眩しい光
夜の部屋は、いつも少しだけ温度が高いように感じられていた。
エアコンはつけているはずだというのに、どこか空気がよどんでいるような、肌にまとわりつくような嫌な湿り気があった。
窓の外では車の音が途切れなく流れているのに、この部屋の中だけは妙に静かで、時間の進み方がひどく遅い。
その静けさを埋めるかのように、スマートフォンの画面だけがやけに白く光っていた。
スクロールするたびに、祝福の言葉が流れていく。
『おめでとうございます!』
『素敵すぎる』
『勇気もらいました!』
画面の向こうで、推していた彼は幸せそうに笑っていた。
その隣には、背の高い整った容姿の男が。肩を寄せ合い、指を絡めて、まるでそれが当たり前であるかのように。
何枚も、そのような写真が投稿されていた。
最後に、海外の青い空の下で誰にも隠さずキスをしている写真があった。
『結婚しました』
軽く書かれた報告文の下に、何万ものいいねマークがついていた。
嬉しい、と素直に思った。
本当にそう思った。ずっと、応援してきた人だった。
画面越しにしか彼のことはよく知らないけれども、それでも彼が笑っていることが良かったと思えていた。
それなのに、その感情のすぐ隣に、じっとりとした何かが貼りついていた。
それは羨ましい、という言葉よりも、もう少し濁ったものだった。
祝福されている。
という事実そのものが、眩しく思えた。
画面を消すと、部屋は急に暗くなる。
ふと、ため息がこぼれる。
その音が、思っていたよりも重く響く。
――俺は恐らく、あのような場所に立つことはないだろう。
そういう確信めいたものが、どこか初めからあった。
スマホをテーブルに置くと、グラスの中の氷が小さく鳴った。
溶けかけて、角が丸くなっていた。
俺には昔、男の恋人がいた。
今より少し若くて、まだいろいろなことに期待をして夢をみていた純粋なあの頃。
手を繋ぐこと一つで、いちいち胸がざわついていたような時期に。
彼は、よく笑う人だった。
大きな声ではしゃぐわけではないけれど、目元が緩んで、口角が少しだけ上がる。
その表情を見るたびに、好きだと素直に思えていた。
ただ、一緒にいられるだけでよかった。
それ以上を望むほど、現実が優しくないことも、なんとなくわかっていたからだ。
けれど周囲は、は思っていた以上に容赦がなかった。
軽い冗談のつもりで投げられる言葉、悪気のない無理解。
見えないところでひそひそと交わされる視線。
直接、何かをされたわけじゃない。暴力も、露骨な拒絶もなかった。
ただ、空気が違っていた。
そこにいるだけで、何かが少しずつ削られていくような苦しさ。
彼は、それを正面から受け止めるには優しすぎるほどの人間だった。
ある夜、ぽつりとこう言った。
「普通に、なれたらよかったのにな……」
その言葉に、何も返すことができなかった。
否定をすることも、肯定をするようなことも、できなかった。
そのまま、少しずつ距離が開いていった。
どちらかが悪いわけでもなく、ただ続けることができなかっただけ。
それでも終わったあとに残ったものは、思っていたよりもずっと大きなものだった。
——好きでも、どうにもならないことがある。
それを、知ってしまったのだ。
グラスの水を飲み干すと、喉を通る感覚がやけに生々しく感じられた。
そこで、鍵が開く音がした。
玄関のドアが開いて、一つの足音が近づいてくる。
「ただいまー」
やけに気の抜けた声に振り返ると、テルヤが靴を脱ぎながらこちらを見ていた。
少しだけ汗ばんだ髪をして、コンビニの袋を片手にぶら下げていた。
「お、なんか飲んでた?」
「もうない」
「じゃ、これ使うか?」
袋から何本か酒の缶を取り出して、テーブルに置いていく。
ひどく、軽い音がした。
そのまま、俺の隣に腰を下ろす。
肩と肩がぶつかっても、俺たちは何も気にしない。
テルヤとは、もう五年になる。
付き合っているわけでもないのに、妙に長い時間を一緒に過ごしているような気がした。
