スノウリバース
1
気がつくと、そこは乃木優介が通う高校の教室だった。いつも見ている教室の風景のはずだった。しかし、目の前に黒い何かが床に転がっていた。否、良く見れば少女だった。少女の上に何かが乗っている。
「―――っ!!」
それは、黒いローブを着た誰かだった。顔は見えない。容姿も分からない。ただ、黒いローブから伸びる華奢な腕が、少女の首を捕えていた。少女は助かろうと必死にもがく。しかし、手が緩む様子はまるでない。すると、少女は優介に気がついたのか、優介と目があった。優介は、少女から目を離せなかった。動くどころか、呼吸をする事さえもできなかった。そして、少女の口が動く。
―――たす―けて―――
瞬間、優介は悪夢から解放された。全身が寝汗で酷く湿って気持ち悪かった。
「夢、だったのか…」
優介は上体を起こして時計を見る。枕元のデジタル時計は六時半を示していた。
「風呂でも入るか…」
優介は、脱衣所に向かった。脱衣所にある洗濯機に、汗でぐっしょりになったパジャマを放りこむ。シャワーを浴び、汗を流す。
「あれは、何だったんだ…」
優介は、自分の体を流れ落ちるシャワーの湯を見つめながら、今朝の夢の事を考えていた。
夢の中であるにも関わらず、自分の呼吸音までしっかりと覚えている。とても夢とは思えなかった―――
と、部屋の方から止め忘れた目覚まし時計の目覚まし音が聞こえてきた。デジタル時計でありながら、自転車のベルのようなやつを二つ内蔵したタイプの目覚ましだ。優介はシャワーを止め、風呂を出た。全身の水気を、ある程度拭ってから、用意しておいた下着を履く。それからベッドの上にあるデジタル時計を止めに行った。しかし、優介が部屋に入る頃には、デジタル時計は鳴り止んでいた。
「んだよ。人を呼びつけておいて…」
優介は、デジタル時計相手にぶつぶつと悪態をつきながら制服に着替える。
「いただきます」
たった一人の食卓で、優介は毎日朝食を取っている。それは、優介がマンションで一人暮らしだからである。決して家庭崩壊とかではない。
食器を片づけた優介は、玄関先に準備していた鞄を拾い上げ、誰もいない自宅に「いってきます」を言って、優介は学校を目指した。
優介は、登校中の女子生徒達をきょろきょろと見回していた。無意識の内に、夢に出てきた少女の事を探していたのだ。しかしその姿は、周囲の人に多大な誤解を招いていることに、本人は気付いていない。
「オイ、そこの目を血走らせて女子を凝視している奴」
突然後ろから声がかかり、優介はハッと我に返って振り返る。
「何だ。響也か…」
優介に声を掛けたのは、クラスメイトの加賀美響也だった。
「どうしたんだよ。三次元に興味ないはずのお前が女子を品定めしてるなんて…」
「品定めとか誤解招くような事言うな。それに僕は三次元に興味が無いわけじゃない」
優介は、単に二次元が大好きなだけなのだ。因みに、三次元は普通。可もなく不可もなくと言ったところ。
「じゃあ、誰か探してるのか?」
その質問に優介はぎょっとした。響也は特に意識していないだろうが、あまりにも図星過ぎて、優介は動揺を隠せなかった。
「はは~ん。さては、好きな子が出来たのかな?」
しかし、響也の見当違いな発言に、
「う~ん。どうだろうね?」
優介は苦笑して濁す。
「なんだよ。焦らすなよぉ」
響也は不満そうに口を尖らせる。
その時、後ろから自転車のベルが聞こえてきた。二人が振り返ると、何かもの言いたげな表情をした、自転車に乗った女子生徒がいた。その顔を見た瞬間、優介は心臓を鷲掴みにされたような感覚に襲われた。目の前の少女は、間違いなく夢に出てきた少女だった。
「あ、すみません。ほら、優介」
響也は、固まったままの優介を引っ張って道を開ける。女子生徒は二人を一瞥した後、軽く会釈をしてから去って行った。
「どうしたんだよ優介。さっきからお前へんだぞ?」
響也は優介の異変に気付き、怪訝そうに顔を覗き込む。
「なぁ…。さっきの子、誰だか知ってるか…?」
優介は、響也の顔を見ることなくそう訊ねた。
「ん? あぁ。確か、二組の真城雪奈、だったかな。でも、それがどうしたんだよ」
響也の問いに、優介は身動き一つせず答える。
「…悪い。事情は学校に着いてから話すよ」
青ざめた顔でそれだけ言うと、優介はとぼとぼと歩きだした。響也は仕方なく後をついていくことにした。
「…そんな事があったのか」
優介は、今朝の夢の事を全て響也に話した。
「でも、それって夢なんだろ?」
「あぁ。でも、あの子を見たら何だか嫌な予感がしたんだ」
優介の表情は晴れない。響也は何を言ったらいいか分からず、返答に窮していた。
「…お前の嫌な感は良く当たるからな。今回ばかりは外れてほしいよな…」
言い終えた後で、響也は後悔の念のあまり心の中で頭を掻き毟っていた。しかし優介には、響也が本当に言いたかった事が分かっていた。
「そうだな…」
分かっていても、優介はそう返す事しか出来なかった。
「あ、そうだ。今日お前に渡そうと思っていたものがあったんだ」
と、響也は鞄から袋に入った何かを取り出した。
「これは…?」
「ほら、お前が前欲しいって言ってた画集」
「っ!! マジか…!」
驚愕と歓喜の入り混じった表情をする優介を見て、響也はにやりと頷く。
「サンキューな。この借りは後で返す」
優介は嬉しかった。欲しかった画集が手に入った事もそうだが、何より響也が自分を気遣い元気づけてくれたのが嬉しかった。
「んじゃ、今度こそ例のアレ頼むぜ」
「あぁ、分かった。任せろ」
二人は謎の笑みを浮かべて頷き合ってから自分の席に戻って行った。しかしこの時、まさかあんなことになるとは二人とも想像出来なかった。
2
放課後。優介は誰もいない教室で一人、自習をしていた。別に補習や追試などではない。この学校では放課後になると、生徒に後者を解放し、自習室として使わせてくれるのだ。故に、例によって家だと誘惑に負けて勉強できない優介は、教室で勉強をしているのだ。
「さて、ひと段落ついたし。帰るか…」
一通り勉強を終えた優介は、荷物を鞄に全て片付け、教室を後にする。そして、二組の教室に差し掛かった。その瞬間、心臓を鷲掴みにされるような感覚に襲われた。優介は生唾を呑み、恐る恐る二組の教室を覗く。
優介は心臓が止まるかと思った。教室の中で、一人の女子生徒が黒ローブの何者かに押し倒され、首を絞められていたのだ。そして、その女子生徒には見覚えがあった。夢にも出て、今朝も会ったあの少女。真城雪奈だった。必死に抵抗して入るが、雪奈の目は虚ろな状態で、いつ力尽きてもおかしくなかった。
(早く助けないと…!)
