第6話:クラム親子と『青空と大地と赤い風船』・中
ライルが手伝ってくれたこともあり、空き部屋の掃除は思っていたよりも幾段と早く終わった。
普段から掃除などの家事をし慣れていたのだろう。シェリーが何を言うまでもなく、少年は手際よく動いてくれた。濡れた雑巾で床を拭いたあと、乾いた雑巾で二度拭きしてくれた時は驚き、つい何気なく「すごいわね」と声をかけた。父親曰く人見知りで緊張しいの息子は肩を跳ねさせて「ふ……ふつ、う!」と、真っ赤な顔で言う。照れくさそうにはにかみ、三白眼を泳がせる姿はかわいらしいものだった。
部屋の中の家具と呼べるものは、ベッドと机、クローゼットくらいだ。決して広くはない空間だが、なんの気兼ねなく好きに過ごしてもいい、自分だけの場所なのだと思うと、その手狭な空間にも愛着を抱けそうな気がした。
片付ける荷物は少ない。ライルにそう告げれば、彼は逃げるように、それでも「なっ、何か、あったら……呼んで……!」と言い残して出て行った。トランクケースを開けて中身を移し、そう時間が経たない内に、リビングに戻る。
(この香り……)
足を踏み入れてすぐ、煙と嗅ぎ慣れた薬草の匂いが漂ってきた。出どころは想像通りヴァン=クラムである。彼はテーブルに足を乗せ、椅子の背もたれに身体を預けて手巻き煙草を燻らせていた。窓は開いているが、風向きのせいか煙は外へ逃げていかない。最初に顔を合わせた時、彼からは酒と魔法薬の匂いがしていた。手巻き煙草の中身――シャグには魔法薬が染み込ませてあるのだろう。
シェリーが近付くと、ヴァンが目だけを向けてきた。
「おー、終わったか」
「ええ。ライルくんのおかげで早く終わったわ。ライルくんは?」
「表で鎧馬の世話だ」
鎧馬は魔獣の一種である。発達した骨が鎧のように全身を覆う生物で、防御力の高さから冒険者が好んで乗ることで有名だ。骨の鎧は獣の角や牙に近い素材で、十数年に一度剝げ落ちる。剝げ落ちた骨は魔法薬の材料として使用されるため、シェリーも何度か取り扱ったことがあった。
「鎧馬がいるの?」
「おう。裏の厩舎にな。見に行くか?」
「いいの?」
「ついでに乗ればいい」
思いがけない提案に彼女は青灰色の目をまたたかせる。
「え?」
「買い出しにも行かねえとだしな」
ヴァンは短い黒髪を掻くと、咥えていた煙草を灰皿に押しつける。そして緩慢な動きで足をテーブルから下ろすと、気だるげに立ち上がった。背中が丸まっているのに背が高い印象を受ける。凛と伸ばしていれば、見上げなければならないほど高いのだろう。
財布を手に歩き出した彼を追って、彼女も家を出る。
赤い屋根の家の裏手に回ると、木造の厩舎があった。普通の馬よりもひと回り以上大きく、筋肉質な体躯の鎧馬が二頭、ライルが与えたのであろう若草を食べている。
「思っていたよりも大きいわ」
「右がダイス、左がカナリアだ」
カナリアが鼻を鳴らした。動く鎧馬を見るのは初めてだ。
飼葉ではなく新鮮な若草しか食べないと聞いていたが、本当にそうらしい。少し離れた場所でライルが草を刈り取っている。普通の動物ではなく、魔獣が好んで食す、魔素が多く含まれた草だ。餌として育てているのだろう。風魔法を使用しているらしく、ライルを中心に円形に刈られた若草が、風に運ばれて一か所に集められていた。
ぶるる、と今度はダイスも一緒に二頭の鎧馬が鼻を鳴らす。
怖くはなかった。野生の魔獣は人を襲うが、きちんとした契約魔法の元、使役された魔獣は無暗に人間を襲わない。攻撃するとすれば、契約者が命じた時だけだ。そしてこの場合、鎧馬の契約者であるヴァンかライルかが、シェリーに攻撃を仕掛ける理由はない。
「鎧馬に乗ったことは?」
「あると思う?」
「ないだろうな。一応聞いてみただけだ。俺と相乗りでいいだろ? ライルとは無理だろうしな。途中で落ちかねん」
「そうね。落ちるのは嫌だわ」
シェリーが肩を竦めて言うと、ヴァンが「ハッ」と鼻で笑った。
「落ちるのはお前さんじゃなくてうちのガキだ」
「……ライルくんが落ちたら、わたしも落ちるじゃない」
「そん時は助けてやるよ」
