訳ではない。『赤マント』の行動は早かった。
『言霊』を用いて『御手洗悠』を自らの依り代とした結果、御手洗悠の体は『赤マント』のものとなったのである。
そこからは『赤マント』――御手洗悠の行動には迷いが無かった。
犯罪者を探すにはその情報が集まる場所に行くのが良いと、警官を目指すことにした。警官になれれば、堂々と悪人を調べられるし、犯人を逮捕できれば、向こうも万々歳であろう。そんな考えだったのだ。
実際、半分は上手く行っている。計算外は、自分までも『赤いマントの犯罪者』、しかも『警察の面子を潰した変質者』呼ばわりされ、目の敵にされてしまったことだ。
「はぁ……。面倒になってきたなぁ」
そう言いながら、『赤いマント』は手際よく書類を書き上げるのだった。
◇ ◇ ◇
連続通り魔事件発生。それは一ヶ月程前から起こっている、日本を震撼させている事件であった。
夜。繁華街を歩いている若い女性ばかりが、次々に襲われる。被害者は命に別状こそ無いものの、幾重にも斬りつけられたショックからか、意識を失ったままである。
千田署は捜査網を敷き、犯人逮捕を試みるが、未だに有力な情報はない。
そんな中、悠は通り魔について有益な情報があると聞き、駅前商店街にほど近い裏路地に来ていた。
「来ましたよ~。何処ですか~?」
「おやおや。『口裂け』から聞いてはいたが、本当に人間の体じゃないかい」
ヌルリと、ビルの隙間の影から黒いローブに身を包んだ女性が現れた。
「お久しぶりです、『影女』さん……っと、人気の占い師ミス・影羅と呼んだほうが良いですか?」
「どっちでも良いわ。それより、例の通り魔について『口裂け』から面白い情報が入ったの……知りたい?」
「何ですか?」
「実はちょうど一ヶ月前。英国のとある博物館から、日本に輸送された物があるのだけど、その内の一つが行方不明になったの」
「ある物?」
「『ジャック・ザ・リッパーのナイフ』よ」
「ジャック・ザ・リッパー? あの”切り裂きジャック”の事ですよね?」
ジャック・ザ・リッパー。
1888年にイギリスで起こった連続猟奇殺人事件。その犯人『切り裂きジャック』の事である。
犯行期間は約二ヶ月。被害者の具体的数も不明。確実にそうであるとされているのは五人で、それ以外の”らしい”ものも含めれば二十人程にまで膨れ上がるという。
ジャックという名も仮称で本名は当然のこと、年齢、性別、体型、人種さえ何一つ分かっていない。
この余りにもミステリアスな事件に対して、かの推理作家コナン・ドイルも謎を解こうと独自の推理を展開した程、後世のミステリー史に衝撃と影響を与えた未解決事件である。
「それと、今回の通り魔事件に何の関係が?」
「ナイフと一緒に税関の職員が一人、行方不明になっているわ。名前は菅原雄二。勤務態度は至って良好。とても真面目で、上司受けも良かったそうよ」
影女は悠に写真を見せる。写っていたのは30代前半の男性。その顔立ちからも、とてもナイフを盗んで逃亡するようには見えない。
そもそも、そのナイフが自分の立場や仕事、これからの生活を引き換えにするだけの価値があるのかも怪しいところだ。
「となれば……そのナイフに”曰く”があるって事?」
「まぁ、『切り裂きジャックのナイフ』なら、それぐらいあるでしょうねぇ。どちらにせよ、通り魔を追うなら菅原雄二を追うのが手っ取り早いでしょうね。後ろに住所も書いておいたわ」
悠は影女から写真を受け取ると、上着のポケットに仕舞う。
「それで、情報料は?」
「要らないわ。事件のせいで商売上がったりなのよ。お蜃のところも客の入りが悪いってボヤいていたわ。何か情報が入ったら教えるから、さっさと解決してちょうだい――お巡りさん」
そう言い残して、影女はまたビルの影の中へと消えていった。
「……刑事とお巡りさんは、ちょっと違うんだけどなぁ。まぁ、いいか」
悠は路地裏を出ると早速、住所の所へ行ってみることにした。
◇ ◇ ◇
菅原の自宅は、車で一時間程かかる、空港に近いアパートであった。
当の本人は留守であったので大家に頼んで鍵を開けてもらい、中に踏み入る。
「ここが菅原雄二の自宅か。……しかし、酷い有様だな」
菅原の部屋は、まるで嵐でもあったかのように物が散乱していた。壁には幾重にも真新しい切り傷があり、放置されたゴミが異臭を放ち始めている。