なのに、体が言うことを聞かなかった。全身が震え、鼓動が加速し、喉が渇く。その内、優介の存在に気付いたのか、雪奈は優介に向かって手を伸ばし、口を動かした。
――――たすけて。と
(このまま僕は彼女を見殺しにするのか!? そんなの、嫌だ!!)
その瞬間、優介は自分の体が軽くなるのを感じた。
「う…うぉぉおおおおああああああっ!」
優介は勢いよく教室に駆けこみ、黒ローブに思い切りタックルをお見舞いする。確かな手ごたえと共に、黒ローブは吹っ飛び、机にブチ当たる。
「真城さんっ!!」
優介は雪奈を呼んだ。しかし、返事はなかった。優介はすぐさま雪奈を抱きかかえ、脈と呼吸を確認する。
(良かった。脈も呼吸もある)
一瞬だけ安堵した後、優介は黒ローブを睨みつける。
「あ…れ?」
しかし、その肝心な黒ローブは跡形も無く消えていた。慌てて辺りを見回すが、教室の中には既にいなかった。窓のカギは全て閉じられ、開いているのは、優介が入って来た扉だけだった。
「今助けに来たぞ!! って、あれ?」
突然、その扉から誰かが入って来た。担任の猪上先生だった。そしてその後ろに、先輩らしき女子生徒が立っていた。
「乃木、お前どうして―――」
「先生! 今すぐ救急車を! 早く!」
優介は先生の言葉お遮り、凄い形相で叫ぶ。
「わ、分かった! 待ってろ!」
先生はぎこちない手つきでポケットからケータイを取り出し、救急車を呼ぶ。
「……」
優介は、歯を食いしばりながら、気を失った雪奈を見つめていた。
3
「目を覚ませば、直ぐに退院できるそうだよ」
雪が眠る病室に戻って来た先生は、そう言った。
「そうですか。すみません。何か…」
「気にするな。これも教師としての仕事だ」
先生が陽気に笑うのに対し、優介は力なく笑った。
「それで、乃木は帰りの足あるか? 良かったら送っていくぞ?」
「いえ、大丈夫です。僕一人暮らしですし、少し心配なのでここに残ります」
心配の理由は、黒ローブの襲撃が再びあるかもしれないと言う可能性だった。
「そうだな。不審者に襲われたということもあるし、頼めるか?」
「? あ、はい…」
優介はふと、疑問に思った。優介はまだ、先生に黒ローブの事を話していなかったのだ。
「先生、どうして不審者だって…」
「あぁ。それなら、黒露が戸締り確認中の俺のところに走って来て『向こうの教室で、女の子が不審者に襲われている』って言ってきて、それで俺が慌てて駆けこんできたら…ってわけさ」
「黒露…?」
聞いた事のない名前だった。
「あぁ。三年生の黒露鼎だよ。いやはや、あんな美少女がいると学校も華やぐってもんだよな。そう思うだろ?」
少々的外れな返答に、「そうですね」と優介は苦笑いで答える。
「それじゃ、俺は帰るからな。遅刻したら死刑だからな。あと、真城に変なことしても死刑だからな」
「はい。分かっていますよ。我慢は得意なので」
優介は、愛想笑いしつつ先生を適当にあしらった。そして、先生が出ていったのを確認すると、優介は雪奈に声を掛けた。
「もう起きても大丈夫だよ。真城さん」
すると、雪奈は眼を開け、上体を起こした。
「どうして、私が起きてるって分かったんですか?」
不思議そうに雪奈は訊ねた。
「ん~。なんて言うか、勘?」
そう言って苦笑する優介に、雪奈は少し呆れてしまった。
「それなら、起きないほうが良かった…」
「そう言う訳にはいかないよ」
溜息をつく雪奈に、優介はぐいと顔を近づける。
「ねぇ、何があったの? 君は何を見て、何を聞いたの?」
すると、雪奈の唇が小刻みに震え始めた。顔色も悪いように見える。
