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第9話:わたしがあなたたちに食べてほしいトマトスープ。あなたがわたしたちに食べてほしいクロックムッシュは『宝物庫』に


 夏は日が長くなる。シェリーはヴァンと一緒に鎧馬のダイスに騎乗し、同じく鎧馬のカナリアに乗ったライルと三人で、エラヴァンスの街の中心部へ買い出しに繰り出した。


 効率だけを重視するなら、ライルが郊外の家に戻ってくるのは賢い選択ではない。依頼達成の報告を街のギルドにした流れで、そのまま買い出しを済ませるほうがスムーズだ。しかし父親であるヴァンは、それを許さない。必ず一度家へ戻ってくるように、きつく言いつけている。放任主義のように見えて、依頼を終えた息子の様子をいち早く確認したいからだろうと、シェリーは勝手に思っていた。


 買い出しはふた手に分かれて行う。


 シェリーはライルと共に日用品と少しの食材を購入して回るのが担当だ。ヴァンはひとりで酒を仕入れに行っていた。同居してすぐの頃は、彼が酒を買いすぎないように同行したこともある。だがそれは数度同行するだけでやめてしまった。きっかけは同居してふた月ほどが経った頃、ヴァンについて酒屋へ行った時、女性たちからの悋気に気づいたからだ。


 ヴァンの馴染みの酒屋があるエリアには、いくつもの飲み屋が軒を連ねている。買い出しをするのは、基本的にライルの帰宅後、昼を過ぎて夕方になるかならないかという時間だ。飲み屋で給仕をする女性や夜の仕事に就く女性が活動をはじめる時間と重なり、シェリーもそういった女性たちと遭遇した。


『ヴァン、一杯飲んでってよ!』

『ねえ、隣の子は? 見ない顔だけど、どこのお店の子?』

『今日は先約があるのね。じゃあ明日はアタシと過ごしましょ?』


 惜しげもなく肌を晒す薄着の女性たちは、次々とヴァンに声をかけていく。彼は変わらぬ調子で「おー」と軽く手を上げていたが、顔見知り程度の関係でないことは明白だ。その時までは女性たちの視線も、そんなに厳しいものではなかった。変わったのは、ヴァンが何気なく言った事実のせいだ。


『店の女じゃねえよ、同居人だ、同居人』


 彼の隣にいたシェリーは、一気に自分に向けられる目が冷たくなるのを察した。


 当時はヴァンの同居人というだけで、悋気の矛先を向けられる理由がわからなかった。彼は金持ちでもなんでもなく、子持ちの飲んだくれで、冒険者とはいえ休業中の男だ。同性から見ても美しい彼女たちなら、何もヴァンでなくとも、いくらでもいい男を選ぶことができるだろうと、漠然とそう思っていた。


 だが今ならわかる。


 たくましい身体と精悍な顔立ち――四十男の気だるげで、どこか退廃的な色気は、男を知る身体の女を惹きつける魅力がある。その上、頭の中がとろけてしまうほどの快感と充足感を、惜しみなく与えてくれるのだ。粗野な口調とは反対に乱暴なことはまったくせず、それゆえにか、自分を守ってくれるのではないかと、彼に対して理由のない安心感を抱いてしまう。


 ヴァンと関係を持っていなかった当時のシェリーは、当然、そんな理由こそわかりはしなかったが、男女のあれこれに巻き込まれるのは遠慮したかった。理不尽に厳しい目を向けられるのも、冷たい態度を取られるのも、望んではいない。それに、その手の問題はもう充分なほど経験している。逃げた先で再び渦中に飛び込む気はさらさらなかった。


 問題が起きて逃げられる状況なら、耐え忍ばずにさっさと逃げる。それが人生の教訓になりつつあったため、彼女は酒を買いに行くヴァンに同行するのをやめて、ライルと日用品と食材の買い出しをすることになった。