この様子から、菅原がここ数日の間は自宅に戻っていないだろうと判断し、何か手がかりは無いかと手袋を嵌めて部屋の捜査を開始した。
まず、テレビの下のDVDレコーダーに注目した。レコーダーの上にはホラー物のDVDが積まれている。その内の一つは、『口裂け女』でさえ、手に入れるのに苦労したという作品だった。
本棚には海外のシリアルキラーを描いた作品や、国内のホラー物などがぎっしりと並んでいる。菅原雄二はホラーマニアのようだ。という事は、彼が盗んだとされている『切り裂きジャックのナイフ』の事も、当然知っていた可能性がある。
上司受けも良く、勤務態度も真面目だった人間がどうして盗みを働いたのか。ここにその理由がありそうだと、悠は考えを整理する。
菅原雄二はホラーマニアであった。そんな彼が伝説の殺人鬼『ジャック・ザ・リッパー』の使ったナイフに興味を持たない訳がない。だからこそ魔が差してしまったのだろう。
と、ここまでは彼を追っている警察も調べていることだろう。問題はこの先だ。菅原はナイフを盗んだ。そして、その後にどうなったのか。
もしかしたら、件のナイフは妖刀の様な存在であったのだろうか。それに魅せられて、菅原雄二は通り魔になってしまったのか。
「手掛かりは無さそうだな。一度、署に戻るか。うん、電話が」
捜査を切り上げて戻ろうとした時、上着に入れていた携帯電話が音を鳴らした。
ディスプレイには沢木の名前が表示されている。
「もしもし、どうしましたか?」
『御手洗君、例の通り魔について通報があったわ! 今何処にいるの!?』
「今ですか? 今は聴きこみでちょっと……それで、通報の内容の方は?」
『N町2丁目で刃物を持った不審者がいるって。近くの警らも廻してるから、すぐに向かって!』
「N町2丁目……少し遠いか。了解、すぐに向かいます」
悠は電話を切ると早速、現場へ――は向かわず、公園へと走った。公園の隅にポツンと立つトイレに駆け込む。
それから少しして、通りがかった人がドアを開けるが、そこには誰の姿もなかった。
◇ ◇ ◇
N町2丁目。そこの外れには、今は使われていない工場がある。未だに大型機械が放置されたままのそこの一室に、身を隠す少女があった。
「ふぅ……ふぅ……っ!」
乱れた吐息を口元を覆うことで必死に隠そうとする。ジワリと滲んだ汗にシャツや前髪が張り付いて心地悪いが、直す余裕など無かった。
彼女はただ、普通に街を歩いていただけだった。それが、背後から誰かにつけられているような気配を感じ、足早に歩いた。度々後ろを気にしながら、気が付けば人気の全く無い廃工場の入り口に立ってしまっていた。
左右は鬱蒼とした林で、およそ人の足が踏み入れる場所ではない。彼女がすぐに引き返そうとして振り返った時、その視線の先に男が立っていた。
薄汚れ、裾のボロボロになったフード付きのコート。くたびれたデニムパンツに、泥まみれのスニーカー。
そして何より、その手に覗くギラリと光るもの。斜陽を受けて煌めく――ナイフ。
彼女は背筋に走った寒気に言い知れない恐怖を覚え、本能的に踵を返していた。ゲートの隙間に体をねじ込んで、中に駆け込む。
そのまま走りながらチラリと後ろを見れば、男がゲートをよじ登っている姿が飛び込んできた。
「ひっ……!」
あれは普通じゃない。もつれそうになる足を必死に動かし、飛び出しそうになる叫び声を堪えて、ただ走る。逃げる。まるですぐ後ろにまで迫ってきている日のような気配に対して、ただ一目散に。
そうして逃げまわった彼女は、がくがくになった足をへたり込ませ、針が突き立ったかのように痛む気管に耐えながら、必死に息を吸う。
あれからかなり逃げた。彼女のいる部屋に入る入口は一つしか無く、そこには人の気配はない。
「ふぅ……ふぅ………はぁ……はぁ……」
どうやら大丈夫そうだと、彼女はカバンから携帯電話を取り出した。
あんな不審者、さっさと通報して逮捕してもらおう。
余裕が出来たせいか、そんな事さえ思えるようになった。ポチポチと110番に掛ける。
しばらくのコール音がして、繋がった。
『こちら110番。どうしましたか?』
「あの……今、変な人に追いかけられてて。しかもその人、ナイフ持ってるんです」