「ごめん。言いたくないなら、いいんだ」
と、優介は病室にあった椅子をベッドの近くに持ってきて座る。
「…分からないの」
「え…?」
分からない。雪奈は、確かにそう言った。
「襲われた理由も、原因も、目的も、犯人も、私には分からないの。こっちが訊きたいくらいなの…」
今にも泣きそうな表情で、雪奈は打ち明けてくれた。
「うん。話してくれてありがとう。明日、学校はどうするの?」
その問いかけに雪奈は小さく、行く。とだけ返した。
「そっか。じゃあ僕は病院の人から寝袋借りてくるから」
優介はそう言い残し、病室を出ていった。優介の姿が見えなくなった途端、雪奈の体が震えだした。自分を抱きしめるような格好で俯き、ただ震え続けた。
「怖いよ…。誰か…誰か来てよ」
4
眩しさに気付き、雪奈は目を覚ました。
「あれ…私、いつの間に…」
その時、自分の手が何かに掴まれている感触に気付いた。雪奈が恐る恐る左手を見ると、そこには雪奈の手を掴んだまま突っ伏して熟睡している優介の姿があった。
「ん…あ、朝か…あれ?」
優介も目を覚まし、どうやら雪奈の手を掴んでいる事に気づく。
「っ――――!!」
寝ぼけて嗜好出来ない優介より先に、雪奈が思いきり手を引っ込める。
「あ…ごめん」
優介は、何が何だか分からないままとりあえず謝った。
「じゃあ僕は一度家に帰ってから学校行くけど、真城さんは?」
優介は、自分の荷物をまとめている。
「私は、遅れて行く、から…」
雪奈は一人でいる心細さで、弱弱しい表情になっていた。
「じゃあ、帰りがけに看護師さんを呼んでくるから寂しい時は看護師さんに甘えるといいよ」
見かねた優介は、一言余計に雪奈を励ます。
「別に寂しくなんか、それに甘えないよぉ!」
そんな雪奈に背を向け、優介はぴらぴらっと手を振って、病室を出て行った。
「…もぅ、バカ」
落ち込んでいる雪奈の気分転換に一言余計に行った事が分かって、雪奈は悔しく、も嬉しかった。
5
「なぁ、お前が遅刻なんてらしくないじゃねえか。何かあったのか?」
休み時間早々、響也は優介に訊ねた。
「別に、昨日ちょっとギャルゲのしすぎで寝坊しただけだよ」
優介はおどけた様に笑って見せる。響也は、直ぐに嘘だと分かった。だが、響也の経験上、優介がこういう嘘をつく時は大抵触れてほしくない内容の時なのだ。
「なんだよ。遂にギャルゲ人生を歩み始めたか?」
響也はにやりと笑って優介を皮肉る。
「違うよ。この間買ったヤツが神ゲー過ぎてエンディングまでぶっ通しでやっちゃったんだよ」
「へぇ。じゃあ今度は俺にもやらせてくれよ」
「いいよ。感受性の高い響也なら間違いなく涙腺決壊するな」
そんな他愛ないやり取りをしている内にチャイムが休み時間の終わりを告げる。
「やべっ、次の準備してねぇ」
響也は慌てて自分の席に戻り、準備を始める。
「………」
優介は先生が入ってくるまでの間、頬杖をついて、窓に切り取られた蒼穹をぼんやりと眺めていた。
6
午前の授業が終わり、校舎がざわざわと騒がしくなる。
「なぁ、購買で何か買ってくるけど希望ある?」
優介は席を立ち、ぐだぐだしている響也に訊ねる。
「あ? 珍しいな、お前からパシリを買って出るなんて。どういう風の吹きまわしだ?」
「別に、単によりたいところがあるだけだよ。これはそのついでさ」
響也の問いかけに、優介は肩をすくめておどけるだけだった。
「あっそ。じゃあ、焼きそばパン頼むわ」
そう言って響也はまたぐだぐだし始めた。優介はそのまま教室を出て、雪奈のクラスへと向かった。
(真城さん、ちゃんと登校してきたかな?)
