今この瞬間(完)
インターホンの音が、やけに大きく響いたような気がしていた。
押したあとで、遅れて実感が追いついてくる。
もう、引き返せない。
『……はい』
スピーカー越しの、少し低い聞き慣れた声。
それだけで、胸の奥が強く鳴る。
「俺だけど」
一瞬の沈黙。
それから、小さく息を吐く音がした。
『……今、開ける』
それだけを言って、通話が切れる。
ほどなくして、オートロックが解錠される音がした。
部屋の前に立つと、ノックをする前に扉が開いた。
テルヤが立っていた。
部屋の明かりを背にして、その輪郭が少しだけ滲んで見えた。
「……なんだよ、急に」
ひどく、ぶっきらぼうな声だった。
「……話を、したくて」
かろうじて出た声は、ひどく震えていた。
テルヤは少しだけこちらを見て、それからドアをもう少し開けた。
「入れば?」
とても、短い言葉だった。
そのまま、部屋に入る。
いつもと同じ匂い、いつもと同じ温度であるはずだというのに、心臓の音だけがやけにうるさい。
ドアが閉まる音がして、逃げ場がなくなったような気がした。
少しだけ距離を置いて、テルヤと向き合う。
「この前の話……。ちゃんと、答えてなかったから」
喉がひどく乾いていく。
それでも、止めることはできなかった。
言葉を止めてしまえば、また同じことを繰り返してしまうような気がしたからだ。
「俺、怖いんだ……」
その一言で、少しだけ空気が揺れる。
テルヤの表情が、ほんのわずかに変わっていく。
「また、ダメになるかもしれないし……」
言葉が、少しずつ形になっていく。
「周りにどう思われるかとか、そういうのも……正直、まだ気になる……」
情けないくらい、全てがそのまま出てきてしまう。
「祝福されないかもしれない。……でも、それでも……」
視線を逸らさずに、テルヤを見る。
俺は、逃げずに向き合うと決めていたから。
「それでも、お前となら……付き合いたい……」
部屋の空気が、わずかに止まる。
テルヤは、しばらく何も言わなかった。
その沈黙が、ひどく長いものであるかのように感じられた。
――やっぱり、遅かったのかもしれない。
そのような考えが、頭をよぎる。
もう、別の誰かにその心は向かっているのかもしれないと。
そう、思いかけた時だった。
「……おせーよ」
ぽつりと、声が落ちた。
顔を上げると、テルヤは少しだけ困ったような顔をしていた。
でも、その目は逸れていない。
「お前さあ……、何日考えてんだよ」
呆れたように、そう言った。
「悪い」
「まあ、いいけど」
テルヤは軽く息を吐いて、一歩近づいた。
「さっきの、もう一回言ってくんねー?」
「……は?」
思わず、間の抜けた声が出てしまう。
「ちゃんと聞きたいんだ、もう一回」
その真っ直ぐな目に、少しだけ笑いそうになってしまう。
このような状況であるというのに、テルヤらしいと思ってしまう。
俺は小さく、息を整えた。
「……怖いのは、変わらないけどさ。でも、それでもいいって思えたの……お前が初めてだから」
そして少しだけ間を置いて、俺は、はっきりとこう言った。
「だから、付き合いたい」
テルヤは、それを聞いて、小さく笑った。
「最初から、そう言えよ」
呆れたような声だった。
でもその奥に、安堵みたいなものが見えたような気がしていた。
「別れるかどうかなんて、付き合ってから考えりゃいいだろ?」
あっけないくらい、単純な言葉だった。
でもその単純さが、すとんと胸に落ちていく。
未来のことを、全て考えなくてもいい。
今、この瞬間の選択だけでいい。
なぜだか、そう思えた。
小さく頷けば、テルヤが俺に向けて手を伸ばした。
その手が、腕に触れていく。
たったそれだけであるというのに、前とは違うような感触がした。
まるで、意味が変わったかのように。
この関係に、名前がついたからだろうか。
そのまま、少しだけ引き寄せられる。
確かめるように、静かに近づく。触れるか触れないかの距離で、ふと止まる。
それからほんの少しだけ、額が触れた。
それだけで、充分すぎるほどだった。
――今は、この距離だけでいい。
部屋の中は、相変わらず少しだけ温度が高い。
でもその温度は、もう嫌じゃなかった。
むしろ、落ち着くくらいに。愛おしいと思えてしまった。
外では、相変わらず車の音が流れていた。
世界は、何も変わっていない。
祝福される場所も、されないような場所も、そのままそこに存在していた。
――でも、それでも。
ここで選んだものは、確かに自分のものだった。
いつものように、狭いソファに並んで座る。
ほんの少しだけ、肩が触れる。
それを、避けようとはしなかった。
そのまま、何も言わずに時間が流れる。
特別なことは、何も起きない。
でも、それでいいと思えてしまう。
例え、祝福されなくてもいい。
そう思えたのは、初めてだった。
完