声を出せば見つかりやすくなってしまう。彼女はコソッと、入り口を注意しながら話した。
『では、現在地は何処ですか? 分からなければ近くにある目印になりそうなものを仰って下さい』
「えっとN町2丁目にある廃工場……分かりますか? そこの……なんかお大きなプレス機みたいなのがある場所」
――ジャリ。
「っ――!」
『どうしました?』
その音に体が強張る。最早、電話の向こうの声も耳に届かない。ただ、その音のした方角に意識が傾く。
恐怖が再び鎌首をもたげ、心臓がバクンバクンと、鼓動を激しくする。
手足が震え、歯が意識を外れてガチガチと鳴り出す。恐怖に目を逸らしたくなるが、入り口から目が張り付いたまま離れない。
開けっ放しのドアの向こう――通路は真っ直ぐ。誰かが来れば、姿は必ず見える。もっと奥に隠れようと、ゆっくり後ろに下がる。
――どすっ。
「っ――!?」
背中に何かがぶつかった。他の機械との距離はもっとあった筈で、他にぶつかるような物はない事は、入った時に見えている。
ならば今、背中にぶつかったのは何か。少女は世界が眩むような恐怖と絶望の眼差しで、後ろを振り返った。
「あ……ァァアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
背後にはナイフを持った男が、足音もなく気配もなく、まるで最初から居たかのように、濁った目で少女を見下ろしていた。
「………」
男は無言のまま、ナイフを逆手にして持ち上げる。刀身は細く鋭く、柄に血の様に紅い宝石が嵌めこまれたアンティーク。その刃が今、鋭く振り下ろされる。
「ヒッ!」
ガキン。と、咄嗟に付き出した携帯電話が貫かれ、少女の眼前で切っ先が止まる。
「キャァアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
携帯を投げ捨てるようにして、少女は部屋を飛び出した。割れたガラスの落ちる廊下を走り、外に飛び出す。
まだ室内にいる今なら、ゲートを超えて逃げ切れるかもしれない。冷静さを欠いた頭で、何とかそれだけを考えつくと、真っ直ぐにゲートに向かって走った。
何度もつんのめり、転びそうになりながら、あと少しの所まで辿り着く。これで逃げられる。そう安堵した時、突如として左足に鋭い痛みが走った。
「痛っ! あうっ!」
少女は崩れるように転んでしまう。あちこちを擦り剥き痛むが、それでもすぐに立ち上がろうとする。
「うそ……何で!? 何で、足が動かないの……!?」
少女は混乱の声を上げた。左足のふくらはぎには一筋の紅い痕がついている。そして地面にはあの男が持っていたナイフが突き立っている。これが痛みの正体だということはすぐに分かった。
だが、少女の足はまるでそこから先に神経が通っていないかのように、ピクリともしない。
そうこうしている内に男はこちらに向かって歩いてくる。少女は何とか立ち上がって、動かない足を引き摺りながら必死にゲートへ向かう。
「ひぃ……ヒィ……ッ!」
荒い吐息に混じって短い悲鳴が溢れる。バクバクと鳴り続ける心臓は今にも爆発してしまいそうだ。頭も真っ白で、このまま意識を失くせばどれだけ楽か。
後ろから聞こえる『ジャリ、ジャリ』という足音が段々と大きく、ハッキリと聞こえてくる。
早く。もっと早く。あと少し。少女の手がゲートに掛かった。そして、影が差した。
「っ……!!」
振り返る少女。其処にはナイフを振り上げた男の姿。ガシャンとゲートに背中がぶつかる。
「あ……あぁっ!」
もうダメだ。このままここで、やりたい事もなりたいものも、全てを奪われるのだと、眼前に迫った死の刃に自分の運命を思い知らされる。
「キャァアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
死の絶望に少女は両腕で顔を覆い、ギュッと目を閉じた。
「おっと、そこまでです」
「っ――!?」
その声にハッとして目を見開けば、視界を覆い隠す真紅のカーテン。そして男の腕を押さえる仮面の男の姿が映った。
「ぎっ……!」
今まで虚空のようであった男の表情に、初めて苛立ちの色が見えた。歯を剥き出しにして、押さえられた腕を力任せに押し出そうとする。
