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第5話:クラム親子と『青空と大地と赤い風船』・前


 シェリーは赤い屋根の家の中へ足を踏み入れた。後ろでドアが閉まる。玄関を開けてすぐの空間は、リビングダイニングのようだ。日常的に飲んだくれているのであろう男の様子から想像したよりも、家の中は片付いていた。


(……と言うよりも、家具が少ないのね)


 木製の四角いテーブルと、背もたれのある椅子がふたつ、あとはスカスカの食器棚くらいしかない。リビングから見えるキッチンスペースに調理道具などはなく、料理をする人間がいないのは見て取れた。


 勧められた椅子に腰を下ろす。テーブルの傍らには無造作に置かれた酒瓶の山があった。中身が入っているものもあれば、空になっているものもある。酒に詳しいわけではないが、安物ばかりで上物の酒はなさそうだ。


 男――ヴァン=クラムはテーブルを挟んだ向かい側に座った。


 一度吐いたからか、顔の青白さは先ほどよりもマシになっている。着替えた彼はシャツに腕を通しただけで、前のボタンを留める気はないらしい。第一印象の通り鍛えているのか、胸板は厚く、腹筋も割れていた。


「改めまして……はじめまして。シェリー=グリーンです」

「おう。ヴァン=クラムだ。歳の差はだいぶあるが、まあ、かたっ苦しいのはナシにしようぜ。そういうのは好きじゃねえんだ」

「ええ、わかったわ」


 まだ本調子ではないのか、それともそういう性格なのか、どことなく気だるそうな雰囲気だ。身体つきを見る限り病気ではなさそうだった。


 男性の身体なんて、ひょろりとした体躯のエレズのものしか知らない。父親ほど年上であろう人とはいえ、テーブルを挟んだ距離にいるヴァン=クラムのたくましい身体と雰囲気は、どことなく彼女を落ち着かない気持ちにさせた。なんだろう。妙な気分だ。


「まずは、これを。グローリアス夫人からのお手紙よ」


 シェリーは生じた動揺を振り払うかのように、夫人に用意してもらっていた紹介状を差し出す。


 その辺のものとは違う、上等な紙で折られた封筒だ。受け取ったヴァンはペーパーナイフを使わず、おもむろに素手で開封した。そして顎の無精ヒゲを撫でながら、手紙に目を通していく。不機嫌なのではないだろうが、眉間に皺が寄っていた。骨張ったひたいと皺のせいか、男はひどく強面に見える。


 読み終えるとヴァン=クラムは「あー」と低く声を漏らした。


「こっちとしちゃなんの異存もねえ。同居してくれんのはありがたいぜ。でも、お前さんはいいのか? 俺みてえなオッサンと、今は外に出てるが十一のガキなんて、若いねえちゃんが喜んで同居するような相手じゃねえだろ」

「一般的にはそうかもしれないけど、あまり気にはならないわ」


 堅苦しいのはナシにしようと言われたこともあり、シェリーの口調は軽いものだ。向こうが醸し出す雰囲気のせいか、気を遣ってこようとしない様子のせいか、はたまた開口一番に見た嘔吐のせいか、敬語を使わないことに気後れはなかった。


「グローリアス夫人やシスター・リネットが間に入ってくれているし、犯罪者だったり、倫理観も何もない社会通念からズレた人って風でもなさそうだし……まあ、いきなり吐いた時はさすがに引いたけど」

「そりゃ悪かったな。飲んだくれのダメオヤジなもんでね」

「……そうなの?」

「ライルのやつはそう言ってる」

「ライル……十一歳の息子さん?」

「おう」


 ヴァンが頷く。


「そのライルくんは心身共に健康に育ってるの?」

「あ?」


 ヴァン=クラムは一瞬怪訝そうな顔をした。だがシェリーがジッと見つめると、彼は短い黒髪をガシガシ掻きながら口を開く。


「まあ、そうなんじゃねえか? 身体は丈夫だぜ。病気ひとつしたことねえ」

「そう。だったら『飲んだくれのダメオヤジ』でも大丈夫よ。誰かを傷つけているわけではないんだもの」


 まだライル=クラムとは会っていないため、本当にその子が心身共に健やかなのかは不明だ。それでも彼の言葉通りなのだとしたら、自称飲んだくれのダメオヤジでも嫌悪感は湧かない。食事も、寝床も、家族の情も与えて、居場所を用意しているのなら、それでいいのだ。自分が嫌悪感や不快感を抱く対象は、彼のような人間ではないと、彼女はきちんと自覚していた。


