第8話:二度目の夏
赤い屋根の家で過ごすシェリー=グリーンの元に、二度目の夏が訪れた――
彼女がエラヴァンスの街に移住して、もうすぐ一年が経とうとしている。尊厳を踏み躙られる結婚生活から抜け出して、およそ一年。その時間を長いと感じるか、短いと感じるかは、人それぞれだろう。生活の基盤を整えたり、体調の回復に努めたり、庭に薬草畑を開拓したり、魔法薬師ギルドに登録したりと、慌ただしい日々を過ごしたシェリーにとっては、あっと言う間の期間だった。
一年――変わったこともあれば、変わっていないこともある。
夜明け前に目が覚める習慣は、離婚して一年が経った今でも治らない。どんなに遅い時間に眠りについても、決まってその時間になると意識が浮上する。掃除をしている時、徹底的に隅まで綺麗にしなければと、ある種の強迫観念に襲われることもあった。味覚も、戻ってくれてはいない。味のしない食べ物を口にする度に、自分は未だあの家に囚われているのだと思い、嫌気がさした。
今日もまた夜明け前に目が覚めた。起きたばかりでも頭の中はクリアだ。シーツの中で身じろぎ、今日の予定を脳内で確認していく。
(納品はなかったわね。でも、薬草の処理をしないと)
魔法薬師ギルドに登録したシェリーは、ギルドから依頼を請け負う形態で、フリーの魔法薬師として働いていた。商会や魔法薬品店から直に依頼を請けることも考えたが、報酬の交渉から何から、商売に関係するあらゆる手間を考えてのことだ。ギルドに間に入ってもらったほうが、税務関係の手続きが圧倒的に楽であり、報酬などの支払いで揉めることもない。
また、聖教会への寄付も続けている。月に一度、直接教会へ持って行き、シスター・リネットと近況報告を兼ねて話をするのが毎度の流れになっていた。知人だったシスターとの関係は変わり、今では数少ない友人のひとりとして付き合っている。
そして、関係が変わった人物はもうひとりいた。
ベッドの中で、彼が身じろぐ。
「……ん……まだ寝てろ……」
後ろから伸びてきた太い腕が、衣類を何も纏っていないシェリーの腰に回り、そのまま引き寄せられた。背中に直接伝わる肌の温度と熱い吐息に昨夜の情事を思い出し、彼女の身体はぴくりと震える。
彼の部屋は彼女の部屋以上にものが少なく、家具もベッド以外ほぼ何も置いていない。申しわけ程度に中身が少ないクローゼットがあるだけだ。床には酒瓶が転がって、シェリーが横になっているベッドのシーツには、酒と煙草と彼の香りが染みついている。
ヴァン=クラム――同居人である彼との関係が変わったのは、四か月ほど前のことだ。
冬が終わって春の足音が聞こえてきた頃、なし崩し的に男女の関係を持った。特に大きなきっかけがあったわけではない。もうひとりの同居人――彼の息子のライル=クラムが冒険者の仕事で家を空け、ふたりきりの夜を過ごしていた。それまでにも何度もライルがいないことはあって、何もその日が特別だったわけではない。
お互いに酒が入り、ヴァンのはだけた服の胸元から覗く鎖骨が色っぽく見えた。彼の黒い瞳と目が合って、向こうにも確かな熱が潜んでいるのが見て取れて、重なった手の感触が妙に肌にしっくりきて――なんとなくそんな雰囲気になり、半年以上を共に過ごす間に芽生えた信頼に背を押され、情欲に流されるまま、肌を重ねたのだ。
それ以来ライルが月に一度か二度、数日に渡って家を空けるタイミングで、どちらからともなく身体を求め合っている。向こうがどう思っているのかはわからないが、少なくともシェリーにとっては心地のいい時間だ。
(肉欲に溺れるって、こういうことなのかしら)
ヴァンとの朝を迎える度にそう思う。
元夫のエレズ=シドニアとの性行為は、痛く、苦しく、耐え忍ぶばかりの酷く一方的なもので、快楽どころか嫌悪感しかなかった。早く終わってほしいと目をつぶり、ただただ過ぎるのを待つだけの時間だった。