ケラケラ笑うヴァンに、シェリーは短く息を吐く。
「どこまで信じていいものかしらね」
「信じろ信じろ。こんなのでも冒険者だぞ?」
「それはグローリアス夫人に聞いてるわ。冒険者の親子だって。でも……」
「ああ、なるほどな。俺が休業中だってのが気になってんのか」
父親が、一家の大黒柱が、休業中。
クラム家が――彼が家賃を折半しなくてはいけなくなった理由は、その辺にあるのだろう。冒険者が休業する理由でもっとも多いと言われているのは――
「怪我をしたの?」
「どう思う?」
答える気があるのかないのか、ヴァンは先ほどと同じ言葉を繰り返した。彼の横顔を見上げるが、感情を読み取ることはできない。
「痛むんでしょう?」
「あ?」
「手巻き煙草、月光水草の匂いがしたわ。主な効能は鎮静作用。痛み止めで使われる薬草よ。他にも解熱剤や炎症を抑える魔法薬も加えてあるわ」
「さすが魔法薬師サマだな」
シェリーは眉を寄せた。
「茶化さないで」
「悪い悪い。そう怒んなって」
「べつに怒ってないわ」
ヴァンがシェリーのほうを向く。彼は軽い調子で笑っていた。その軽薄な笑みを向けられると、真面目に取り合うのが馬鹿らしくなる。
出会った瞬間、そしてリビングで、煙の中にほんの微かに混じる、月光水草特有の爽やかな甘い香りを感じた時、同居人の身体に何か異常があるのだと察した。お金のためだけに魔法薬師をしているわけではない。茶化されて怒ってなどいない。ただ――万全の体調ではなく、痛み止めを常用しているのであろう男が、心配だったのだ。
青灰色の目で見つめると、ヴァンが頭を掻いて視線を逸らした。
「こうなったのは昨日今日の話じゃねえ。その、なんだ。あんまり気にすんな」
「そう……」
「ンなことより、買い出し行かねえと、うちにゃあなんもねえぞ」
「何もないって……普段どうしてるの?」
「俺ぁ、酒さえあれば生きていける」
「そんな人間いないわ」
呆れて溜め息を漏らすシェリーに、ヴァンは笑いながら「ここにいるだろ」と言っていた。そして右側の鎧馬――ダイスに近付いていく。ダイスは鼻先をヴァンに擦りつけ、おとなしく厩舎の外へ出された。
シェリーが様子を見ていると、彼は鎧馬に鞍などを手慣れた様子で装着していく。そして準備を終えたのか、馬体の左肩側に立ってシェリーを呼んだ。
「乗り方はわかるか?」
「普通の馬と同じなら、あぶみに左足をかけて、地面を蹴るのよね? それで鞍を掴んで身体を引き上げる……合ってる?」
「おう合ってるぞ」
頷くヴァンと、鎧馬を順に見る。普通の馬以上に巨躯だ。シェリーはきゅっと眉を寄せて彼を見た。
「乗り方はわかるけど、あぶみまで足が上がらないわ」
「だろうな。ほら、こっち来い」
ヴァンが手を差し出してくる。
逡巡して、その手を取ると、彼はその場で片膝を着いた。
「右足、俺を踏み台にして、左足をあぶみにかけろ。手で鞍を掴んだら押し上げてやる」
「踏み台って……」
「気にすんな。そんな上等なズボンじゃねえ」
繋がった手を軽く引かれる。
「……ありがとう」
シェリーはヴァンの太腿を踏み台にすると、左足をあぶみにかけた。繋がっていた手を離し、鞍を掴む。右足が彼の太腿から離れるのと、そう間を置かずして――
「っ!」
臀部と太腿を持ち上げるように押され、次の瞬間、シェリーは鎧馬の背にしがみついていた。視界が一気に高くなる。下から「身体を起こせるか?」と聞こえ、彼女はズルズルと不格好ながらに、なんとか上半身を起こした。
そして、鞍を掴むシェリーの手の傍に、大きな手がかけられる。ぐっと、振動が伝わってきたかと思うと、ヴァンは軽々と鎧馬の背に跨った。後ろから抱きかかえるように支えられる。一気に安定感が増して、シェリーの肩から力が抜けた。
鎧馬――ダイスが動き出す。
「ラーーイル!」
背後でヴァンが声を上げた。
「買い出し行くぞー!」
「今から!?」
「さっさと追いついて来いよー!」
ライルの「置いてくなーっ!」という怒鳴り声を背に、鎧馬が走りだす。顔にあたる風の強さに目を細めながら、シェリーは「待ってなくていいの?」と尋ねた。