「むっ……この力、やはり普通ではないか。……っと!」
仮面の男はひょいと半身を反らすと、男の腕を捻り上げて、思いっ切り投げ飛ばした 。受け身も取れないまま、男が木箱の上に派手な音を立てて落ちた。
「さてと。怪我はありませんか、お嬢さん?」
真紅のマントをバサッと翻し、仮面の男は優しげに笑いかけた。
少女は、この赤尽くめの仮面の男が何者なのか、必死に考えた。どこかで会ったような……いや、そうではないと思い直す。
「あ……赤マントの怪人……! どこからともなく現れて、助けてくれるっていう。でも、ただの噂じゃ……」
「それは……っ?」
戸惑う少女に仮面の男――赤マントは何事かを言おうとするが、それを塞ぐように、ガラガラと音が響いた。投げ飛ばした男が瓦礫を押し退けて這い出てきたのだ。
少女を庇うように、赤マントは前に出る。男は明らかな敵意を発し、向かってきた。
「ここは任せて、何処かに隠れていなさい」
「そうしたいけど、でも……足が動かないの!」
「足が動かない?」
赤マントが視線を下ろすと、すぐに足につけられた傷に気付いた。そして、それがもたらした異変にも。
(これは……傷を中心にして、邪気が足全体に纏わりついている?)
赤マントは徐に、その邪気に触れると、勢い良く振り払った。すると、霞のようにそれは消え去った。
「っ……足の感覚が! ……動くわ!」
「おっと」
感嘆の声を上げる少女を、赤マントはさっと抱き上げた。腕の中で短い悲鳴を上げる少女に構わず、そのまま大きく跳躍した。
そのまま窓から建物内に入り、そこに少女を降ろそうとする。
「危ない! 後ろ!!」
少女が叫ぶ。赤マントの背後に、男がナイフを振り上げていたのだ。
ヒュッ! と、風切音が響いて赤い布切れが舞う。
「ふっ!」
「ッ……!?」
不意の一撃を躱した赤マントは、男の腹に鋭い蹴りを打ち込んだ。まともに喰らった男はそのまま外へと放り出される。そしてドシャッ! という嫌な音が響いた。
少女は窓枠から、恐る恐る外を見下ろした。この場所は三階程の高さがあり、そこから落ちて地面に倒れた男はピクリともしない。
「っ……死んじゃったの?」
少女は視線を男に合わせたまま、赤マントに尋ねた。
「いや……この程度で死ぬ相手なら、苦労はしませんよ。あれは普通ではない」
二人の見下ろす中、男が立ち上がる。普通ならば良くて骨折。打ち所が悪ければ死んでいる筈だ。だというのに、まるで何事もなかったかのようだ。その異常さに、少女が体をブルっと震わせた。
「さて、お嬢さん。私の噂を知っているなら……これから言う私の言葉の意味が分かるでしょう」
「え……?」
赤マントは芝居ががった仕草で少女に頭を下げ、そして問いかけた。
「お嬢さん。赤いマントと青いマント……どちらを選びますか?」
「それって……っ!」
窓の向こう――狂人の如き形相で飛び上がってきた男が、少女の視界に飛び込んできた。
赤マントは頭を垂れたまま微動だにしない。このまま赤マントはがやられたら、今度こそ殺されてしまう。
「あ……赤いマントを頂戴ッ!!」
少女は力の限り叫んだ。途中で声が上ずり、喉に小さく痛みが走る。
だが、これだけが、少女に出来る唯一の事だったのだ。
赤マントを狙い、凶刃が煌めく。
「了解した」
赤マントはそう呟くと、マントを勢い良く翻した。それがナイフを払い、逆に返すと男が外へと投げ飛ばされていた。
「ではこれより――赤マントの活躍をご覧あれ!」
そして男を追いかけて、赤マントが飛び出す。
男はバランスを崩しながらも、赤マントに向かってナイフを振りぬいた。しかし、赤マントは空中を滑るようにしてそれを躱し、逆に男の腕を掴んで、トタン屋根の上へと投げた。
ドシーン! という盛大な音を立てて、もうもうとホコリが舞い上がる。
天井に開けられた大穴から、赤マントも降りる。そして中から数度、音が響くとドアが吹き飛んで、男が地面をゴロゴロと転がっていく。それを追うように、ゆっくりと赤マントも出てきた。
「さて……そろそろ、正体を見せて欲しいのだが」
「ググ……ァアアアアアッ!!」
獣のように吠え、男が再び跳びかかる。
「……やれやれ」
頭を振った赤マントは、腕を持ち上げた。そして――。
ヒュン。パシィンッ!