 それが今でも続いている。否――ヴァンと身体の関係を持つようになった今なら、なおさら、ヴァンに同行するという選択肢はなかった。


 市場で野菜を見て回る。もうすぐ店じまいをするからか、商品はほとんど残っていない。売り切るために少しばかり値下げされた品物を購入していく。


「今日はトマトが安いみたいね。スープにしたら食べてくれる?」


 隣のライルに問えば、彼は小さく頷いた。


「……ぁ、ぅん……ベーコン、おっきいの、入ってるなら……食う」

「じゃあベーコンも買っていかないとね」

「……ん……」


 ひと回りほど年下の少年は、荷物を持ってくれている。木を編んで作った籠を持ち、その中には購入した日用品や食品などが入っていた。固いものや重いものから買って回り、野菜や肉などの生ものや、主食のパンなどは後半で購入するのがいつもの流れだ。


「パンも買わないとね。今日はどこのお店がいいかしら?」

「あ……おれ『宝物庫』が、いい」

「『宝物庫』……ああ、三角パンのところ?」


 三角パン――三角形の生地の中にいろいろな具材を詰め、中身がこぼれないように縁を潰したパンを思い出す。トマトとチーズを詰めたものもあれば、野菜の塩漬けと卵のフィリングを詰めたもの、揚げた鶏肉と香草を詰めたものもある。周りを塞いでいるため見た目は飾り気がなく、角の取れた三角形のパンだ。


 シェリーが『宝物庫』という店の三角パンを思い浮かべながら尋ねると、ライルは大きな目を輝かせてやや興奮気味に「うん」と頷いた。


 彼に食べたい物があるのなら、それを優先したいと思う。味はわからなくとも、美味しそうに食べるライルの顔を見ていれば、不思議と胸の奥が満たされるのだ。考えてみれば、ずっとずっと昔――まだシェリーが少女だった頃、父との食卓がそうだったような気がする。あまりにも遠い過去の記憶で、はっきりと覚えてはいないのだけど。


「わかったわ、『宝物庫』に行きましょう」


 彼女はトマトとタマネギを買い、食費用の財布から支払った。


 食費も日用品もきっちり三等分で折半するというのが、同居に際して決めた事柄だ。シェリーはライルが子供であることを懸念したが、三人の中で一番食費がかかるのが彼であることや、冒険者としての収入があることから、折半案が採用された。それ以来、毎月決まった金額を財布に入れ、月末に残った分は貯蓄に回している。もっとも貯蓄といっても、家の修繕費などにちょこちょこ使っているためあまり貯まってはいないのだが。


 シェリーは購入した野菜を持った。買い出しの際、購入した物はライルとシェリーで分けて持つことにしている。最初の頃、冒険者であるライルは自分が持つとたどたどしく主張し、その度に年長者であるシェリーは、荷物が持てないほどか弱くないと笑った。そして今は分担することで落ち着いている。とはいえ、ライルのほうが多く、あるいは重いものを持ってくれていた。ふたりのことを、何も知らない第三者が見れば、あまり似ていないが仲のいい姉弟だと思うことだろう。


 野菜を買ったふたりは、肉屋に寄って少しの精肉とベーコンも買った。残すのは潰れやすいため最後に買うしかない、パンだけだ。


 横に並んだふたりは人の波を避けて、道の端を歩いて進んでいく。


 『宝物庫』はエラヴァンスの街でも、住民外に近い場所にあるパン屋だ。安くて美味しい上、ひとつでもお腹いっぱいになれるボリュームだと評判の店である。店主夫婦と息子夫婦の四人で営んでおり、こじんまりとしているが、雰囲気はあたたかく常連客も多い。


 店の中に入れば明るい声に迎えられた。


 ライルは真っ直ぐ三角パンが並ぶ陳列台に向かって行く。


 シェリーは店内を見回して、保存の効く固焼きのパンをいくつか選んだ。木製のトレーに取ってライルのほうへ行くと、彼は三角パンをこんもりと乗せたトレーを手に、じーっとひとつのパンを見ている。


「クロックムッシュ?」

「……食べたこと、ない……うまそう……」


 クロックムッシュの前には手作りのカードが置かれ『二種類のチーズとハム、ホワイトソースを特製食パンでサンドしました!』と書かれていた。中身の説明を読むだけで味の想像がつく。子供の好きそうな組み合わせだ。表面がこんがりと焼かれた見た目も食欲を誘う。


