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春愁 (読み切り)

作者: San
掲載日:2026/05/03

朝、目が覚める。


静かだ。

音がないわけじゃない。遠くで車が走る音も、隣の部屋の生活音も、ちゃんとある。けど、それらは全部、薄い膜を一枚挟んだ向こう側みたいに遠い。


体を起こす。


昨日の夜の記憶はある。あるはずなのに、どこか他人事みたいだ。

笑っていた気もするし、誰かと話していた気もする。でも、それが自分だったという実感が、うまく繋がらない。


キッチンに立つ。


冷蔵庫を開けると、冷気がゆっくりと流れ出てくる。

卵と、少しだけ残った野菜。特別なものはない。


フライパンを火にかける。


油のはじける音が、小さく響く。

その音だけが、この部屋で“今ここにいる自分”を証明している気がする。


料理をして、食べる。

味はわかる。ちゃんと塩気もあるし、温かい。


でも――満たされている感じはしない。


食べ終わって、皿をそのままにして、ソファに座る。


リモコンを手に取る。

映画を流す。


映像が流れる。音が流れる。人が泣いて、怒って、笑っている。


その全部が、やけに遠い。


「……こんなもんか」


小さく呟く。


それが誰に向けた言葉なのか、自分でもわからない。


――昼の自分は、こういう時間でできている。


薄くて、静かで、どこか手応えのない時間。


気づけば、時計の針は午後を指している。


体を起こす。


準備をする。


服を着替えて、外に出る。


ドアを閉めた瞬間、少しだけ現実が近づく。


電車に乗る。


人が増えていく。音が増えていく。

話し声、足音、アナウンス。


それらが、少しずつ自分の中に入り込んでくる。


街に着く。


ここは、自分の家のある場所とは全然違う。

明るい。うるさい。人が多い。


看板の光、店から漏れる音、笑い声。

全部が強い。


店に入る。


「おはよー」


声が飛んでくる。


「おはようございます」


自然と、声が出る。


昼の自分とは違う声。


少しだけ明るくて、少しだけ軽い。


エプロンをつける。


店内はもう、準備の音で満ちている。


皿の触れ合う音。

油の焼ける音。

誰かが笑う声。


「今日、団体入るからねー」


「分かりました」


即答する。


考える前に、体が動く。


――夜の自分は、こうやって始まる。


開店。


客が入ってくる。


「いらっしゃいませー!」


声が出る。

驚くくらい、はっきりと。


注文を取る。


「生二つね、了解です」


笑う。


相手も笑う。


会話が続く。


「今日仕事帰りですか?」


「そうそう、もう疲れてさー」


「お疲れ様です、ゆっくりしてってください」


言葉が、自然に出る。


嘘じゃない。

でも、全部が本音かと言われると、わからない。




笑いが起きる。


自分も笑っている。


その瞬間、確かに“ここにいる”感じがある。


皿を運ぶ。

注文をさばく。

声を出す。


忙しくなるほど、頭はクリアになる。


考えなくていい。

ただ動けばいい。


――この時間の方が、自分は“ちゃんとしている”。


ふと、思う。



「どうした?」


同僚が声をかける。


「あ、いや、大丈夫です」


すぐに返す。


考えるのをやめる。


忙しさに戻る。


夜は、それを許してくれる。


閉店。


店の音が、ゆっくりと消えていく。


さっきまでの熱が、嘘みたいに引いていく。


「お疲れー」


「お疲れ様です」


笑って、店を出る。


外はまだ明るい。夜の街の光が、強く残っている。


でも、さっきまでの自分は、もういない。


歩きながら、思う。


さっき笑っていた自分は、本当に自分だったのか。



電車に乗る。


人は少ない。


音も減る。


家に近づくほど、静けさが戻ってくる。


部屋に入る。


ドアを閉める。


――戻ってきた。



ソファに座る。


部屋は昼と同じまま。


何も変わっていない。


でも、自分の中には、さっきまでの夜が残っている。


笑っていた感覚。

誰かと話していた温度。


それが、少しずつ冷えていく。


昼の静けさ。

夜の賑やかさ。


どちらも自分なのに、どちらも自分じゃない気がする。


翌日。


目が覚める。


また、静かな朝。


でも今日は、少し違う。


昨日の夜の記憶が、ぶんやりと残っている。



同僚の声。

自分が笑った瞬間。

記憶


それが、まるで“他人の人生”みたいに…


小さく呟く。


それが自分だと、頭ではわかっているのに。


感覚が、拒否する。


その日、昼の時間は長く感じた。



午後。


外に出る。


電車に乗る。


街に向かう。


店の前に立つ。


扉に手をかける。


一瞬、止まる。


このまま入れば、また笑う自分になる。


入らなければ、静かな自分のまま。


どちらが本当かなんて、もうわからない。


でも――


扉を開ける。


「おはよー!」


声が飛ぶ。


その瞬間、自然と口が動く。


「おはようございます」


また、夜が始まる。



皿を持つ手が、ほんの少し止まる。


「どうした?」


また聞かれる。


「……いえ」


閉店後。


店の裏口で、一人になる。


夜風が当たる。


静かだ。



家に帰る。


眠る。


そして――


朝。


目が覚める。


静かな部屋。


いつもの光。


スマホが、手元にある。


画面を開く。


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