「ギ……ッ!?」
振り払われたナイフがクルクルと宙を舞った。濁った瞳を見開く男の腹部に鋭く拳を突き刺す。
「ア………うぐ……っ」
男が呻き、ガックリと力を失う。そしてナイフが地面に落ちて転がっていった。
「やはり菅原雄二……さっきまでとは、まるで別人だ」
男――菅原を地面にそっと下ろすと、赤マントはキッと前を見据えた。
「ねぇ……終わったの?」
「いや、これからが本番ですよ。顔を引っ込めていなさい」
未だに――いや、さっきとは打って変わって、緊張の色が言葉の端に見える。少女は言われた通りに顔を引っ込めた――が、やはり気になるので、ちょっとだけ顔を覗かせた。
「さぁ、そろそろ正体を見せてはくれませんか? それを見逃すほど、私は甘くはありませんよ?」
赤マントは足元の足を拾い上げ、ナイフに向かって投げる。と。当たる直前に何かがそれを弾いた。そして、ナイフに異変が起こった。
ナイフから薄黒い煙のようなものが噴き出し、空に昇る。煙はゆるゆると回りながら、その内側に何かを形作っていく。
ふわっとしたどす黒いドレスに昏い手足が通り、長い髪がゆらゆらと、まるで自意識を持つかのように蠢いている。
血の様に赤い瞳を爛々と輝かせるその姿は、まるで幽鬼であった。
ふわりとナイフが浮かび上がって、影の手に収まる。
『オノレ……神聖ナル儀式ヲ穢ストハ……!』
幽鬼が言葉を発する。その声はまるでガラスを引っ掻いた時のような不快さを少女の全身に刻み付ける。しかし赤マントは何事もないかのように構えている。
「ナイフにこびり付いた怨念……やはり、それがジャック・ザ・リッパーの正体ですか。しかし、その姿まるで……」
赤マントは訝しんだ声を出した。少女も何か違和感を覚えた。黒い影の姿はまるで絵画等で見る貴婦人のようだ。そして、その手にされたナイフもよく見れば、アンティークな代物に見える。
少女は赤マントの発した「ジャック・ザ・リッパー」という言葉はどういう事かと疑問を抱きつつ、二人から目を離せないでいた。
『モット、モット血ヲ神ニ捧ゲネバナラヌ。低級ナ悪魔ガ邪魔ヲスルデナイ!』
「人を悪魔呼ばわりとは……悪霊風情に言われる筋合いはないのだがね」
『神ノ名ニオイテ、滅ビヨ悪魔!』
影――悪霊は一瞬で間合いを詰め、手にしたナイフで赤マントに斬りかかった。が、赤マントはそれを飛んで躱す。
『逃ガスモノカ!』
悪霊の体を包む影が鋭く伸び、赤マントを串刺しにせんと迫る。
だが、赤マントは紅の羽を翻してそれらを悠々と回避する。
『オノレ……何故、当タラヌ!』
苛立ちにまみれた声が響く。魂さえ凍てつかせるような気配が拡がり、ナイフがドス黒い気を吐き出した。
『消エヨ、悪魔!』
「っ……!?」
一瞬、焦りの色を覗かせた赤マントは横に大きく飛び退いた。直後、振り抜かれた一撃。
放たれた深紅の斬撃は大気を、同時に地面のコンクリートを切り裂いた。その刃はそのままゲートを切り裂いて吹き飛ばす。
「邪気を刃に乗せて飛ばす芸当まで出来るとは……流石にちょっと驚いた」
赤マントは少し乱れた襟元を正し、ハットを被り直す。
『フフフ、次ハ躱セヌゾ?』
悪霊は再びナイフに力を集める。同時にその身を包む影が鋭い刺へと変わる。
「――いや、もう躱す必要もない」
『戯言ヲ――!』
繰り出される影。赤マントは身じろぎしない。影はその周りを塞ぐように突き刺さる。
影はニィ、と口元を歪める。逃げ道を塞ぎ、必殺の一撃を見舞う。それで赤マントを屠れる。その確信があるのだ。