 シェリーの言葉にヴァンは目をまたたかせる。髪と同じ黒い瞳が、観察でもしているのか真っ直ぐシェリーに向けられていた。


「なんつーか……ヘンなねえちゃんだな」

「ヘンでもいいけど、ねえちゃんって呼ばれるのは嫌よ」

「ん? ああ、そうかい、悪かった。シェリーでいいか?」

「ええ。そう呼んで」


 『ねえちゃん』と呼ぶくらい年下の小娘相手に、あっさり謝ることができるヴァンに、やはり悪い印象はない。はじめましてで吐瀉物の処理をさせられたことに思うところはあるが、それもシェリーが勝手にやったことだ。


「わたしはヴァンさんやライルくんと同居するのは、なんの問題もないと思ってる。でも実は、わたしのほうにも事情があるの。それを聞いてもらった上で、先に住んでいたヴァンさんたちが嫌だと思うなら、諦めるわ」

「事情ねえ……まあ、聞かねえことにはなんともなぁ」

「それはそうよね」


 シェリーは小さく苦笑すると、事情を説明していく。魔法薬師の仕事をしているため、匂いが出るかもしれない点や、素材等の保管で専用の部屋が必要な点、できればいずれ庭を開拓して薬草畑を作りたい点など、大きな問題から些細な懸念まで、正直に話した。


 話し終えて、ヴァンの反応を窺うと、彼はヘッと笑う。


「まったく問題ねえな。部屋も余ってる。お前さんの私室にひとつと、家の奥に物置きになってる部屋があるから、そこを片付ければ保管庫として使えるだろ。調合は……そうだな。当面はキッチンでも使ってくれ」

「いいの?」

「おう。見ての通り、料理するやつなんていねえしな。調合には火を使うだろ?」

「うん、全てではないけれど」

「その内、火を熾せそうなとこに専用の竈でも構えればいい。そこのキッチンじゃ手狭だろうからな」


 どうやらヴァン=クラムには魔法薬の調合についての造詣があるようだ。夫人からは彼ら親子は冒険者と見習い冒険者だと聞いている。魔法薬の製造過程を見たことがあるのかもしれない。


「ライルのことも気にしなくていい。匂いだのどうのでピーチクパーチク言うような繊細な性格じゃねえ」

「そうなのね……」


 父親であるヴァンが言うならばそうなのだろう。そしてクラム親子が問題ないと受け入れてくれるのであれば、今日からここがシェリーの新しい家になる。荷物は全てトランクケースに詰めて持ってきていた。


 けれど――


「承諾してくれてありがとう。でもやっぱり、ライルくんにも話しておきたいわ。取り決めの契約書を交わすのはそれからにしましょう」


 まったく事情を説明されていないのに、自分のいないところで大事な話が勝手に決まっているのは、誰だって嫌だろう。少なくとも、シェリーは嫌だった。踏みつけるだけ踏みつけて、その形を家族と呼んで、知らない場所で話が進んでいくのは。


「ライルくんはいつ帰ってくるの?」

「あー……今日は何日だ?」


 酒のせいか、日付けの感覚がないらしい。


「十八日よ。七の月の十八日」


 シェリーは肩を竦めて言った。


「そうか。ちょうど良かったな。あいつは今日帰ってくる予定だ」

「今日……? 外に出ているって……遊びに行っているんじゃなくて、日を跨いで帰って来ていないってこと?」

「そういう日もある。ライルは見習い中とはいえ、冒険者だからな」


 人々は自分の手に余る問題に直面した時、ギルドに報酬を提示して依頼を出す。依頼の内容は、逃げた猫探しから盗賊退治、魔獣の討伐まで多岐に渡り、難易度に応じてEからAまでのランクに振り分けられる。


 その依頼の解決にあたる職業が冒険者だ。


 冒険者もEからAにランク分けされており、各々の身の丈に合った依頼を請け、報酬を得ている。基本的に冒険者になるための試験などはなく、ギルドで名前などを登録し、指名手配されていないかなどの簡単なチェックにパスすれば誰でもなれる職業だ。中でも登録して五年以内の者や、Eランクの者、未成年などは、見習い冒険者と呼ばれるらしい。


