逃げることはできない
それから、顔を合わせない時間が増えていく。
決して、意図的に避けているわけではない。
そう言い聞かせられる程度には、理由はいくらでもあった。
仕事が忙しいとか、疲れているとか、天気が悪いだとか。どれも、嘘ではなかったからだ。
ただそれを選んでいるのが自分だということも、わかっていた。
テルヤから連絡が来るようなことも、前より減った。
来たとしても、ひどく短い用件だけのやり取りばかりで。
それが、悪いわけではない。
元々、俺たちはそういう関係であったはずだ。
それでもどこかで、こんなはずじゃなかったと思っている自分がいた。
***
ある夜、珍しくテルヤから電話がきた。
画面に表示された名前を見て、一瞬だけ指が止まる。
ほんの数秒迷ってから、通話ボタンを押していた。
「もしもし」
『今、平気?』
「ああ、うん……」
通話越しの空気は、直接会うときよりも、余計なものが削ぎ落とされているような気がしていた。
テルヤの声だけが、やけに近い。
『今さ、外なんだけど……。ちょっと飲んでて……」
そこで、雑音が混ざる。
誰かの笑い声や、グラスが当たる音。
その中に、テルヤの声だけが浮かんでいた。
「それで、どうした……」
『この前の、話なんだけど』
心臓が、わずかに跳ねる。
わかっていたはずなのに、いざ言葉にされると逃げ場がなくなるような気がした。
「……ああ、」
それ以上、言葉が出てこなかった。
『お前はさ、どうしたいんだ?』
ひどく、まっすぐな問いだった。
責めるわけでも、急かすわけでもない。ただ、確認するためだけの声。
「どう、って……」
時間を稼ぐように、静かに言葉を繰り返す。
その間にも、答えは出てはいなかった。
『このままでもいいのか、それとも……やめるか……』
一瞬、音が消えたような気がした。
周りの雑音も、空気のざわめきも、全てが遠くなっていく。
残ったのは、その言葉だけ。
――やめる。
簡単に言える言葉でありながらも、それが指しているものの重さを、嫌でも理解してしまう。
「……どうして、そうなるんだよ」
やっと出た声は、思っていたよりも掠れていた。
『このままだと……』
テルヤの声は、変わらなかった。
落ち着いていて、少しだけ疲れているようにも聞こえていた。
『このままだと、ただの都合いい関係じゃん?』
図星だった。
何も、言い返すことができなかった。
『俺は、それでもいいと思ってたけど……。お前は、違うだろう?』
その言葉に、胸の奥がひどく軋む。
――違う。
確かに、どこかでそう思っていた。
しかしそれを認めたら、何かを選ばなければいけなくなってしまう。
「……別に」
反射的に否定しようとして、言葉が止まる。
言ってしまえば、嘘になる。
「……わからないんだ……」
結局、それしか言うことができずにいた。
沈黙が落ちる。
電話越しの静けさが、やけに重く感じられた。
『そうか……』
テルヤは短く、そう言った。それ以上は、何も言わなかった。
『じゃあ、またな』
ぶつりと、通話は切れてしまう。
あまりにもあっさりと。
俺はスマホを見つめたまま、しばらく動くことができなかった。
それからさらに、俺たちの距離は目に見えてわかるようになっていく。
連絡は来なくなり、こちらから送るようなこともなかった。
いや、送れなかったといったほうが正しい。
何を言えばいいのかわからないまま、時間だけが過ぎていく。
その間に、日常は何事もなく進んでいく。
仕事をして、食事をして、眠る。
それなのに、ふとした瞬間にテルヤの顔を思い出す。
そのたびに、胸の奥がじわりと痛む。
***
ある日、俺は共通の知り合いと会っていた。
たいした用事ではなく、ただの飲みの場。
何気ない会話の中で、ふとその名前が出てきた。
「そういえばテルヤ、最近よく誰かといるらしいぜ」
「へえ」
特に興味のないような顔をして、俺は言葉を返していた。
「お前、何か知らねーの?」
「さあ……。あいつ、顔広いからな……」
そう笑いながら言葉を吐き出すものの、その言葉が、妙に現実味を帯びて響く。
グラスを持つ手が、少しだけ強くなる。
氷が当たって、小さく音が鳴る。
「……別に、いいんじゃないのか……?」
口から出た言葉は、驚くほど平坦だった。
しかし内心、何かが確実に崩れていた。
一人で歩く、帰り道。
夜風が少し冷たくて、頭の中は妙に静かだった。
さっき耳にした言葉が、繰り返し浮かんでは消えていく。
――もしかしたら、テルヤは誰かと過ごしているのかもしれない。
それが現実になる可能性を、今まで本気で考えたようなことがなかった。
この関係に名前がないせいで、縛られない代わりに、失われるようなこともない。
我ながら、都合のいい考えだと思う。
しかしそれはただ、自分が何も選ばなかっただけの結果だ。
そのような当たり前のことに、今さら気づく。
――もしこのまま、テルヤが別の誰かと付き合ったら……。
俺は、何も言えない。
そもそも、引き止める理由もなければ、その資格もない。
それでも、嫌だと思ってしまった。
胸の奥から、はっきりとした感情が浮かび上がる。今まで曖昧にしてきたものが、形を持ってしまうような気がしていた。
誤魔化せないくらい、はっきりと。
――好きなんだ。テルヤのことが。
ただそれを認めると、失う可能性も一緒に受け入れなければいけないから、見ないふりをしていただけだ。
全てを過去のせいにして、環境のせいにして。
祝福されないから仕方がないのだと。
その結果が、これだ。
何も持っていないまま、手の中からこぼれそうになっていく。
喉の奥が、ひどく苦しい。
それでも、足は勝手に動いていた。
一歩進むごとに、心臓の音が大きくなる。
逃げることは、もうできない。
静かに、マンションの前に立つ。
ゆっくりと見上げると、そこには明かりがついていた。
その光を目にした瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。
――まだ、間に合うのかもしれない。
なぜだか、そう思ってしまった。
インターホンの前で、指が止まる。
これを押せば、何かが変わる。押さなければ、このまま終わる。
どちらを選ぶのかは、もうわかっていた。
ゆっくりと指を伸ばして、ボタンを押した。