『コレデ終ワリダ、死ネ!』
振り下ろされるナイフ。その切っ先から深紅の光が奔り――。
「いいや。終わるのはそちらだ」
そして弾かれる。赤マントの手には、いつの間にか深紅の刃が握られていた。
『何ダソレハ……何時ノ間ニ!?』
「紅血の刃。私は血を自在に操る事ができる。この刃は私の妖力そのものだ」
ガキィン!
『ガア……ッ!?』
紅の刃が踊り、ナイフと激突すると悪霊が苦悶の声を上げる。何故そうなったのかを理解できないのか、その瞳は困惑に揺れる。
『貴様……何ヲ!?』
「お前の正体はそのナイフに取り憑いた負の思念。依り代がダメージを受ければ、実体を維持出来なくなるのは自明の理だ」
『ッ……!!』
悪霊の手のナイフには僅かに亀裂が走っていた。明らかに動揺する悪霊を尻目に、赤マントは攻勢を緩めない。
「ハッ!」
鋭い一撃が三度、ナイフを打ち据える。ベキッ! という音がして中ほどまで亀裂が大きくなる。
『ググ……ッ! チカラガ、抜ケテイク……!』
悪霊は見るからに弱りだし、実体が解け始めてきた。
「さぁ、これでとどめだ!」
鋭い一撃が突き刺さり、ついにナイフが砕けた。
『ヌゥウウウウウウウッ!』
「やった!」
これで勝った。少女は声を上げた。その瞬間だった。
『カァッ!』
「っ!?」
クワッ! と見開かれた瞳が少女を捉えた。その底なし沼のように魂を引き摺り込む闇に、少女は身を強張らせた。
『ヨリシロォオオオオッ!』
悪霊は崩れゆく体で少女に飛びかかった。新たに依り代を得れば永らえられるからだ。
『オ前ノ体ヲヨコセェエエエエエエエエエエッ!』
「ひ……っ!」
悲鳴さえ上げられない。あっという間に、目の前に現れた悪霊はその手を少女に向かって伸ばした。
――ざん。
その手が、体ごと紅い刃に横一文字に切り裂かれた。
『ギィェエエエエエエエエエエッ!?』
絶叫。命の皿の底を激しく叩くようなその声は、工場の敷地全域に響き渡る。
「言った筈だ。〈終わるのはそちらだ〉とな」
悪霊の背後で、赤マントが刃を「ヒュン!」と返した。仮面に隠されたその奥から僅かに覗く瞳は、冷徹に悪霊の最後を見届ける死神の光であった。
『オノレ……オノレ悪魔メェエエエエエエッ!! イヤダ! マダ消エタクナイ!! キエタク……ゥ……!』
びゅう。と風が吹いた。果たして悪霊の体は風に乗って、塵となって消えていった。
「今度こそ……終わった?」
少女はへなへなと崩れ落ち、それでも何とか顔だけを持ち上げて赤マントに尋ねた。
赤マントは剣をマントの内側にしまうと、少女の前に音も無く降り立った。
「ええ。依代を失ったことで、奴は完全に消滅しました。もう、貴方が狙われる事はありません」
「……はぁ、良かったぁ。ありがとう、えっと……赤マントさん?」
「礼には及びません。それよりも……あぁ、警察が到着したようですね。では、取り急ぎ頂きましょうか」
ちらりと外を見てから、赤マントは少女に向き直った。
「え……?」
「私の噂を知っているなら分かる筈ですよ?」
赤マントが少女の腕を取り、立ち上がらせる。
「噂……それってもしかして『赤マントに助けられると、血を抜き取られる』っていう!?」
少女は踊り気に目を見開く。が、赤マントは仮面の奥でクスリと微笑った。
「血を取るといっても、献血より少ないですよ。ほら――」
「っ……!?」
赤マントの指が首筋に触れた途端、軽い目眩のようなものを感じた。
グラッとして倒れそうになる体を赤マントが支え、優しく降ろされる。