そんな、らしくもない不安と興味に、優介は教室を覗き込む。見れば、雪奈は数人の女子たちと楽しく談笑しながら昼食を取っていた。
「どうやら、杞憂だったようだな」
優介は静かにそこから立ち去り、購買へと向かった。
「お、帰って来た。焼きそばパン残ってたか?」
空腹に耐え忍んでいた響也は、優介が帰って来たことに気づくと、らんらんと目を輝かせる。
「ああ、ちゃんとあったよ。ほら」
と、少々苦笑い気味に提げていたビニル袋をぶらぶらと見せる。
「流石優介。ちゃんと買って来たか」
「全く、激戦区を勝ち抜くのがどれだけ大変だか…」
この高校の購買に売られている焼きそばパンは生徒たちにかなり好評で、直ぐに完売してしまうのだ。
「嘘つけ。お前の事だから購買のおばちゃんのコネを使ったんだろ?」
「…バレたか」
優介の人身掌握術はかなり凄い。優介のポリシー上、殆ど使うことはないが、何人かに使用しており、購買のおばちゃんはその一人だ。
「しかし、どうやったらおばちゃんと仲良くなれるんだか…」
到底まねできない響也には、呆れることぐらいしかする事が無い。
「コツを掴めば簡単だよ。はい」
優介は笑顔で焼きそばパンを手渡す。
「サンキュー。でも、何かこうしてると俺まで掌握されてる気がする」
「実際もうされてるじゃん」
「はっ!?」
「冗談だよ。友達にそんな事しないし、そんな方法で友達作ったりしないよ」
と、優介は笑い飛ばすが、響也は顔をひきつらせることしか出来なかった。
7
午後の授業も何事もなく終わり、放課を迎えた。
「大丈夫かな。真城さん…」
優介は、雪奈の事が気になっていた。それもそのはず、雪奈は丁度一日前に襲われたのだ。優介は、雪奈のクラスに向かったが、雪奈は既にいなかった。優介はすぐさま昇降口へと向かい、靴を履き替え外に出る。
「あ、そういえば…」
同時に、優介は重要な事を思い出した。
「僕、真城さんの家知らなかった」
住所ぐらい聞いておくべきだったと後悔する優介だったが、もうどうにもならなかった。優介は仕方なく、そのまま自宅へ帰ることにした。
「ちょっと、そこの君」
校門を出たところで、優介は誰かに呼び止められた。自分の事を呼んでいるんじゃなかったらどうしようと思いつつも、優介はゆっくりと振り返る。
「あ、あなたはあの時の…」
優介を呼びとめたのは、鼎だった。改めて見た鼎に、優介ははっと息を呑んだ。きりっとした、整った顔立ちで、艶のある黒髪は、背中の真ん中あたりまで伸ばされている。さらに、すらりとした流線型を描いた体型でありながら、出るところはしっかり出ている。余りの美貌に、優介が暫く見惚れていると、
「あの、どうしたの?」
鼎に訝しげな顔で見られてしまった。
「あぁ、すみません。それで、僕に何か用でしょうか?」
用件は知れていた。それでも優介は、訊ねてみる。
「ちょっとそこでお話しでもしましょう。勿論、私が奢るわ」
先輩がくいっと親指で差した先は、喫茶店だった。
「はい。いいですよ」
優介は快く引き受け、喫茶店へと入っていく。
しかし―――
(すっごく注目されている…)
鼎が選んだこの店は、学校前の通りに面しているため、生徒の人通りが多かったのだ。
「どうしたの? もしかして、喫茶店は初めて?」
「いや、違いますよ。緊張してるだけです」
的外れな心配をしている鼎は、外からの視線に全く動じる様子はない。恐らく、その美貌ゆえに注目されることに慣れているのだろう。注目されることに慣れていない優介は、目撃した生徒からあることない事囁かれているだろうという恐怖を断ち切り、腹をくくることにした。
「それで先輩、話しって言うのはやっぱり…」
優介の問いかけに、鼎は苦笑する。
「君の考えている通り、昨日の件よ」
と、そこで空気の読めなさそうな店員が、頼んでいた二人分の紅茶を運んでくる。店員が去ったのを確認すると、鼎は話を続ける。
「昨日はありがとう。私じゃなかったら、あの子の事を助けられなかった」
「いえいえ、僕はそんな大したことはしてないですし、助けた時は無我夢中で、頭が真っ白になっていましたから」
優介は、謙遜しつつも照れくさそうに笑った。
「それにしても、あの黒ローブの男はなんだったのかしら…」
「男…?」
鼎の呟きに、優介は違和感を覚えた。黒ローブを見た時、優介は性別を判断できなかった。顔は当然ながらフードで見えず、体の大半はローブで隠され、体格も分からなかった。一つ分かったのは、ローブから伸びていた腕が華奢だったことぐらいだった。
(先輩は、僕と違う角度から見ていたのだろうか…)
考えてもはじまらない事なので、優介は後で考えることにした。
「そう言えば、僕がそいつを突き飛ばした後、あっという間にいなくなっていたんですよ」
黒ローブは、優介が雪奈の脈と呼吸を確認している間に姿を消していたのだ。
「逃走経路はいくつあったの?」
特に動じる必要も無く、鼎は訊ねる。
「僕が入って来た教室の入り口だけです。もう片方はしまっていましたし、窓の鍵も全部閉まっていました」
話がスムーズに進むので、優介はとんとん拍子に話していく。
「そう。でも、私が来た時には廊下に人影はなかったし、すれ違いもしなかったわ」
そこで導き出された一つの結論があった。
「犯人が、消えた…!?」
そんな事は決してあり得ない。仮に何かのトリックがあったとしても、場所が場所である以上、トリックが仕掛けられる可能性は低いし、仕掛けるには相当なリスクが伴う。