「ああ? なんだって?」
聞こえていないらしい。
「待ってなくていいのかって聞いたの!」
先ほどより声を張って尋ねれば、楽しげな笑い声と共に「すぐ追いついてくる!」と返ってきた。後ろ――追いかけてくるであろうライルが気になるが、背後を見るために身体を捻る余裕はない。
夏の暑さを振り払うような、爽やかな風の中を走る。馬車で来た時よりも景色を見ることができた。海とエラヴァンスの街が下に見えている。どうやら思っていたよりも郊外から大きく外れた、街を一望できる小高い丘の上にある家だったらしい。
鎧馬のダイスは軽快な走りで、エラヴァンスの街の入口に辿りついた。馬車よりも遥かに早く到着し、かかった時間は三分の一ほどだ。ふたり乗りで、ヴァンが乗馬初心者のシェリーを気遣ってくれたとするなら、本来はもっと早く走れるのだろう。その証拠に、後ろを追ってきたライルと鎧馬のカナリアは、シェリーたちとほぼ同時に到着した。
一般的に、大きな街の近くには冒険者ギルドが管理する放牧場がある。冒険者の証であるカードを提示すれば、普通の馬などはもちろん、契約した魔獣まで無料で預けることができた。
放牧場では相性の悪い魔獣同士や、捕食関係にある魔獣同士が一緒にならないように考慮され、ギルドの責任で侵入防止の魔法陣が敷かれている。これにより大まかな種ごとによって区分けされていた。
ヴァンは冒険者稼業は休業中だと言っていたが、何も問題なくダイスを預けていた。仕事を請け負っていないだけで、資格はそのままにしているようだ。放牧場の受付にいる壮年の男は知り合いなのだろう。相乗りしていたシェリーの姿に目を丸くしていた。それでも余計な詮索をしてこない辺り、ギルドに雇われた職員らしい性質を感じる。
再び、エラヴァンスの街に戻って来た。
「俺は日用品を買いに行くが、シェリー、用事はあるか?」
ヴァンの問いに首を振る。
「近い内に商業ギルドに行く予定だけど、今日でなくてもいいわ。グローリアス夫人と正式に契約してからって思っていたから」
「そうか。じゃあ、うちのと一緒に今日と明日のメシ、買ってきてくれ」
「ええっ!?」
声を上げたのはライルだ。
「おれ、ひとりで……」
チラ、チラと、少年がシェリーの様子を窺ってくる。ライルの考えていることは手に取るようにわかった。気まずいからひとりで行くと言いたいが、それをシェリー本人に聞かれるのはさらに気まずい――と、そんなことでも考えていそうな顔だ。
しかし父親はそれを許さない。
「バカ言うな。シェリーは街に来たばっかだぞ。安くて美味いとこ、案内してやれ」
「う……」
「ヴァンさん、無茶言わないで。ライルくん、気にしないでいいわ。一度来ているし、わたしひとりでも大丈夫よ」
つい口を挟めば、ライルがハッとした表情でシェリーを見た。
「っ、ぅ……ぁ……ぉ、おれ……」
賑やかな雑踏の中で、少年の声はすぐ近くにいても掻き消されてしまいそうなほどに小さい。それでも何か言いたいことがあるのは、表情を見ていてわかった。皮肉な話だ。三年間の結婚生活で、人の顔色からある程度の感情は読み取れるようになった。それが役に立っている。
「ぁ、のっ、おれっ……」
「うん」
「いっ、一緒……で、いい……行こ、う……!」
真っ赤な顔で言ってライルが足早に歩き出す――
「待て、バカ息子」
「ぐえっ」
ライルの襟首をヴァンが掴む。
「何すんだクソオヤジ!」
「お前がさっさと歩いて行ったらはぐれるだろうが。護衛任務だと思って、ちゃーんとふたりで行け。いいな?」
「っ……わかってる! シェ、シェシェシェ……リー……さん! 行こ!」
「あ、ええ、うん」
勢いのままやってしまえ、とばかりに、ライルがシェリーの手を引いた。緊張しいで、まだ彼女という存在に慣れていないのは明らかなのに、精いっぱい頑張ってくれようとしている。
「よろしく頼むぜ」
それはライルへの言葉か、はたまたシェリーへの言葉か。ヴァンの楽しげな声を背に聞きながら、シェリーは少年と共に、エラヴァンスの街の中心へ向かって歩き出した――