「立派ね。十一歳でもう道を進んでるなんて」

「ハッ、見習い冒険者なんざ、まだまだケツに殻のついたヒヨッコだ」


 口ではそう言いながらも、ヴァンは黒の瞳をゆるく細めて笑っていた。ここにはいない息子を思う眼差しに、彼の父親としての顔を見た気がした。そんな顔もするのねと、見つめていれば、ふと視線が絡んだ。


「にしても……」

「なぁに?」

「いい女だな」

「え?」


 シェリーは目をまたたかせる。まだ酒が抜け切っていないのかもしれない。水でも飲んだらと勧めようとして、彼女は口を閉じる。強面だと思った貌が、親しげな笑みを乗せて笑っていた。


「会ったこともねえ、ガキのことまで気にしてくれんのか。いいやつだな。お前さんみたいな同居人となら、楽しく暮らせそうだ」


 穏やかになったヴァンの表情を見て、緊張がほぐれていく。ほぐれて初めて、シェリーは知らず知らずの内に自分が緊張していたことに気付いた。


 信頼していた幼馴染みと、優しかったおばさんは変わってしまった。もしかすると契約書を交わした瞬間に目の前の男も豹変するかもしれない……と、心のどこかで、そんな風に考えていたのかもしれない。自問したところで答えは見つからないが、そうでなければ、彼の笑顔から目が離せない理由がわからなかった。


 息子に飲んだくれのダメオヤジと言われているらしい、昼間から酒を飲んで酔っ払い、初対面で嘔吐するような男だけれど、なんとなく、信じられる気がした。


(いざとなったら、逃げればいいわ)


 辛く苦しい場所からは、案外、簡単に逃げられるのだと気付いた。


「正式に決まったら、その時は楽しく過ごしましょう」


 シェリーは青灰色の目を細めて微笑んだ――


 ――それからふたりは、彼の息子のライルが帰ってくるまで、とりとめのない話を続けた。お茶代わりに振る舞われたのが酒だったこともあり、シェリーの口は次第に軽くなる。


 気付けば、詳細こそ省いたが、結婚経験があり、昨日、離婚届を提出したことまで話してしまっていた。ヴァンは驚きながらも「元夫は惜しいことしたな。こんないい女、大事にしねえなんて」と慰めの言葉をかけてくれて、その上、家にある中で一番いい酒を開けてくれた。グローリアス夫人にもらったワインとのことだ。


 その酒が一本空いた頃、バンッと勢いよくドアが開き――


「オヤジー、帰ったぞー……お!?」


 ライル=クラムが帰宅した。


 十一歳の男子の平均を知っているわけではないが、小柄な少年だ。父親譲りの黒い髪はぴょんぴょんと無造作に跳ねている。黒い瞳がやや上に寄った三白眼は大きく見開かれ、彼にとっては見知らぬ女性であるシェリーを見つめていた。


 少年は固まっている。ドアを開け放った手もそのままだ。


「おー、帰ったか。シェリー、こいつがライルだ。おい、ライル。いつまでもンなとこに突っ立ってねえで、こっち来て挨拶しねえか」

「……っ……!? ……っ!!!」


 父親のヴァンの呼びかけにライルはハッとするが、手をブンブン振り回しながら言葉にならない言葉を発している。顔が真っ赤だ。パクパク開閉する大きな口から八重歯が覗いていた。


「っ、う、ぅぅ……だ、だだ……誰……っ!?」

「ああ? 今日から一緒に住む。同居人だ」

「同居人……っ?! 聞いてねえぞ!」

「今さっき決まったからな」

「勝手に決めんなクソオヤジ!!」


 シェリーから視線を外したライルは、ヴァンに噛みつかんばかりの勢いだ。真っ赤な顔で固まっていた姿とはまったく違う。小柄なことや動きの大きさと相まって、キャンキャン吠える子犬を彷彿とさせた。


 彼女は椅子を立って、少年のもとへ足を動かす。


(お酒は遠慮しておけば良かったかもしれない)