最初は、ただの一夜だった。
それが何度か続いて、気づけば連絡を取り合うようになって、気づけばこうして部屋にいることが当たり前になっていた。
互いに顔を合わせないような期間があっても、不思議とまた、戻ってくる。
良く言えば、名前のない関係。悪く言えば、セフレ。
俺たちには、それがちょうどよかった。
「何見てたんだ?」
テルヤがスマホに、視線を落とす。
「推しが、結婚した」
「へえ」
興味があるのかないのか、わからないような相槌だった。
「……男同士で、海外で」
そう付け加えると、テルヤは少しだけ眉を上げた。
「へえ、いいじゃん!」
いつものような軽い調子に、少しだけ引っかかる。
いいじゃん。
それだけで済む人間と、済まない人間がいる。
「……お前はさ、そういうの、どう思う?」
我ながら、どうしてそんなことを聞いたのかが、わからなかった。
それでもテルヤは少し考えるように間を置いてから、肩をすくめてみせた。
「別に?好き合ってて金もあるなら、いいんじゃねーの?」
あまりにも簡単すぎる答えに、思わずため息をついてしまう。
けれどその軽さが、少しだけ救いであるかのようにも思えていた。
「そうか……」
深く考えていないからこそ、否定もしない。
その曖昧さの中にいられることが、楽だった。
それ以上、話が続くようなことはなかった。
缶を開ける音がして、炭酸の弾ける気配が広がる。
テルヤの腕が、ふと俺の腕に触れた。
それだけで、相手の温度が伝わってくる。
昔みたいに、そこに意味を探すようなことはもうない。
ただ、温かいと思うだけだ。
それだけで、充分だった。この距離なら、壊れはしない。
名前をつけないから、失うようなこともない。
――そう、思っていた。
空き缶が床に転がる頃、テルヤがソファに体を預けた。
「今日、泊まってくか?」
いつもの調子で聞いてみると、同じような声が返る。
「別に、いいけど……」
それ以上でも、それ以下でもないやり取り。
けれど、その曖昧さが心地よかった。
俺たちの夜は、まだ長い。
窓の外の光は途切れることがなくて、部屋の中は相変わらず少しだけ温度が高い。
静かに抱き合って、肌を重ねて、欲望をぶつけて、求めては静かに離れていく。
それはどこにも行かない関係であって、どこにも行けない関係でもあった。
それでも、テルヤの隣で眠りにつく間だけは、何も考えなくてもいい。
スマホの画面に映っていた祝福の光景は、もう思い出さないようにしていた。
見なくてもいい世界がある、触れなくてもいい未来がある。
そうやって、これまでだって線を引いてきたはずだった。
「……なあ」
ふいに、テルヤの声が低く響く。
視線を向けると、思っていたより近い距離に顔があった。
普段あまり見せない、ひどく真剣な表情をしてこう言った。
「俺たち、……付き合わねー?」
空気が、わずかに変わった気がした。
部屋の温度は同じはずであるというのに、うまく息をすることができなかった。
テルヤが言わんとする言葉の意味はわかる。
それでも、その言葉が指している未来をうまく想像することができずにいた。
付き合う、ということ。
すなわち、この関係に名前がつくということ。
そして、終わりが前提になるのだということ。
言葉が、出なかった。
テルヤはそれ以上何も言わずに、ただこちらを真っ直ぐに見つめていた。
沈黙の中で、過去の記憶がじわりと滲み出す。
あのときの別れに、どうにもならなかった現実。
祝福されない関係に、それでも好きだった感情。
その全てが絡み合い、足を止める。
何かを言わなければならないというのに、何を言えばいいのかが、わからなかった。
結局何も返せずに、ただ、視線を逸らすだけ。
「ま、考えといて……」
その一瞬で、何かが少しだけ崩れたような気がしていた。
ほんのわずかに。しかし、確実に。
俺たちの夜は、続いていく。
何も変わらないように見えるけれども、少しずつ形を変えながら。