「じゃあ、犯人は一体どうやって…」
そう呟き、鼎は紅茶を飲もうと腕をあげる。
「痛っ」
そんな小さな悲鳴をあげて、鼎はカップを持っていた方の肘のあたりを押さえた。
「どうしたんですか?」
突然のことに、優介も少し焦る。
「昨日の体育の時に転んじゃって。その時に肘を痛めたの。でも大丈夫だから、心配かけてごめんなさい」
鼎はそう言って笑った。しかし、その表情は僅かに痛みで歪んでいるように見えた。
「そうですか。悪化させないように気をつけて下さい」
優介は安堵の笑みを見せると、鼎を諭すような口調で言った鼎は苦笑した後、少し深刻そうな顔をする。
「これから、あの子を守っていかないといけないわね」
「確かにそうですね。真城さんも、次いつ襲われるか分からない以上、放っておけないですものね」
事態は、予想以上に深刻な状況だった。何せ、相手の情報は殆どと言っていい程ない。そうなると、犯人の尻尾を掴むまで優介たちからは何もしかけられないのだ。
「じゃあ、僕が真城さんに事情を説明して登下校の時にお供することにしますね」
「そうね。それが良いわ。じゃあ、真城さんをお願いね」
そう言う結論で、鼎との会話が終了した。勿論、紅茶は鼎のおごりだ。
8
優介は先輩と別れた後、学校の近くにあるCDショップに立ち寄った。そこで、優介は意外な人物を見かけた。
「あれ、真城さんだ…」
雪奈は、新曲コーナーの所に設置されている試聴用の機械で音楽を聴いていた。優介は様子を伺い、雪奈がヘッドホンを外すのを待った。やがて、聞き終わったのか、雪奈はヘッドホンを外した。
「やあ。こんなところで会うなんて奇遇だね。真城さん」
優介はここぞとばかりに声を掛ける。
「あ、えと、乃木くん。偶然だね、ここで会うなんて…」
雪奈は突然の遭遇にドギマギした様子で答えた。
「真城さん、さっき何の曲聞いていたの?」
優介はにこりと渡って訊ねる。が、その様子は少し不気味に見える。
「えっと、その、この人の新曲を…」
そう言って、雪奈は近くに置いてあったCDを差す。
「あ、これ。あのドラマの主題歌の。真城さんもこれ見てるんだね」
「う、うん。私ね、ドラマの内容も好きだけど、それ以上にあの物語の様子をこの人の綺麗な歌声に乗って、すっと私の中に入ってくる感じが好きなの」
雪奈は、聞かれてもいない事を楽しそうに一人で話し始める。優介の人心掌握術にかかった証拠だ。優介は相手に接触する時に、必ず相手の好みの話題を引っ張り出す。人は好みの話題に着いて語り合うのが好きなので、簡単に打ち解けてくれる。もちろん、そう簡単に成功するわけではないが、優介はそれを簡単そうにやってのける。
「そうだよね。僕もあの人の歌声と曲の良さには感動したよ。ところで真城さん、これから家に帰るところ?」
ここからが優介の本題だった。
「うん、そうだよ」
「じゃあさ、送っていくよ。ほら、昨日の事もあったし…」
優介がそう言うと、雪奈はしょんぼりしたような表情になる。その表情が無性に可愛いのは言うまでも無い。
「大丈夫だよ。僕が家の前で送っていくし、朝も出来る限り迎えに行くよ」
「あ、朝は人通りが多いから襲われることはないと思うから大丈夫だよ。そ、それに乃木くんが大変だよ」
優介の押しの強い一手に、わたわたと手を振りながら雪奈は遠慮する。
「それもそうだね。じゃあ、家まで送って行くよ」
しかし、これでチェックメイトだった。
「あ、うん」
雪奈は当然、拒否することはできず頷くだけだった。
雪奈の自宅に着くまでの間、優介はなるべく話題が絶えないようにした。勿論、昨日の事件については一切触れない。話題が絶えないようにするのも、その事を思い出させないようにする気づかいだった。
「真城さんって、家はどの辺なの?」
「えっと、駅の近くだよ」
「あ、そうなんだ。それだと遠くに買い物に行く時に便利だね」
「でも、私寝るときに耳が敏感になるから電車の音が少しうるさくて」
「え? それじゃ毎晩眠れてるの?」
「一応、音楽とかかけてなるべく聞こえないようにしてるから一応眠れてるよ」
お互いの身近な事に関して話している内に、いつの間にか雪奈の家まで来ていた。
「あ、ここが私の家だよ」
雪奈が示す先は、マンションだった。
「真城さんって、一人暮らしなの…?」
「うん。私の両親は交通事故で死んじゃったから」
優介は内心、しくじったと自分の発言を悔いた。
「ごめん。嫌な事聞いちゃったね…」
「いいよ。全然気にしてないから」
そう言いつつも、雪奈の表情はどこか寂しげだった。
「じゃあ、また明日ね」
「うん、また明日」
別れの言葉を交わし、雪奈はエレベーターの中へと入っていった。優介は下から、雪奈がちゃんと自宅の鍵を開け、入って行ったのを確認すると、帰路についた。
「一刻も早く、犯人を捕まえないとね…」
優介は、深刻な面持ちで一人呟く。
9
「なぁ、一体どういうことなんだ、優介…」
翌日、優介が学校に来た時に、響也の第一声はこれだった。
「どういうって、何が?」
優介はわけが分からず訊ね返すと、響也は机を思い切り叩く。
「お前、他人にやたらアレ使わないんじゃなかったのかよ!?」
「うん、そうだけど…」
優介はそう言いつつも、昨日の雪奈とのやり取りを思い出す。
「じゃあ何で、お前が学校近くで鼎先輩と紅茶嗜みながら楽しく談笑してるんだよ!!」 あぁ、と優介は納得した。つまり響也はとんだ勘違いをしているなと。当然、おとといの件を教えていないのだから無理もない。
