春愁 (読み切り)
朝、目が覚める。
静かだ。
音がないわけじゃない。遠くで車が走る音も、隣の部屋の生活音も、ちゃんとある。けど、それらは全部、薄い膜を一枚挟んだ向こう側みたいに遠い。
体を起こす。
昨日の夜の記憶はある。あるはずなのに、どこか他人事みたいだ。
笑っていた気もするし、誰かと話していた気もする。でも、それが自分だったという実感が、うまく繋がらない。
キッチンに立つ。
冷蔵庫を開けると、冷気がゆっくりと流れ出てくる。
卵と、少しだけ残った野菜。特別なものはない。
フライパンを火にかける。
油のはじける音が、小さく響く。
その音だけが、この部屋で“今ここにいる自分”を証明している気がする。
料理をして、食べる。
味はわかる。ちゃんと塩気もあるし、温かい。
でも――満たされている感じはしない。
食べ終わって、皿をそのままにして、ソファに座る。
リモコンを手に取る。
映画を流す。
映像が流れる。音が流れる。人が泣いて、怒って、笑っている。
その全部が、やけに遠い。
「……こんなもんか」
小さく呟く。
それが誰に向けた言葉なのか、自分でもわからない。
――昼の自分は、こういう時間でできている。
薄くて、静かで、どこか手応えのない時間。
気づけば、時計の針は午後を指している。
体を起こす。
準備をする。
服を着替えて、外に出る。
ドアを閉めた瞬間、少しだけ現実が近づく。
電車に乗る。
人が増えていく。音が増えていく。
話し声、足音、アナウンス。
それらが、少しずつ自分の中に入り込んでくる。
街に着く。
ここは、自分の家のある場所とは全然違う。
明るい。うるさい。人が多い。
看板の光、店から漏れる音、笑い声。
全部が強い。
店に入る。
「おはよー」
声が飛んでくる。
「おはようございます」
自然と、声が出る。
昼の自分とは違う声。
少しだけ明るくて、少しだけ軽い。
エプロンをつける。
店内はもう、準備の音で満ちている。
皿の触れ合う音。
油の焼ける音。
誰かが笑う声。
「今日、団体入るからねー」
「分かりました」
即答する。
考える前に、体が動く。
――夜の自分は、こうやって始まる。
開店。
客が入ってくる。
「いらっしゃいませー!」
声が出る。
驚くくらい、はっきりと。
注文を取る。
「生二つね、了解です」
笑う。
相手も笑う。
会話が続く。
「今日仕事帰りですか?」
「そうそう、もう疲れてさー」
「お疲れ様です、ゆっくりしてってください」
言葉が、自然に出る。
嘘じゃない。
でも、全部が本音かと言われると、わからない。
笑いが起きる。
自分も笑っている。
その瞬間、確かに“ここにいる”感じがある。
皿を運ぶ。
注文をさばく。
声を出す。
忙しくなるほど、頭はクリアになる。
考えなくていい。
ただ動けばいい。
――この時間の方が、自分は“ちゃんとしている”。
ふと、思う。
「どうした?」
同僚が声をかける。
「あ、いや、大丈夫です」
すぐに返す。
考えるのをやめる。
忙しさに戻る。
夜は、それを許してくれる。
閉店。
店の音が、ゆっくりと消えていく。
さっきまでの熱が、嘘みたいに引いていく。
「お疲れー」
「お疲れ様です」
笑って、店を出る。
外はまだ明るい。夜の街の光が、強く残っている。
でも、さっきまでの自分は、もういない。
歩きながら、思う。
さっき笑っていた自分は、本当に自分だったのか。
電車に乗る。
人は少ない。
音も減る。
家に近づくほど、静けさが戻ってくる。
部屋に入る。
ドアを閉める。
――戻ってきた。
ソファに座る。
部屋は昼と同じまま。
何も変わっていない。
でも、自分の中には、さっきまでの夜が残っている。
笑っていた感覚。
誰かと話していた温度。
それが、少しずつ冷えていく。
昼の静けさ。
夜の賑やかさ。
どちらも自分なのに、どちらも自分じゃない気がする。
翌日。
目が覚める。
また、静かな朝。
でも今日は、少し違う。
昨日の夜の記憶が、ぶんやりと残っている。
同僚の声。
自分が笑った瞬間。
記憶
それが、まるで“他人の人生”みたいに…
小さく呟く。
それが自分だと、頭ではわかっているのに。
感覚が、拒否する。
その日、昼の時間は長く感じた。
午後。
外に出る。
電車に乗る。
街に向かう。
店の前に立つ。
扉に手をかける。
一瞬、止まる。
このまま入れば、また笑う自分になる。
入らなければ、静かな自分のまま。
どちらが本当かなんて、もうわからない。
でも――
扉を開ける。
「おはよー!」
声が飛ぶ。
その瞬間、自然と口が動く。
「おはようございます」
また、夜が始まる。
皿を持つ手が、ほんの少し止まる。
「どうした?」
また聞かれる。
「……いえ」
閉店後。
店の裏口で、一人になる。
夜風が当たる。
静かだ。
家に帰る。
眠る。
そして――
朝。
目が覚める。
静かな部屋。
いつもの光。
スマホが、手元にある。
画面を開く。