「買わないの?」

「……二個、しかない……」


 ショボンと肩を落とすライルに、シェリーは小さな笑みを向ける。


「わたしとヴァンさんは半分こにするわ」

「ぅ……でも……オヤジも、シェリーさんも……おれより、でかいのに……」


 半分で足りるの? と言いたげな少年の頭を、彼女はくしゃくしゃと撫でた。


「大丈夫よ。スープも作るもの。食べてくれるんでしょう?」


 塩がきつい、野菜が固い、味がブレている――婚姻中は作った料理をさんざん貶されていたこともあり、もう誰かのために料理をするつもりはなかった。しかし、クラム親子と出会ってすぐスープを作ってあげたいと思い、暮らしている内に、時々ではあるが実際に作るようになった。味見ができないため、本当はどうなのかわからないけれど、彼らは『美味しい』と言ってくれる。


 満面の笑みで「食うッ!」と言ってくれるライルは、いつも残さず食べてくれた。器に入れた分も、鍋に残った分も、翌朝まで残ってしまった分も、全て綺麗に、だ。彼だけではない。ヴァンも料理はもちろん、酒には合わないであろうスープまで、残さず全て口に入れてくれる。空っぽになった鍋や、何も残っていない皿を見る瞬間が、彼女は好きだった。


 二年目を迎えた同居生活。


 シェリー=グリーンはそれなりに充実した日々を過ごせていた――


 ――海の向こうに太陽が沈みかけている。小高い崖の上にある赤い屋根の家に戻って来た頃、夕暮れの時間を迎えていた。買い出しを終えて帰宅すると、ライルはすぐ鎧馬の世話をするため厩舎に向かう。シェリーはヴァンと共に荷物を家の中に運び入れた。


 太陽が真上にないとはいえ、季節は夏だ。手を洗い、滲んだ汗を拭って、再び手を洗う。何度も手を洗うのは魔法薬師に多く見られるクセだ。


 手早く荷物を片づけて、ライルに約束した大きなベーコンが入ったトマトスープを作った。野菜を刻み、熱して脂が浮いたベーコンと、カットしたトマトと一緒に炒める。適度に火が通ったら水を入れて煮込んだ。複雑な味つけはできない。味見ができない以上、どうなるかわからないからだ。ベーコンの塩味を考慮して、慎重に塩を加えた。たくさん煮込めば野菜やベーコンの味が融け出て、少しの塩でもそれなりの味になる。


 赤いスープを混ぜていると、うしろから月光水草の甘い香りがした。


「キッチンは禁煙よ?」

「吸ってねえ」


 振り返ればヴァンは本当に吸っていない。どうやら残り香だったようだ。だが煙の香りは濃く、今の今まで吸っていたのだろう。


「お腹空いたの?」

「いんや、別に。何かやるか?」

「じゃあ、竈の火でクロックムッシュを温めてくれる? フライパンはあそこね」

「おう」


 リビングとキッチンの間には口の広い石窯があった。腰の高さほどの位置で、薪を燃やして使用する。口が広いため暖炉替わりにもなる石窯は、竈が塞がっている時は調理に使っていた。ヴァンが温めたフライパンにクロックムッシュを乗せた。


「目を離さないでね」

「ああ?」

「すぐ焦げるの。ライルくんが楽しみにしてたから」

「楽しみにねえ。だから同じの二個も食う気なのか」


 ヴァンが「食い意地の張ったガキだ」とおかしそうに笑う。そんな彼に彼女は小さく笑い声を漏らした。


「違うわ。ライルくんの分と、わたしとあなたが半分こにして食べる分よ……優しい子ね」

「そういうのは、甘いっつーんだよ。それで冒険者としてやっていけんのかって話だ」

「……素直じゃない人」


 鼻を鳴らした彼にもう一度「焦がさないでね」と言えば、ヴァンは嫌そうに「コイツは細かい火加減の調整なんざできねえんだよ」と石窯への文句をこぼす。そう言いながらも、彼が焦がさないように上手に焼き上げてくれることは知っている。


 慌ただしく家に駆けこんで来る足音を聞きながら、シェリーはそっとトマトスープを火から下ろした。






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