「響也、真面目に聞いてくれ」
「まさか鼎先輩に告白されたとか言うんじゃねえよな…」
半分ふざけて訊ねるが、優介の表情から意図をくみ取り、響也も真剣な表情になる。
それから優介は、おとといの出来事をありのままに話した。
「そうか…。そんなことがあったのか…」
響也は難しそうな表情のまま唸っていた。
「だから、無理は承知でのお願いだけど、協力してほしいんだ」
今回の件は、最悪命に関わる。優介だって、響也だって、命を落とす可能性はゼロじゃない。
「ったく、何を世迷言を…。友達が助けを求めているのに、どこに断る奴がいるってんだよ」
響也はにかりと笑って快く承諾してくれた。
「但し、これは貸しだからな。後で写真集いいやつ頼むぜ」
カッコいい事を言ったくせに見返りを求めてくる響也だった。
10
翌日の放課後、優介は雪奈に鼎を会わせることにした。初めて顔を合わせた時、雪奈は鼎の美貌に同性でありながらも見惚れていたが、すぐに打ち解けたようだった。それも、優介が二人の会話の合間を縫ってそうなるように仕向けたからだった。
「あ、私そろそろバイトに行かないといけないから。それじゃね」
「「はい。また明日」」 足早に帰っていく先輩の背中を見送り終えると、優介は口を開いた。
「真城さんからして、先輩、どうだった?」
鼎は、今回の件に関して数少ない関係者であり、協力者だ。協力者が本人に良く思われていなくては話にならない。
「すごく優しそうな先輩だったよ。それに何だか、お姉さんみたいで、鼎先輩の事、好きになれそう」
雪奈はすごく嬉しそうにそう言った。
「そう、それは良かった。きっと先輩は僕以上に頼りになると思うよ」
「そんなこと無いよ。その、乃木くんも…ね?」
何か言おうとした雪奈だったが、途中で恥ずかしそうに濁し、最終的にははにかんで誤魔化した。優介はそれを見て、可愛いと思ってしまったのは言うまでもない。このまま何も起こらないままでほしい。雪奈の笑顔にときめきつつも優介は切実にそう願った。しかし、優介は気付かなかった。物語の真相が刻一刻と迫り、終焉を告げようとしている事に。
11
あの事件から数日たったある日、優介は先生に頼まれごとをするために、雪奈と一緒に変える事が出来なかった。そこに、鼎先輩がやって来た。優介は事情を説明し、先輩に様子を見てもらえるように頼んだ。
「じゃあ私、真城さんの様子を見てくるわね」
「はい。よろしくお願いします、先輩」 そんなやり取りを交わして、鼎は教室をあとにした。先輩の背中を見お売り終えた後、優介は頼まれごとを早く終わらせようと奮闘していた。その途中、突然違和感のようなモヤモヤが優介の胸にかかり始めた。例えるなら、パズルの最後のピースが合わないような感覚。
(何だろう。この胸騒ぎは…)
その時、ある疑問が優介の中をよぎった。
(そう言えば僕、先輩に真城さんの家教えてない。なのにどうして…)
家が分かるのか。その答えは明白だった。優介は慌てて鼎に電話を掛けた。しかし、電源は切られていて、鼎は出なかった。
「くそっ!」
優介は一目散に学校を飛び出し、真城の自宅を目指して走り出した。それから、響也に電話を掛ける。
『どうした優介。今俺―――』
「学校にいるのは分かってる! どうせ忘れ物でもしたんだろ! そんなことより今、三年生の授業に体育があるか調べてくれ!」
『いや、それなら分かる。今三年生は受験勉強に打ち込む為に体育の授業はやっていないはずだが――』
優介は戦慄した。鼎は、嘘をついていたのだ。何故嘘をついたのか、その理由はあまりにも明白すぎた。
「響也! 黒露先輩が今回の犯人だ!」
『はっ!?』
ケータイの向こうから素っ頓狂な声が返って来た。
『嘘だろ!? だって鼎先輩―――』
「いや、間違いない! 今真城の家に向かってる! お前は真城の家分からないだろうから大人しくしてろ! いいか、警察沙汰にはするなよ!」
『で、でもよ―――』
「いいな!」
優介は強引に電話を切り、走り続ける。
(間に会ってくれ!)
肌を切り裂かんばかりに冷たい空気を掻き分け、優介は必死で雪奈の家を目指した。
12
ピンポーン。
雪奈の家のインターホンが鳴った。
「誰だろう…」
もしかしたら、不審者かも…。そんな不安が頭を離れず、雪奈はチェーンを掛けたまま扉を開ける。
「大丈夫、私よ、雪奈ちゃん」 扉の外にいたのは、優しそうな表情をした鼎だった。
「あ、鼎先輩。すみません。今、開けますね」
一旦ドアを閉め、チェーンを外してから再び開ける。
「どうぞ先輩。飲み物くらいしかもてなせないですけど…」
「気にしなくて大丈夫。雪奈ちゃんを守るのは、先輩として当然じゃない」
苦笑いする雪奈に、鼎は優しく語りかける。
「あ、ありがとうございます…」
雪奈は頬を赤らめ、嬉しそうに笑った。
「何もないですけど…。あ、どうぞ上がってください」
雪奈はうわずった口調で鼎を家の中へと招き入れる。
「じゃあ、お邪魔します」
鼎は、靴を並べ、雪奈の家に上がる。
「あ、どうぞ遠慮なく座ってください」
鼎をリビングに招いた雪奈は、ソファに座るように促す。
「ん、ありがとう」
鼎はソファに座り、ふぅと息を吐く。
「じゃあ、お茶入れますね」
と、雪奈は背を向け、冷蔵庫を開ける。その時、部屋中の電気が消えた。
「きゃっ!」