 ヴァン=クラムの前例を知っているため、初対面で酒の匂いを漂わせているのはいかがなものかと思うが、すでに飲んでしまっている以上どうしようもない。シェリーが距離をつめるとライルはピシリと固まった。逃げられないだけマシなのかもしれない。


 少年の前に膝を着く。


「はじめまして。シェリー=グリーンよ」

「ぁ……ぅ……」


 三白眼が左右に忙しく動いた。


「勝手に話を進めてごめんなさい。でもまだ正式に決まったわけじゃないわ」

「え!?」

「他人と一緒に暮らすのは、けっこう、大変だもの。先に住んでいたライルくんが嫌なら諦めるわ」

「ぅ……え……お、おれ……」


 下から見上げたライルの顔は真っ赤だ。視線は左右に泳ぎ、身体の横の小さな手は結んだり開いたりを繰り返している。彼に悪い感情を向けられているとは感じない。おそらく緊張しているのだろう。少年のそんな姿が微笑ましい。シェリーは答えを急かしたりせずに、ライルが落ち着くのを待った。


 だが、父親は待たない。


「ラーーイル、はっきりしねえか。小さくてもブツぶら下げた男だろうが。なんだ、嫌なのか? ああ?」

「う、うるせー! いやじゃねーよ!」


 ライルは反射的にヴァンを見て声を上げた。息子の返事に、ヴァンがにやりと口の端を吊り上げる。


「だとよ。決まりだ、シェリー」

「え? ええ……? いいの?」

「いい、いい。空き部屋掃除して荷物入れろ。ライル、手伝ってやれ」

「おれ!? なんで!?」

「力仕事だ。シェリーひとりにさせる気か?」

「オヤジがやれよ!」

「ヘッ、酔っ払いの力なんざたかが知れてらぁ」


 ヴァンはケラケラ笑うと、中身が少なくなった酒瓶を煽った。喉仏が上下する。水のように飲んでいるが、なかなか度数の高い酒だったはずだ。


 シェリーは立ち上がると、テーブルの飲んだくれに向けていた目を、正面の少年へ向けた。ちょうど彼もこちらを見たところだったのか――視線が交差する。目線の高さは逆転した。わかりやすく、ライルがピシリと固まる。


「本当に良かったの?」


 売り言葉に買い言葉だった気がして改めて尋ねた。


「っ、ぁ、お……おれ……その……」

「うん」

「おれ……い、いや……じゃない……で、す……」

「本当?」


 首を傾げながら問えば、ライルは頭が千切れるんじゃないかというくらい激しく、ブンブン首を振って頷く。顔が真っ赤だ。シェリーがつい笑ってしまえば、ライルの顔はますます赤くなった。


「っ、う……うぅぅ……っっ!!」


 そして少年はプルプルと震え――もう耐えられないとばかりに動き出す。


「へ、やっ、こっち……!」

「あ」


 ライルが家の中を進んでいく。後ろで、開けっぱなしだったドアが閉まった。シェリーは足を止めたまま、自分よりも小さな背中を見つめる。


「あがり症の緊張しいだ」

「え?」


 ヴァンは片足を太腿の上に乗せ、テーブルに肘をついて身体を預けていた。どことなく温かい色を浮かべた黒い目は、新しく開けた酒瓶に向けられているが――その温度の向く先が息子であるというのは、ひと目見てわかる。


「ええ、そうみたいね」

「けどまあ、待ってやりゃ言いたいことは言える。それか――」


 男が酒を煽った。ひと口飲んで、瓶から口を離す。


「おちょくって乗せてやれ。単純なガキだ」


 そう言って、ヴァンは再びケラケラと笑った。どうやらだいぶ酒が回っているらしい。


「あんまりからかうと、思春期に入った彼に、手ひどくやり返されるかもしれないわよ」

「上等だ。けちょんけちょんにしてやらぁ」


 ヴァンの大きな笑い声に、シェリーはふっと笑みをこぼす。


 この親子となら、逃げ出すようなこともなく、暮らしていけるかもしれない。先に行ってしまったライルのあとを追って、シェリーも足を動かす。


 シドニア家を飛び出してから――否、もしかすると、もうずっと前から暗い中にあった、自分の進む道というものが、ほんの少しだけ明るく照らされたような気がした――。






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