「ぅ……?」
抗えない眠気が、少女の体を侵食していく。
「はい。これでもうおしまいです。さて、後の事はお巡りさんに任せて……これにて失礼します」
閉じていく少女の視界の中、赤マントは一礼すると窓枠に足を乗せ、その身を宙に躍らせた。
◇ ◇ ◇
「これは……っ!?」
車を工場前に停めた高村と沢木は、その惨状に目を見開いた。
鉄製の門は真っ二つに切り裂かれ、コンクリートにも巨大な傷跡が幾つも刻まれていた。 右側にある倉庫のものだろう、ひしゃげたドアがガランと転がっている。
ここで何があったのか。容易に想像もできないが、代わりに想像も出来ない自体が起こったことは理解できた。
――ガタッ。
「「ッ――!!」」
いきなり響いた物音に、二人は揃って顔を上げた。そして――見た。
斜陽の差す空。真紅の外套を翼のようにはためかせ、数十メートルは在ろうかという距離を滑るようにして移動する者の姿。
チラリ。と、白い仮面の奥から視線が突き刺さった。
「まさか……あれが”赤マント”?」
「ッ――待て!!」
「待て、沢木! 今は通報者を探す方が先だ!」
追い駆けようとした沢木の肩を高村が押さえる。
「少女でしたら、そこの部屋に居ますよ?」
「「っ……!?」」
二人が声の方を向けば、赤マントが屋根の上からこちらを見下ろしていた。
「怪人赤マント! あなたが連続通り魔の犯人なの!?」
「違いますよ。それはそこに倒れている男です。まぁ、記憶があるかは不明ですがね」
「っ……あれは?」
赤マントが指した方に、倒れている男の姿があった。高村は駆け寄って首筋に触れる。脈は弱いながらも、ちゃんと確認できた。
「それでは、後始末はお願いします。これでも忙しい身ですので」
「待ちなさい、怪人赤マント!」
「――あぁ、そうだ。その”怪人”という言葉……止めて頂きたい」
「……?」
バサッ。とマントを翻し、赤マントは高らかに名乗る。
「私の名は――『快傑赤マント』! では、失礼!!」
赤マントは再び大きく跳躍すると、建物の裏手へと姿を消した。一瞬追い駆けようとした沢木だったが、件の少女の安全を確保することが最優先だと、足を留めた。
「”快傑赤マント”……? あの身のこなし、本当に人間じゃないっていうの……?」
沢木は煮え切らない気持ちを抱えたまま、少女のいるという部屋へと向かったのだった。
◇ ◇ ◇
連続通り魔事件犯人逮捕から数日。
容疑者として逮捕された菅原雄二は取り調べに対して、曖昧な供述を続けている。
事件について聞かれても「ナイフを盗んだことは事実だが、それ以降の記憶が穴だらけで、自分が何であんな所にいたのかも分からない」としか答えなかった。
ただ「記憶のない間、ずっと声が聞こえていた気がする。『殺せ。血を捧げろ』と」後に付け加えた。
未遂ながら最後の被害者となった女子学生は、数日の入院の後、無事退院。今はカウンセリングを受けながら日常生活を取り戻しつつあった。
今までの被害者も全員が意識を取り戻し、順調な回復を見せている。
そして、ここはT区にある映画館『ホラーズシアターミュージアム』。
赤マントの同類であり、件のナイフをイギリスから持ち込もうとした”口裂け女”の店である。
「あの”ジャック・ザ・リッパーのナイフ”のことだけど、ちょっと面白いことが分かったの」
耳程まで裂けた口を愉快そうに歪ませて、黒髪の女性――口裂け女は語り出した。その手にはA4サイズの紙の束が握られている。
「面白いこと?」