雪奈は短い悲鳴をあげ、その拍子にお茶の入ったペットボトルを落としてしまう。
「な、何!? 停電!?」
違った。窓の外からは街の明かりが見える。
「ブレーカーは!?」
そう言って振り返った時、目の前に誰かがいるのがいた。
「きゃあっ!」
雪奈は押し倒され、身動きを封じられた。
「だ、誰…?」
答えは分かっていた。この家にいるのは雪奈を除いて一人しかいない。
「か、鼎先輩…!?」
外の明かりにうっすら浮かび上がった鼎の笑顔は、酷く冷たいものだった。
「うふふふ…。遂にこの時が来たわ…」
(な、何を…)
そう思った瞬間、鼎の両手が雪奈の首を捕えた。
「かはっ」
気道が塞がれ、息が詰まる。
「鼎、先輩…」
必死に振りほどこうとするも、全く動かす事が出来ない。
「安心しなさい。直ぐに終わるから…」
うすら笑う鼎に、雪奈は涙をこぼす。様々な感情が、涙となってあふれ出す。その内、視界がかすみ、意識が遠のいてきた。その途端、視界が一気に白く塗りつぶされた。意識が飛んだわけではない。部屋の明かりがついたのだ。
「先輩、もういい加減にしたらどうなんですか?」
鼎はハッとして、振り返る。その先には、肩を上下させる優介の姿があった。
「どうしてここに…」
「先輩の言動に矛盾があったからですよ」
その時、鼎の表情が僅かに歪む。
「な、何の事かしら――」
「とぼけないでください。貴方のその怪我、本当は僕に突き飛ばされて机にぶつけた時のじゃないですか?」
優介は、じりと一歩距離を詰める。
「こ、これは体育の授業で―――」
「この時期三年生は受験の為に体育の授業はないはずです」
優介は鼎に反論させる暇を与えない。鼎は、もう欺けないと思ったのか、急に不気味な笑みを浮かべる。
「…あ~あ、ばれちゃったようね。残りのも面倒だから説明して頂戴」
鼎は身を翻し、我が物顔でソファに座る。優介は眉をひそめる。
「僕は探偵じゃないので説明は割愛します。そんなことより、僕は貴方の動機が知りたいんです」
じっと鼎を見据え、鼎の返答を待つ。
「…決まってるじゃない。その子が許せなかったからよ」
絞り出すような声で、鼎は言った。
「許せなかった…?」
優介は、鼎の意図が全く読めなかった。赤の他人である雪奈に、そんな殺意抱く程の事をされたとは、優介には思えなかった。
「私とその子はね、従姉妹同士なのよ」
「「え…?」」
優介どころか、雪奈まで驚いた。
「え、どういうことですか?」
雪奈が鼎と最初に会った時、雪奈は初対面のような反応を見せた。それなら、雪奈と鼎が従姉妹同士であるのは可笑しい。
「教えてあげるわ。その子は、事故で記憶喪失になったのよ」
記憶喪失。身内に対する言葉とは思えない程、先輩は他人事のように言った。
「記憶喪失って――」
絶句する優介に、鼎は淡々と説明を続ける。
「三年前、その子は交通事故で両親を失って私の家に引き取られたの。そしてその一年後、私が友達の家に遊びに行っている間に、そのこと私の家族は買い物に行く途中に交通事故にあった。両親は即死し、その子は記憶喪失になったわ」
二人の抱える過去は、優介の想像をはるかに絶するものだった。優介は、どう言ったらいいか分からなかった。
「しかもね、その日は私の誕生日だったのよ。自分が生まれた日に両親が死ぬとか、洒落にならないわよね。その時私は思ったの。その子は不幸を招く疫病神で、神に見捨てられた子だってね」
嘲笑するように鼎は言った。優介も雪奈も、一言も口を開く事が出来ない。
「だから私は、その子が沢山の人に不幸を振り撒く前に、殺してあげるの」
そう言って、鼎は懐からナイフを取り出した。
「あんたの所為で、私の両親は死んだの。あんたさえいなければ…あんたさえ来なければ!」
鼎は激昂し、雪奈にナイフを向けて突っ込む。
―――ザクッ
そんな音がした直後、床に数滴の血が落ちる。
「どう、して…?」
鼎は、自分の目が信じられなかった。優介が、自分の目の前にいる。しかも、自分の体を盾にしてだ。あの状況なら、優介は鼎の手を掴んで取り押さえられたはず。なのに、優介はそうしなかった。
「これなら、僕の話を聞いてくれると思いましてね」
苦しそうに、優介は笑った。鼎はその笑顔に恐怖を覚え、後ずさる。
「あっと、そのナイフは抜かないで下さい。抜いたら僕、出血多量で死んじゃうので」
そんな事を、優介はへらへらとした態度で言ってのける。刺された拍子に、ネジが飛んだのだろうか。そう思う程、優介は平然としていた。
「乃木くん、あなた…可笑しいわ」
そんな優介を見て、鼎は戦慄した。
「本当は、僕だって死ぬのは怖いです。だから、自殺なんて出来ませんよ。でも、死ぬこと以上に、真城さんが殺されるとや先輩を人殺しになるのを黙って見ている事はもっとできなかった。それだけです」
まるで道化だった。他人の幸せの為に、優介は身を呈した。その上、そんなきれいごとまで並べて、優介はどこまでも道化だった。
「わ、私は、殺す覚悟は、できていた。だから、人殺しと呼ばれようと私は―――」
「でも、先輩の学校の生徒が全員そう思っているわけじゃないですよね」
鼎の言葉を遮り、優介は言った。
「人殺しってのは、被害者が殺されて、加害者が裁かれて終わりじゃないんですよ。もし先輩が真城さんを殺したら、僕らが通う学校に、《殺人犯を出した高校》というレッテルが張られて、その学校に通う生徒や教師全員の人生を狂わせることになるんです。それを知っていても、先輩は真城さんを殺せますか?」