しかしヴァンとの行為は違う。口調や仕草だけ見れば、細身の優男と評される元夫より遥かに粗野で乱暴なのに、シェリーの身体に触れる彼の手も、指も、舌も、全てが丁寧だった。羞恥心や苦手意識を一枚ずつ剥がしていくかのように、ゆっくりと彼女の身も心もほぐしてくれる。何度も何度も、頭の中が融け切ってしまうほどの快楽を与えてくれて、彼とひとつになる頃には余計なことは何も考えられなかった。ただひたすら、頭の中はヴァンいっぱいで、彼を求めてしまう。
身体が繋がった瞬間の多幸感。揺さぶられている時の充足感。虐げられた心の傷は埋まらないまでも、彼の体温に触れている間だけは全て忘れていられる。心身共に満たされる感覚は彼女にとって初めてのもので、年上の男の手練手管に若い身体が溺れてしまうのは、致し方ないことだった。
目を閉じる。
背中にヴァンの鼓動を感じた。彼のぬくもりに身を委ねていると、次第にまぶたは重くなる。クリアだった脳内がまどろみの中に沈んでいき、いつの間にか彼女は再び眠りについていた――
――不意に、甘い香りがした。
シェリーは目を開ける。目覚めはいつでも一瞬だ。背中にくっついていたはずの、彼の温度がない。寝転んだまま反対側を向けば、身体を起こしたヴァン煙草を吸っていた。
彼女と同じく彼も何も纏っていない。シーツに隠れていない上半身が露わになっている。四十三歳という年齢を感じさせない身体は、冒険者稼業を休業中だとは思えないほど、鍛えられていてたくましい。肌の瑞々しさこそないものの、筋肉がバランス良くついていた。薄暗い中でもわかる大きな古傷も、暗くてはわからない小さな古傷も、彼の身体にはいくつも残っている。
ジッと見ていると、彼がこちらに視線を落とした。
「痛むの?」
シェリーが尋ねる。
痛み止めの成分――月光水草の香りを含んだ煙だ。
「ンなことねえよ。お前さんの配合はよく効く」
「何が『そんなことない』よ。痛むから吸っているんでしょう?」
「そう心配すんな。痛みっつーより、口寂しかっただけだ」
「ぁ……」
ヴァンの顔が近付いてきて、唇を食べられた。
「ん……っ……」
煙草の香りがする。熱い唇と濡れた舌の感触に、脊椎に甘い痺れが走った。
彼の唇はすぐに離れていく。惜しむように去って行く先を目で追っていると、ヴァンが片目を細めてニヤリと笑った。
「おいおい、オッサンに朝から頑張らせるつもりか?」
「……ダメ。雨が近いから、デル草の処理をしておかないと」
「手伝うことは?」
ヴァンの骨張った指が、枕の上のシェリーの髪を梳いた。
「今日はライルくんが戻ってくるわ。彼が帰ってきたら、買い出しに行きましょう。それまでゆっくりしていて」
「おう、じゃ、そうさせてもらうか」
そう言うと、彼は煙草の灰を灰皿に落とし、再び薄い唇で咥える。口元の無精ヒゲは昨日よりもわずかに伸びていた。煙草を挟む骨張った指と、薄い唇、気だるげに吐き出す姿をそのまま見つめていたい気もしたが、彼にも言ったように今日中にやらなければいけないことがある。
シェリーは重い身体を起こすと、シーツを巻いてベッドを降り、散らばった下着と服を集めた。そしてヴァンの部屋を出て、シャワーを浴びるため浴室へ向かった――
腹痛に効くデル草は、よく乾燥させることで効果が増幅するが、水分を吸収しやすい性質がある。そのため調合を行うのは湿度の低い日でなければならない。
清潔なローブを身に纏った彼女は、地下の工房で調合を行う。もとは食糧を保管するための空間だったが、食にこだわらないクラム親子はまったく利用していなかった。そこに通気口を作り、竈を置き、棚などを設置し、狭いが使い勝手のいい工房をこしらえた。