「あのナイフはね……その昔、魔女狩りの時代に使われた物らしいの」
「ほう、それで?」
御手洗はアンティークなカップに注がれた紅茶に口を付けつつ、先を促した。
「あのナイフを使っていたのは一人の異端審問官。当時の記録によれば、相当に真面目な性格だったようね。だけど、魔女と疑われる者達への拷問、処刑。それらが彼の精神を追い詰め……そして壊れた」
口裂け女は紙をパラパラとめくりながら、続ける。
「彼は魔女と疑われる者を次々に殺し、今度は疑いのない者も手に掛けるようになった。彼自身は『神が魔女の血を求めている』と言っていたようだけど当然、教会はそれを認める筈もなく……彼は”悪魔憑き”として捕らえられ、火刑に処された」
「元異端審問官……どうりで。神だの悪魔だのとのたまった訳だ」
「話はここから。彼の持っていたナイフは、彼の亡骸と一緒に埋葬されたのだけれど、二ヶ月程が経ったある日、彼の墓が荒らされて持ちだされてしまったの。そこからナイフの行方は知れず……」
「次は19世紀のロンドンに現れる、と。切り裂きジャックの正体にも検討が?」
「恐らくはナイフに体を乗っ取られた娼婦達。犯人を特定できなかったのは次々に体を乗り換えていたからだと思うわ。あのナイフは一見して高級品と分かるしね。娼婦が盗んで隠したり何なりしたんじゃないかしら?」
「犯人がコロコロ変われば、特定もできないか。よくもまぁ、そんな物騒なシロモノが、今まで大人しくしていたもんだ」
「どうやらエクソシストによって封印されていたみたい。で、近代になってそれが綻んで――」
「菅原という依代を得て、復活を果たした……か?」
「封印が解けたばかりだったから、力を大きく削がれていたようね。もし完全な状態だったら……赤マント、あなたでも危なかったかも知れないわよ?」
「そんな事はないさ」
「あら、どうして?」
グイッと紅茶を流し込み、御手洗はソファーから立ち上がる。
「正義の味方は悪者には負けないって、相場で決まってるからさ」
◇ ◇ ◇
深夜の倉庫街。その一つに明かりが照っていた。
倉庫の中には数人の男達がいる。その身の雰囲気は、おおよそ堅気とは言い難い。
「身代金はちゃんと持ってくるんだろうな?」
「大丈夫だって。歳がいってから出来た跡取りだって、そりゃあ猫可愛がりだそうだし。十億ぐらいぽーんと出すさ」
「だといいがな。で、あのガキはどうする?」
男の一人がドアの向こうに視線を送る。その奥の暗がりにはロープに縛られた八歳ばかりの少年が転がされていた。
「顔見られてんだ。殺すしかないだろう? それに『生きて返す』なんて言ってないしな」
「まぁいい。殺るならさっさと殺れよ。金を受け取ったら即、飛ぶんだからな」
「おおう! 明日の今頃は本場のフォーでも食ってる頃かね~」
「本場のベトナム女は楽しみだぜ」
あははは。と、愉快そうな笑い声が倉庫内に響いた。
「残念ながら、あなた方が行くのは昏く冷たい監獄の中ですよ」
「っ――! 誰だ!」
「――ここですよ」
照明の作る影の中から、スルリと現れたのは紅の紳士。
「なんだァ? 上も下も真っ赤で……仮面? 何者だ、お前は?」
男達はそれぞれ闖入者に警戒しつつ、武器を取る。その様子を仮面の奥でほくそ笑みながら――赤マントは言う。
「私は赤マント。快傑赤マント。以後、お見知りおきを」
咎人の群れに恭しく一礼し、赤マントは高々と飛び上がった。
怪人赤マント――否、快傑赤マントは今日も夜を駆ける。
正義と己の存在を懸けて。