真剣な眼差しで、優介は鼎を見つめた。しかし、痛みをこらえるように表情が少し歪んでいる。実際、それは激痛だった。痛みを通り越して、焼いた鉄でも押しつけられるような《熱い》という感覚になるほどに。
だから、前向きに生きましょうよ」
優しすぎる言葉だった。鼎は、心の奥底でどうしようもない程その言葉にすがりたくなった。でも、人を殺そうとした自分にそんな権利はない。そう思っていた。
「で、でも…。私は、殺そうとしたの。私はどうしたら―――」
そんな問いかけに、優介は笑って答えた。
「そんなの簡単です。悪い事をしたらまず、謝ればいいんです。それで相手が許してくれれば万事オッケーです」
鼎は、雪奈の方に向き直る。雪奈は、怯えたような表情で鼎を見ていた。そんな雪奈の前で鼎は、正座し、両手を膝の前に置き、深々と頭を下げた。土下座だった。
「本当に、ごめんなさい。私はあなたを殺そうとした。許されることじゃないって分かってる。でも、ごめんなさい」
涙をこぼして、鼎は謝り続けた。そんな鼎に、雪奈は少しずつ歩み寄り、ふわりと優しく抱きしめた。
「私の方こそごめんなさい。私だけ辛いことを都合のいいように忘れて、苦しめて。怖いけど、出来るだけ思い出せるように頑張るから、だから、傍で私を支えてね、鼎お姉ちゃん」
雪奈は、鼎を許したのだ。死の恐怖に晒した相手を、許した。決して簡単な事じゃない。それでも、雪奈は鼎を許した。
「雪奈ちゃん。本当にごめんなさい。ごめんなさい」
鼎は雪奈を抱きしめ返し、涙腺を決壊させて嗚咽をあげていた。雪奈もまた、小さく微笑みながら涙を流していた。
「あの〜。感動のシーンの最中にすみません」
とても空気が読めてないタイミングで、優介が口を開いた。ふたりはぴたりと泣き止み、優介を見る。
「その、ちょっとやばくなってきたんで、救急車呼んでもらえますか?」
そこまで言ったところで、優介はその場に倒れた。
13
「しっかし、良く死ななかったなお前」
見舞いに来た響也は、ため息交じりにそう言った。
「いや、刺されたと言っても急所はちゃんと外したからね。それに、出血も最小限に抑えたし」
とんでもないことをへらへらと言ってのける優介に、響也はさらにため息をつく。
「でも、死にそうになったのは確かだろ? 今のお前なら、電車に撥ねられた志賀直哉の気持ちが良く分かるんじゃねえか?」
「確かにそうかも」
二人は愉快に笑った。優介は、こうして親友と楽しく談笑できる日常に戻って来た事が嬉しかった。
「そう言えば、その傷は何て言ったんだ? 流石にナイフで刺された事はごまかせないだろう」
響也はきっと、鼎の身を案じているのだろう。友人のささやかな優しさに、優介は答えた。
「あぁ、それなら友人の家で料理をしていた時に、誤って転倒して刺さってしまったって。説明しておいた」
「おいおい、いくらなんでも嘘だってばれるだろ」
「でも、僕の意図を察してくれたみたいだし、それ以上の言及はされなかったよ」
にへらと笑う優介に、響也は思わず苦笑いする。
「お前のその肝の据わり具合はただ者じゃねえよ」
皮肉って見せる響也に、何か言い返そうとした時、
「失礼します」
雪奈が病室に入って来た。
「あ、真城さん。あれ、先輩は?」
「鼎お姉ちゃんは、用事があるので後から来るそうです」
「そっか」
意外と紳士的な響也は、すかさず席を譲り、荷物を持つ。
「これって何が入ってるんだ?」
「あ、それはアップルパイです。私が焼いて来たんですよ」
響也の問いに、雪奈は嬉しそうに答える。
「くっそ~。お見舞いで手作りお菓子を食わせてもらえるなんて、どんだけリア充なんだよお前!」
ワナワナと肩を震わせる響也に、雪奈は苦笑気味に付け足す。
「大丈夫ですよ。加賀美君も来ると知ってたので、皆で食べられるように大きい奴を焼いてきました」
「マジか!? 真城さんマジ天使だ!!」
お菓子程度でどれだけ喜んでるんだよ。と苦笑いしつつ、優介はアップルパイの入れ物を開ける。
「うわぁ、美味しそうだね」
「マジぱねぇ…」
「そ、そんなことないですよ」
二人の率直な感想に雪奈は頬を赤らめる。しかし、頬の緩みは全く隠せていなかった。
「さ、美味しさが逃げない内に食べようか」
「そうだな。それがいい」
「じゃあ、存分に召し上がってください」
雪奈は、持参していた器具でアップルパイを切り分け、二人に渡す。
「「いっただっきま~す!」」
二人はパクリと、一口でアップルパイをたいらげる。
「「こ、これは…!」」
それだけを言い残し、二人はそのまま倒れてしまった。
「えぇ!? 大丈夫ですか!?」
雪奈は仰天しつつも、二人を揺する。
その後、優介の入院期間が伸びだことと、響也まで入院することになったのは言うまでも無かった。
はじめまして。月見里夕夜です。初投稿してみました。最近書き始めて、これからここ載せていこうと思い、載せてみました。
今作品で、あえて事件のトリックを書かないでみたのですが、皆様は分かったでしょうか?
事件のトリックを解きつつ読んで頂ければ幸いです。
まだ、右も左も分からない月見里です。良ければこんな自分にアドバイスや感想を送りつけてやってください。
最後に、月見里の稚拙な文章に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。