乾燥させたデル草を粉砕し、その他の薬草と共に焙じていく。細かく粉砕してから、水魔法で生成し光魔法で浄化した水を触媒に、薬草を混ぜて魔力を込める――水薬を瓶に詰め終えると、シェリーはキッチンへ戻った。
リビングにはヴァンの姿がある。窓の外を眺めながら煙草の煙を燻らせる彼に背を向け、キッチンでふたり分のお茶を淹れた。彼女がブレンドした特製のハーブティーだ。ヴァンやライルには『苦行茶』と不名誉な呼び名をつけられたが、味覚の不在をこれ幸いとばかりに味よりも効能を重視している。
煙草を吸う彼の前に出すと、嫌そうな顔をされた。
「今日の、いつもより多くねえか?」
「いつもと一緒よ」
「………………」
ヴァンは険しい表情のままカップに口をつける。眉間に深い皺が刻まれた。ただでさえ強面の顔を、より険しくしながらも飲んでくれるのは、彼女のブレンドしたハーブティーの効能がわかっているからだろう。良薬は口に苦しとは、先人は上手いことを言ったものだ。
各種魔法薬の材料の採取や育成を手伝ってもらう代わりに、シェリーはヴァンが吸う煙草のシャグの調合を引き受けている。以前のものは使用する者全員に平均的に効く配合だったが、シェリーはヴァンの体調や体格に合わせて彼専用の配合をしていた。そのためヴァンは以前よりも大きく調子を崩すことはなくなり、慢性的な痛みも和らいでいるようだ。
(――とはいえ、根本的な治療にはならないのだけど)
月光水草の煙草は、あくまでも痛みを抑えて日常生活を送りやすくするためのものだ。一年間ほど同居し、身体の関係を持った今でも、彼の抱えている痛みの原因は知らない。ヴァンが治療院に通っている様子もなく、本人は今さらどうしようもないと確信しているのか、詳細を話すのを避けている節があった。
彼女の肌感覚では、ふたりの関係は、ヴァンの身体について追及できるだけの距離感ではない。月光水草の煙草は労働への対価で、今の距離でできるお節介はといえば、苦行茶と称される疲労や体力の回復効果がある特製ハーブティーを毎日淹れることくらいだった。
彼の正面の椅子に腰を下ろし、お茶を飲みながら薬草関連の本を読む。半分ほど読み終わった頃、家の外で鎧馬の嘶きが聞こえた。どうやらライルが帰宅したらしい。
十二歳になったライルは相変わらず小柄なままだ。成長期はまだ訪れる気配はなく、おそらく同年代の平均的な体格よりふた回りほど小さいだろう。しかし冒険者としての腕はメキメキ上がっているようで、一年でDランクからCランクに上がり、近い内にBランクに昇格するかもしれない……という位置につけているらしい。
父親であるヴァンの教育方針で、ライルはDランクの内は一泊二日で行けるまで距離の依頼しか請けられなかったそうだ。だが今では五日以内に戻ってくることを唯一の条件に自由に選択できるのだと、Cランクに昇格した時、ライル本人が嬉しそうに言っていた。
バン、とドアが開き、黒髪の少年が飛び込んでくる。
「ただいま!」
「おー」
「おかえりなさい」
ライルはシェリーとヴァンがいるテーブルのほうへ近付いて来た。手を腹の前で組み、モジモジしている。
(どうしたのかしら?)
シェリーが首を傾げると、ライルは頬を赤く染めて黒い目を泳がせた。
「ぉ、おれ……おなか、すいた……」
「買い出しはこれからなんだがな」
「ぐ……! 何もないの?」
「クッキーとお茶があるわ。わたしたちが支度する間、摘まんでいて」
「えっ!?」
彼の三白眼がテーブル上の、独特の香りが残ったカップを映した。喜ぶわけでもなく、愕然とした顔をするのはどんなお茶が入っていたのか知っているからだろう。あわあわ手を忙しく振っているが、シェリーに面と向かって『いらない』とは言える性格ではない。それをいいことに、彼女は特製ブレンドのハーブティーと、これまた疲労回復効果が高い特製クッキーを振る舞うのだった――